スタンダール『赤と黒』──スタンダールの恋愛観と情熱の持続(第4回)
スタンダール(1783–1842)にとって恋愛とは、
人間の情熱を最大限に輝かせる“結晶作用”の瞬間だった。
障壁があるほど想像力は燃え上がり、
人は相手を“特別な存在”として結晶化させてしまう。
『赤と黒』の主人公ジュリアンもまた、
挫折と死の影に追い詰められながら、
最後に“愛の成就”という形で情熱の頂点に到達する。
最終回となる今回は、
マチルドとレナール夫人という二つの恋愛を通して、
スタンダールが描いた「情熱の持続」と「恋愛の本質」 を読み解いていく。
→『赤と黒』第3回は、こちら
1.社交界の女王、マチルドの憂鬱
パリでジュリアンが恋愛する相手は、
社交界の女王的存在であるマチルド・ラ・モールである。
華やかな美人で機知に富み、
青年貴族たちの憧れを一身に集めるマチルドは、
名門貴族で国王の側近の一人であるラ・モール侯爵の娘である。
父である侯爵は、
見かけはいいが凡庸な息子のノルベール伯よりも妹のマチルドを愛し、
いずれ良い縁談で「公爵夫人」に――と、考えていた。
そんなマチルドであるが、本人は社交界に退屈していた。
前回で触れたように、
活力のない青年貴族たちにマチルドは魅力を感じなかったのである。
「宮廷の若い人達はとても「事なかれ主義」で少し毛色の変わったことというと、考えただけで真青になってしまう。
が、そんなことはあたしの知ったことではない。
ギリシャやアフリカの小旅行すらとんでもない大胆なことだと思っている。
しかも団体でなければ歩けない。
仲間からはずれたが最後、こわがってしょうがない。
それもベドウィン(北アフリカの勇猛な遊牧民族)の投槍を恐れるのならまだしも、世間の物笑いが恐ろしさに気が変になってしまうのだ」
――と、己の知力と胆力に並みならぬ自信を持つマチルドは、
同世代の貴族の若者たちをふがいなく思っていた。

2.ジュリアンとマチルドの恋愛――野心家どうしの恋愛
ラ・モール邸には立派な「図書室」があるが、
その部屋を愛してたびたび訪れるのは、マチルドと秘書のジュリアンだけである。
当時の社交界では“危険な思想家”とされていた「ヴォルテール」の本を好んで読んでいたマチルドは、
「図書室」でジュリアンと二人きりで何度も顔を合わせることになる。
常に周囲にちやほやされているマチルドは、
ジュリアンの無関心な態度に「ジュリアンは貴族の血統というものを少しも尊敬してはいない」とショックを受ける。
そして、「それどころではない、
自分に対しても愛情なんかいだいてはいないのだ!」と思うほど、
ジュリアンから目が離せなくなる。
その様子を見たジュリアンは、
内心では令嬢が自分に対して寄せる関心に戸惑う。
しかし、ここでひるむのは「英雄」らしくない行動だと考え、
恋人としての「役割」を堂々と果たそうとする。
そして、野心家らしく考えをめぐらせる。
「天の定めでおれみたいに卑しい身分に生まれついた、
みすぼらしい人間に、こんな機会はまた再びあるもんじゃない。
幸運にはめぐり合うかもしれないが、
どうせこんな目ざましいものではない……」。
そして、ジュリアンに劣らず野心的なマチルドも、
ジュリアンの身分によるハンデ(貴族社会では、家柄が何よりも大事であるから)を意識しつつ、考える。
「あたしはきっと何かの役割を、しかも立派な役割を演じることができるに違いない。
あたしの選んだ人はしっかりした気性と限りしれぬ野心を持っているんだもの。
あの人に足りないものは?友達だろうか、お金だろうか。
そんなものは皆あたしが拵えてあげるからいい」。
情熱的な気性――という共通点を持った二人は、急速に恋愛感情を燃え上がらせる。
愛娘とジュリアンの仲を知ったラ・モール侯爵は腹を立てるが、
最終的には「あの人が死んだらあたしも死んでしまいます」というマチルドの剣幕を前にしぶしぶながら降参し、
とりあえずジュリアンに婿としてふさわしい役職や財産を与えることにするのである。
3.スタンダールの恋愛に対する見解
『恋愛論』でスタンダールは、「結晶作用」について述べている。
一本のどうということのない枯れ枝が、
塩水に何度もひたされることによって塩の結晶がつき、
まばゆいばかりの光を放つように
――恋愛感情(強い情熱)による想像力が、相手を“特別な存在”に見せるのだ、と。
このように言うと、
スタンダールが恋愛感情に対して皮肉を述べているみたいだが、
スタンダールの言わんとしていることは違う。
スタンダールにとって、
強烈な想像力と情熱をかきたてる恋愛感情は、
とにかく素晴らしいものなのである。
ただ、ここで問題なのは、最高度の情熱なのだ。
結婚をして、穏やかな情愛に移行することは、
スタンダールにとってはあまり興味の対象にならない。
障壁があってこそ、恋愛の情熱は高まるのである。
『赤と黒』でいえば、
レナール夫人の場合は人妻であったこと、に障壁があり、
マチルドの場合は身分違いであったこと、が障壁になっているのである。

4.ジュリアンの挫折
ジュリアンとマチルドの婚約が決まり、
ラ・モール侯爵の口添えでフランス軍に入隊した(貴族の子弟の、第一の就職先)ジュリアンは、まさに順風満帆であった。
しかし、そこにレナール夫人から
ラ・モール侯爵あてに“ジュリアンのヴェリエールでの品行”についての手紙が届く。
一人でヴェリエールに残されたレナール夫人は、
信仰心とジュリアンへの愛の板挟みで悩んでいたのだが、
その悩みに司祭のマスロン師
(ジュリアンの師であるシェランの後釜。シェラン師とジュリアンを憎んでいた)たちがつけこみ、ラ・モール侯爵宛てに手紙を書かせたのである。
レナール夫人は、涙ながらに手紙をつづった。
このようなスキャンダルを避けるため、
ラ・モール侯爵はジュリアンと愛娘の婚約を取り消すことを決心する。
貴族であるからには、何としても「名誉」は重んじなくてはならない。
このような事態に及んでは、
愛娘が何と言おうと、ラ・モール侯爵は頑として受け付けなかった。
マチルドから手紙を見せられたジュリアンは、
ヴェリエールに行き、教会でレナール夫人に「ピストル」を発射する。
レナール夫人は肩に傷を負ったが、命に別状はなかった。
ジュリアンは「憲兵」にその場で取り押さえられ、
監獄に入れられた後、「死刑」の判決を受けるのであった。
現代人にジュリアンの行動は理解しかねるところがあるが、
ジュリアンとしては“「復讐」という断固たる行動”をとったつもりであり――レナール夫人に対しては個人的な恨みはなかったのである。
ここで、「牢獄」という障壁ができた。
マチルドの恋愛感情は、“ジュリアンを助ける”と燃え上がったが、
ジュリアンの方は違った。
マチルドに対する恋愛感情は冷静なものになり、
マチルドの将来にこれ以上差しさわりがあってはならないので、
自分にこれ以上かかわらない方がよい、と説得する。
一方で、「牢獄」に駆けつけ、後悔の涙を流すレナール夫人に
ジュリアンは改めて深い愛情を感じるのである。
この展開に、マチルドは納得ができない
5.スタンダール的恋愛小説
――のであっても、スタンダールとしては、納得の回答なのだ。
問題は、情熱の持続、なのである。
マチルドの場合は、
ジュリアンが「牢獄」から無事に出所できたとしても、
いずれ情熱は消えていく。
そもそもが、“ジュリアンの出世を助ける“賢妻”の「役割演じる」”ことが、マチルドの情熱であった。
「牢獄」から出ても、ジュリアンには出世の道はもう無いのだ。
マチルドのジュリアンへの情熱は、いずれ冷めていくだろう。
しかし、レナール夫人はジュリアンが出世しようと何だろうと関係がない。
レナール夫人は、深い信仰心と「子供たちへの愛」という障壁(罪の意識)を生涯感じるからこそ、ジュリアンに対する情熱は持続する――
というのが、スタンダールの見解なのである。
ジュリアンは、レナール夫人の自分への変わらぬ愛情をみて、初めて心がやすらぎ、激しい幸福感すら味わうのである。
というように、スタンダール的恋愛では、情熱が何よりも尊い。
そして、情熱が最大になったところで物語は終わるのである。

「マチルドは、恋人が自らえらんだ墓地までついて行った。
棺が多くの僧侶に守られてすすむあいだ、
人しれず彼女は黒布でおおわれた車に一人のって自分があれほどまでにいとしんだ男の首を膝に抱いてはこんだ」。
「人々の中に、マチルドは裾長の服につつまれて姿を現した。
そして式の終わりには、数千枚の五フラン貨幣をばらまかせた。
フーケ(ジュリアンのヴェリエールでの友人)と
二人だけ後に残り、自分の手で恋人の首を埋めたいというのであった。
フーケは悲しみの極、気を失わんばかりだった」。
「レナール夫人は(ジュリアンとの)約束を忠実にまもった。
すすんで自分の命を縮めようなどとはけっしてしなかった。
けれども、ジュリアンの死後三日目に、夫人は自分の子供たちを抱きながらこの世を去った」。
スタンダール『赤と黒』を、ジュリアン・ソレルの青年像・階級社会・1830年代フランスの歴史的文脈から多角的に読み解くマガジンです。
