渇きの果てに…禁断のコンダクター 第3話
昼休み。
まゆは、工場の休憩室の隅にある金属製のベンチに腰を下ろしていた。
作業着の膝には、うっすら油の染みが広がっている。
昼休みは、もう残りわずかだった。
スマホを握る手が、かすかに汗ばんでいる。
昨夜から、城山アダムスの言葉が頭から離れなかった。
「文章の奥にある“渇き”が、とてもリアルでした。」
ただ褒められたわけじゃない。
あの男は、まゆ自身も見ないふりをしていた感情を、丁寧に拾い上げていた。
三十八歳になって、誰にも触れられなくなった場所。
言葉にもできず、自分の内側で渇いていた部分。
そこへ、そっと触れられた気がした。
心の深いところがざわつく。
これは、単なる性的な高揚じゃない。
もっと深いところにある飢えだった。
“私”を見つけてほしい。
まだここにいるのだと、誰かに感じてほしい。
まゆは何度も下書きを打ち直した。
「ありがとうございます」
……違う。
そんなありきたりな言葉じゃない。
「あなたの文章に惹かれました」
それも違う。
重い女だと思われたくなかった。
身体を求めているようにも見られたくなかった。
欲しかったのは、もっと深いところだった。
誰にも見えなくなっていた自分を、言葉で見つけてもらうこと。
長い沈黙のあと、まゆはようやく文章を打ち込む。
「突然のメッセージで申し訳ありません。あなたのコメントを何度も読み返しました。もしよろしければ……あなたの言葉で、私を書いてほしいのです。私という人間が、どんなふうに見えているのか、知りたい。……それを知れたら、少しだけ救われる気がして。」
送信ボタンを押した瞬間、胃の奥がきゅっと縮んだ。
指先が、すっと冷えていく。
取り消せない。
そう思った途端、急に怖くなった。
まゆはスマホを伏せ、深く息を吐いた。
午後のライン作業中も、そのことが頭から離れなかった。
ベルトコンベアの音が、今日はやけに遠い。
段ボールを流しながら、ふと健一の顔が浮かぶ。
今朝も、
「まゆ」
と名前を呼ばれることはなかった。
「おい、味噌汁」
ただ、それだけ。
昔は優しかった
熱を出した時は、一晩中額の冷却シートを替えてくれた
今も悪気なんて、きっとない。
ただもう、私を見ていないだけだ。
まゆは、自分が少しずつ薄くなっていく気がしていた。
夜。
帰宅してからも、まゆはスマホを手放せなかった。
夕食の後片付けを終え、風呂を沸かしながら何度も通知を確認する。
けれど、返信は来ない。
九時を過ぎても。
十時になっても。
何度も画面を開いてしまう自分が嫌だった。
たかが一通のDMなのに。
それなのに、期待してしまう。
リビングでは、健一がテレビを見ながらビールを飲んでいた。
「つまみ、ないの?」
視線はテレビに向いたまま。
「今、出すね」
まゆは立ち上がる。
夫婦なのに、自分の気配だけが部屋の隅へ押しやられている気がした。
その夜、十時半を過ぎた頃だった。
不意に、スマホが震える。
まゆの心臓が跳ねた。
《城山アダムス》
震える指で画面を開く。
そこにあったのは、短い一文だった。
「ぜひ、あなたをモデルに書かせてください」
――まゆは、息を止めた。
洗面所へ向かい、鏡を見る。
頬が、わずかに赤い。
「……書かせてください」
丁寧な言葉なのに、低く甘い響きを帯びていた。
求められている。
身体ではなく、まゆという存在そのものを。
長いあいだ、妻という役割の中で埋もれていた自分。
工場のラインに流されるように働き、誰にも気づかれずに過ぎていく毎日。
そんな中で、アダムスだけが、“まゆ”を見つけようとしている。
自分の輪郭が、内側から少しずつ温まっていく。
それは単なる欲望ではなかった。
消えかけていた自分を、誰かがちゃんと見つめてくれる。
その実感だった。
ベッドに入ってからも、まゆはそのメッセージを何度も読み返した。
隣では、健一が寝息を立てている。
そのすぐ横で、まゆは知らない男の言葉に触れ続けていた。
そっと、自分の首筋に指を這わせる。
ひんやりした皮膚の奥に、かすかな熱が残っている。
私はまだ、ここにいる。
まだ、女でいられるのかもしれない。
意識の底で、低く湿ったテナーサックスが、また静かに鳴り始めた。
もう、後戻りはできない気がした。
