渇きの果てに…禁断のコンダクター 第1話
《あらすじ》
結婚十五年。
夫婦仲は決して悪くない。
それでも三十八歳の春野まゆは、妻として、母として、工場で働く一人の人間として日々を重ねるうちに、「女」としてだけでなく、「自分自身」として見失われていく孤独を抱えていた。
匿名で投稿していた小説をきっかけに、官能作家・城山アダムスと出会ったまゆは、彼の言葉によって心の奥に封じ込めてきた「理解されたい」という渇きに気づいていく。
惹かれ合う二人の関係は、不倫という枠を超え、まゆが自分の本当の願いと向き合う旅へと変わっていく。
性愛を入口にしながら描くのは、満たされない心を抱えた一人の女性が、自分の人生を取り戻していく再生の物語。
「愛されること」と「自分らしく生きること」の意味を問いかける、大人の恋愛小説である。
第1話
「私は、まだ女でいられるのか?」
朝。
ベッドでうっすらと目を開けた瞬間、春野まゆは心の底に「渇き」を感じていた。
隣では、夫の健一が口を半開きにしたまま眠っている。
規則正しい寝息が、湿った空気のように寝室に重たく広がっていく。
結婚十五年目。
かつては夜ごと求め合った夫婦なのに、今では5年以上、肌を重ねていない。
「私、もう……女として見られてないのかな」
声には出さず、心の中で呟く。
まゆはそっとベッドを抜け出し、キッチンへ向かった。
炊飯器の蓋を開ける。
白い湯気が立ちのぼる。
生活の匂いが部屋に広がる。
味噌汁を温める。
焼き魚を皿に移す。
いつもの手つきで朝食を整えていく。
「おはよう」
まゆが声をかけても、健一はスマホを眺めたまま、
「……うん」
味噌汁を一口すすり、眉がわずかに動く。
「味、ちょっと薄いな」
それだけ言って、またスマホへ視線を落とす。
昔は、「うまいな」って、ちゃんと私を見て笑ってくれたのに。
そんな記憶が、胸を締めつけた。
食事を終える。
健一はスマホを見たまま無言で立ち上がる。
「俺、先に、出るから」
それだけ言い残して、玄関のドアが閉まった。
まゆはそっと息をこぼした。
「いってらっしゃい」
の言葉は喉の奥で止まり、声には出てこなかった。
洗面所の鏡の前に立つ。
数日前に切った髪が、肩先でふわりと跳ねている。
気分を変えたくて、少し短くした。
………健一は、その変化にまったく気づかなかった。
……昔は髪を切るたび、すぐ気づいてくれた。。
……「まゆ、似合ってるよ」と優しく髪をなでてくれた。
まゆは薄く化粧を施し、髪を無造作にまとめる。
戸締りをして、大阪郊外の製造工場に向かう。
朝七時からのライン作業。
ベルトコンベアの単調な駆動音。
隣のパートたちの取り留めのない会話。
毎日同じ場所で、同じ作業の繰り返し。
…………何年も変わらない日々。
胸の膨らみも、腰の柔らかな曲線も、誰の視線にも触れない。
結婚前は、街を歩けば男たちの視線を感じていた。
飲み会では隣を奪い合うように声を掛けられ、髪を切ればすぐに気づいてくれた。
今は、そんな記憶が、別の女の人生みたいに遠かった。
いつしか、「女」として見られることを忘れたまま、ただ働き、家へ帰る日々を送っていた。
激しく求められたいわけじゃない。
ただ――
私という女の輪郭を、誰かの視線で感じてほしかった。
「二番ラインさん、次の検品お願い」
「はい」
………二番ラインさん。
その呼び方に、まゆは曖昧に笑った。
毎日、何かの役割では呼ばれる。
“まゆ”と呼ばれることは、一度もなかった。
昼休み。
子どもの進学の話。
テレビドラマ。
職場の噂話。
同僚たちの会話に適当に相槌を打ちながら、まゆは、自分の声だけが少し遠くにあるような感覚を覚えていた。
夕方。
帰宅する。
洗濯物を取り込む。
夕飯を作る。
風呂を沸かす。
すべてを終える頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
夜。
健一は先に寝室へ入り、ほどなく寝息を立て始める。
まゆは電気を消さないまま、ベッドの端に腰を下ろした。
そっとスマホを取り出す。
開いたのは、まゆが匿名で投稿しているnoteの小説――。
タイトルは『渇きの果てに』。
誰にも言えない疼き。
満たされない夜。
触れられないまま渇いていく心と体。
現実では押し殺している感情を、まゆは赤裸々に書き綴っていた。
単なる官能小説ではなかった。
「私はここにいる」
「まだ女は終わっていない」
そんな叫びにも似たものだった。
自分でも驚くほど濃密で、生々しい描写。
本当に書きたかったのは、快楽そのものではない。
誰にも気づかれない孤独。
“女”として見失われていく恐怖。
心の奥で、ずっと息を潜めていた感情を、誰かに見つけてほしかった。
自分でも隠してきた「渇き」を、そっと見抜いてほしかった。
こんな素人が書いた小説を、本当に読んでもらえるのだろうか――
……半信半疑だった。
夜更け。
夫が深く寝入ったのを確かめる。
そっと下着の中へ手を滑り込ませる。
冷えた指先が触れた瞬間、身体が小さく震えた。
けれど、それは快楽というより、渇きを誤魔化すための行為だった。
誰にも触れられないまま、眠れない夜。
欲しいのは、ただ身体の刺激ではない。
優しく抱き寄せられる温もり。
求められているという喜び。
「まだ女として見ている」と伝えてくれる視線。
――でも、それをくれる人は、もう隣にはいない。
だから、自分で自分を慰めるしかなかった。
惨めだった。
虚しかった。
けれど、そうでもしなければ、自分の中の“女”が本当に消えてしまいそうだった。
まゆは唇を噛み、声を殺す。
暗闇の中、自分だけが取り残されている気がした。
誰にも見つけてもらえないまま、心が渇いていく。
そんな孤独を誤魔化すように、まゆはそっと目を閉じた。
……そのとき。
スマホの通知音が鳴った。
まゆの身体がびくりと止まる。
画面を見る。
《鹿児島在住・城山アダムス》
官能小説家として活動している男からのコメントだった。
「まゆさんの作品は、単なる官能では終わっていません。触れられなくなった既婚女性の孤独や、誰にも見つけてもらえないまま渇いていく心が、痛いほど伝わってきます。
文章の奥にある“渇き”が、とてもリアルでした。抗いがたい魅力があります。」
「まゆさんの作品は――」
その文字を見た瞬間、胸が震えた。
まゆさん。
そう呼ばれたのは、いつ以来だろう。
妻でもない。
パート従業員でもない。
誰かの都合のいい役割でもない。
ただ、「まゆ」として呼ばれた気がした。
コメントを読み進める度、心臓が跳ねた。
頬がじんわりと熱を帯びる。
嬉しかった。
自分でもうまく言葉にできなかった「渇き」を、深く読み取ってもらえた気がした。
心の奥深くでずっと息を潜めていたものに、ようやく光が触れたようだった。
