憑代(よりしろ)ー天女の器ー
【プロローグ】
天ノ瀬に、天女が降りたという。
羽衣を脱いで水を浴びる娘を、ひとりの男が木立から見ていた。男は娘の羽衣を隠した。帰る術を失った天女は地に残り、この土地の血となった。――そう語り継がれている。福を呼ぶ血。だが語りは、いつも途中で終わる。天女が二度と空へ帰れなかったことには、誰も触れない。
その血に、沙夜という娘がいた。
沙夜は、人を疑うということを知らなかった。誰かが差し出す手を、裏に何があるかも確かめずに握る。器として育てられながら、境界というものを、ただの一度も引かなかった。
一人の男が、愛を口にして近づいた。血の富と、天女の名を欲していた。沙夜はそれを見抜かなかった。見抜こうとすらしなかった。開いて、明け渡して、望まれるままに差し出した。男は欲しいものを手にすると、羽衣を隠した男がそうしたように、娘を置き去りにした。
沙夜が最期に手を伸ばしたのは、いちばん欲しかったもの――愛されること、ただそれだけだった。その伸ばした手が、彼女を滅ぼした。
娘は水辺で息絶えた。天女が羽衣を奪われた、あの水のほとりで。
そのとき、血が誓いを立てた。あるいは、血に宿るものが。
――二度と、この娘たちを無防備にはさせない。
以後、器に邪心を向ける者には、その邪心が返るようになった。福の血は、牙を持った。守るための牙を。
けれど牙は、代を経るごとに焦れていく。向けられた悪意を待たず、まだ形にもならぬ悪意の芽まで、先に刈るようになった。
沙夜から数えて、幾人か。
天ノ瀬にはいま、ひとりの器がいる。誰にも心を開かない、冷たい娘が。
その娘は、笑うという形を、忘れていた。
【第1章】
その娘は、笑うという形を忘れていた。
天羽小夜子は、放課後の教室に一人で残っていた。西日が机の天板を飴色に染め、埃が光の柱の中をゆっくり回っている。窓の外で運動部の声が上がり、また遠のいた。彼女は文庫を閉じ、栞の房を指の先で整えた。
廊下で足音が、同じ場所を三度往復していた。相沢だった。
先週まで、相沢は小夜子に一度も話しかけたことがなかった。同じ教室にいても、彼女の席は無いものとして扱われる。天ノ瀬で育った者なら、幼いうちに親から教わるからだ。天羽の娘には近づくな、と。理由までは教わらない。ただ、近づいた者がどうなったかだけが、名前を伏せて語り継がれる。
相沢は、この町の子ではなかった。
だから知らなかった。二週間前、体育の準備で偶然肩がぶつかり、振り返った小夜子の顔をまともに見てしまった。それだけのことだ。以来、相沢は変わった。朝は下駄箱の陰で待ち、昼は購買の列の斜め後ろに立ち、放課後には人の消えた時間まで、こうして教室の外を往復している。
小夜子は、彼を見ていた。正確には、彼の内側で膨らんでいくものを見ていた。最初はただの好意だった。好意が独占に変わり、独占が疑いに変わっていく。今の相沢の目には、世界が自分を裏切る材料でできているように映っているらしかった。
戸が引かれた。
相沢が入ってくる。制服の胸元が指の跡でよれていた。何度も握っては離したのだろう。
「天羽さん。昨日、俺の自転車のこと、誰かに話した」
問いの形をしていなかった。小夜子は文庫を鞄にしまった。
「話してない」
「じゃあなんで、みんな俺を見て笑うんだよ」
窓の外でまた声が上がった。相沢の肩がびくりと跳ね、視線がそちらへ走って、また戻る。運動部の誰も、彼のことなど見てはいない。それでも彼の中では、校庭じゅうが自分を指さして囁いているのだろう。ありもしない囁きが、彼の頭の中でだけ、はっきりと聞こえている。
小夜子は席を立った。近づくと、相沢は半歩退がった。退がりながら、距離を詰めたがっている自分に気づいて、拳を握る。
「近づくな」と彼は言った。求めていたはずの言葉と、正反対のことを。
彼女は足を止めた。この形を、小夜子は知っている。何度も見た。好意が疑いに変わり、疑いが世界そのものへの敵意にまで膨らんで、最後にその人自身を内側から食い破る。彼女は何もしていない。ひとことも囁いていない。ただ、相沢の中で勝手に育っていくものを、端から眺めているだけだ。
――本当に、そうか。
その問いにだけは、小夜子も答えを持っていなかった。私は見ているだけなのか。それとも、私が見た瞬間に、もう線は引かれてしまうのか。見極めと、殺意と。その境界がどこにあるのか、彼女には分からない。分からないことだけが、かろうじて逃げ場だった。
「相沢くん」小夜子は静かに言った。「今夜は、鍵を確かめてから寝たほうがいい」
それが忠告なのか宣告なのか、言った本人にも分からなかった。
相沢は意味を掴みかね、掴もうとして、掴んだ瞬間に顔から血の気が引いた。何かに追われる者の走り方で、彼は教室を出ていった。廊下を遠ざかる足音は、もう往復していない。ただ一方向へ、落ちるように遠ざかっていった。
小夜子は窓辺に戻り、飴色の光の中で息をひとつ吐いた。
指を折って、数える。
相沢で、七人目だった。
七人が、それぞれ違う壊れ方をした。事故。失踪。身の破滅。並べて見なければ、互いに何の関係もない不運に見える。並べて見る者は、天ノ瀬にはいない。小夜子ひとりを除いて。
窓の外で日が落ちていく。誰もいない教室で、彼女はしばらくそのまま座っていた。数えた指を、ゆっくりと開いて。
【第2章】
天ノ瀬の朝は川霧から明ける。町を二つに割って流れる天女川が夜のうちに冷え、白い霧を水面から立ちのぼらせる。霧は家々の屋根を低く這って、日が昇るころにようやく退いていく。年寄りはこれを天女の名残と呼んだ。羽衣を奪われた娘がいまも水のそばを離れられずにいるのだと。
町のどこからでも祠が見えた。上流の杜に建つ小さな社に祀られているのは吉祥天である。福と美と豊穣の神。天ノ瀬の家々はその恩を分け合って生きてきたと信じていた。田も商いも縁組みもまず祠に手を合わせてから始める。福の血がこの土地に根を張っているかぎり天ノ瀬は栄えるのだと。
その血を、いまは一人の娘が背負っていた。
小夜子は祠の裏手の古い家で育った。両親の顔を知らない。物心ついたときには白髪の女がひとり彼女の世話をしていた。守屋と名乗るその女は小夜子を育てているというより祀っているようだった。朝餉の膳はいつも一人分だけ先に整えられ、守屋は小夜子が箸を取るまで隅で頭を垂れていた。話しかけても短く答えるきりで目を合わせない。幼いころの小夜子はそれを寂しいとは思わなかった。世話をする者が世話をされる者を見ないのは、この家では当たり前のことだったからだ。自分が人ではなく器なのだと知ったのは、もっとあとになってからだった。
学校までの道ですれ違う大人はみな端へ寄った。会釈をする者もいれば目を伏せて足を速める者もいる。どちらも同じことだった。敬いと怖れは天ノ瀬では同じ形をしている。子どもは母親に手を引かれて小夜子から遠ざけられた。天羽の娘には近づくな。理由は教えられずただそう繰り返される。近づいた者がどうなったかを、大人たちは名を伏せたまま知っていた。
相沢のことは、その朝すでに噂になっていた。
前の日の放課後に職員室で暴れたのだという。誰かが黒板に自分の悪口を書いた、消したのはお前らだろうと教師に詰め寄って机を蹴った。書かれた悪口を見た者は一人もいない。それは相沢の頭の中にだけあった。
一週間もしないうちに相沢の周りから人が引いていった。もともと数えるほどしかいなかった友人が、彼の疑いに耐えかねて離れる。離れた者を相沢は裏切り者と呼んだ。呼ばれた者はますます離れていく。彼が世界を疑うほど世界は本当に彼から遠ざかった。疑いが現実を呼び寄せ、呼び寄せた現実がまた疑いを太らせる。小夜子はその輪を教室のうしろから眺めていた。自分が回しているのかもしれない輪を。
放課後の昇降口で相沢とすれ違った。二週間前にまともに目が合ってしまった、あの場所だった。彼はもう小夜子を見なかった。落ち窪んだ目は足元の一点に据えられ、唇だけが休みなく動いている。誰にも聞こえない相手と彼はずっと言い争っていた。すれ違いざまに呟きの断片が耳をかすめた。全員、消えろ。小夜子は足を止めなかった。止めたところでできることは何もない。あの輪はもう彼女の手を離れて回っている。
家に帰ると守屋が門の前で頭を垂れていた。祠に灯を上げる刻限だった。小夜子は霧の退いた川を一度だけ振り返った。水は何ごともなかったように光っていた。
三日後、相沢が死んだ。追ってくる者などいない道を、最後まで追われながら。
【第3章】
相沢の死は、事故として片づけられた。
夜のあいだに国道へ迷い出たのだという。走ってきた車を避けきれなかった。運転手に非はない。町はそう決めた。誰にも追われていない道を、相沢は最後まで振り返りながら走ったらしい。見ていた者はいない。ただ明け方に、彼の靴の片方が川べりに落ちていた。国道からはずいぶん手前だった。なぜそこで靴が脱げたのかを問う者はいなかった。問えばその先まで考えねばならなくなる。天ノ瀬の大人は、考えないという技術に長けていた。
葬儀は町の外から来た親類だけで営まれた。相沢の家は去年この町へ移ってきたばかりで、送る者も少ない。焼香の列に同級生の姿はまばらだった。来た者も香を上げるとすぐに帰った。誰かが小声で漏らした。あの子は最後、天羽さんにずっとついて回ってたらしい。声はそこで途切れた。天羽の名を口にしたことに気づいて、みな一様に黙った。
小夜子は葬儀に行かなかった。呼ばれてもいない。彼女が来れば、送る側の誰かがまた壊れるかもしれない。町はそれを知っている。器は祀るものであって、人の列に混じるものではなかった。
三日後、県警の刑事が学校へ来た。事故そのものに不審な点はない。ただ相沢は死ぬ前の数週間、明らかに常軌を逸していた。その理由を拾うための、形ばかりの聞き取りだった。刑事は町の因習を知らない。だから同級生の口から天羽という名が何度も出てくることに、素直に引っかかった。
小夜子は生徒指導室に呼ばれた。刑事は若く、疲れた目をしていた。机を挟んで向かいに腰を下ろし、相沢とはどういう間柄だったのかと尋ねた。
「間柄は、ありません」小夜子は答えた。「話したのは、死ぬ前の一度きりです」
「彼は君をよく目で追っていたと聞いたが」
「わたしは追われる側でした。追う理由までは、わたしにもわかりません」
嘘ではなかった。理由は相沢の内側にあって、小夜子の側にはない。そのはずだった。刑事はしばらく彼女の顔を見ていた。天羽の顔をまともに見た者がどうなるかを、この男は知らない。知らないからまっすぐに見た。小夜子はわずかに視線を落とした。相手のためだった。
刑事は何も掴めずに帰った。掴めるものが端からなかったのだ。七つの不運はそれぞれ別の場所で別の形をして起きていた。線で結ぶという発想そのものが、常人の頭には浮かばない。結べるのは七つ全部を同じ一点のそばで見てきた者だけだ。その一点に、小夜子は立っていた。
家に帰ると、守屋が祠から下りてきたところだった。老いた女はめずらしく小夜子の前で足を止めた。
「相沢さんは、器に手を伸ばしました」守屋は床の一点を見たまま言った。「伸ばした手が返るのは、道理でございます」
咎めでも慰めでもなかった。ただ道理を述べる声だった。守屋にとって七人の死は事故ではない。血が正しく働いた証しだった。福の血を守るために、邪心は持ち主へ返る。それだけのこと。
「わたしが、殺したの」
初めて声に出した問いだった。守屋は答えなかった。答えるかわりに深く頭を垂れた。器に向かって人がする、いつもの礼だった。それが答えのようでもあり、答えを避けたようでもあった。
その晩、小夜子は自分の手を長いあいだ見ていた。この手は何もしていない。触れても、押してもいない。ただ見ただけだ。見て、線を引いた。引いた覚えはない。それでも七人は、彼女が見たあとで壊れた。
見極めるだけなら、罪ではない。
けれど見極めた瞬間に、もう相手が落ちているのだとしたら。
その問いに答えをくれる者は、天ノ瀬に一人もいなかった。答えを知っているかもしれない唯一の娘は、数代前に、川のほとりで息絶えている。
【第4章】
事件のあと、教室の小夜子の席はいっそう遠くなった。
刑事が来て天羽の名を口にした。それだけで町の均衡がわずかに傾いた。これまで大人たちは知らぬふりで距離を保ってきた。知らぬふりが通らなくなると、残るのは剝き出しの怖れだけだった。同級生は彼女の半径から机ひとつ分よけいに離れ、目が合う前に顔を伏せる。班分けで小夜子と組まされた者は、その日一日を息を詰めて過ごした。誰も彼女を責めなかった。責めれば自分がどうなるかを、この町の子は骨で覚えている。
小夜子はそれを咎めなかった。当然のことだと思っていた。ただ相沢の死のあとで初めて、自分がその輪の外にいることの重さが指先まで下りてきた。今までは器であることが世界の形だった。今は、器でなかった場合の世界が、うっすらと見えてしまう。見えるものは、手に入らない。
その晩、小夜子は守屋に尋ねた。
「わたしの前に器だった人たちの記録は、ありますか」
守屋の手が止まった。膳を下げる途中だった。老いた女はしばらく答えず、やがて床の一点を見たまま、蔵の桐箱の在りかを告げた。触れてよいものかを迷った沈黙だった。器が自分の来歴を知りたがることを、守屋は喜んでいない。
桐箱には覚書が代々ぶん重ねてあった。器を世話した守屋たちが書き継いできたものだ。文字は時代ごとに変わり、古いものは読み下すのに骨が折れた。それでも書かれていることの芯は、どの代でも同じだった。器の名。育った年月。そして、その器のそばで壊れた者の数。
数が、少しずつ増えていた。
古い代の器のそばでは、壊れた者は一人か二人だった。ときに一人もいない代さえあった。手を伸ばす者が現れなかったのか、伸ばされても返らなかったのか、そこまでは書かれていない。時代が下るにつれ、数字は膨らんでいく。三人。五人。近い代では、器が二十歳になる前にすでに十を超えている者もあった。
小夜子は自分の頁を探した。まだ余白の多い、真新しい紙だった。守屋の字で、そっけなく七と記されている。十六の器の数としては、過去のどの代よりも早い。
余白に、幾人かの代の守屋が短い注をつけていた。ある注はこうあった。此度は、まだ何もせぬ者なりき。指を折りながら拾い読みしていた小夜子の目が、そこで止まった。何もしていない者が、返された。邪心を向けたのではなく、いつか向けるかもしれない、その芽のうちに刈られた。牙は悪意を待たなくなっている。代を追うごとに待てなくなっている。
覚書のいちばん奥に、最初の頁があった。
一枚だけ、墨で塗り潰されていた。名の入るはずの場所が黒く沈んでいる。墨は古く、幾度も上から重ねられたように厚い。塗り残しの縁から、辛うじて一文字だけがのぞいていた。読めそうで、読めない。それが名なのか、別の何かなのかも、わからなかった。
「この人は」
小夜子が問うと、守屋は初めて顔を上げかけ、途中でまた伏せた。
「触れてはなりませぬ」
声は低く、いつもの道理を述べる調子とは違った。畏れが混じっていた。器に頭を垂れるはずの守屋が、その頁にだけは、器より上のものに向かって頭を垂れているように見えた。
小夜子は覚書を閉じた。塗り潰された名は、いちばん古い器のものだ。数字が増えていく列の、その先頭に、名を消された娘が一人いる。すべての始まりの場所に。
桐箱を蔵へ戻し、家に入ると川の音が低く届いていた。覚書には、どの代にも書かれていないことがひとつあった。器が誰かと添い遂げた記録が、ただの一件もない。誰も、線の内側に人を置かなかった。置けなかったのか、置いてはならなかったのか。それも、書かれてはいなかった。
小夜子は自分の頁の、七という字を思い出した。真新しい紙の余白は、まだ広い。その余白が、これから埋まるためにあるのだと気づいて、彼女は灯を消した。
【第5章】
転校生が来たのは、梅雨の晴れ間の朝だった。
担任が黒板に名を書いた。名瀬透。となりの県から越してきたと言った。教室のうしろで誰かが小さく笑った。名瀬という姓が天ノ瀬に似ていておかしかったのだろう。透は気を悪くするふうもなく一緒になって笑った。よそから来た人間の、屈託のない笑い方だった。
担任が席へ促すあいだ、教室の空気がわずかに固まった。窓際のいちばん後ろは、誰も座りたがらない席だ。その前も同じだった。天羽小夜子の半径には、いつも机ひとつぶんの余白がある。町の子なら誰でも知っている余白だった。名瀬透は何も知らずにその余白へ入っていった。
椅子を引いて腰を下ろすと、透は振り返って、小夜子に向かって軽く手を挙げた。
「うしろ、よろしく」
小夜子は答えなかった。答えるべき言葉を、とっさに見つけられなかった。この町で誰かが彼女にまっすぐ声をかけたのは、いつ以来だろう。相沢でさえ、あれは声というより呻きだった。透の声は、ただの声だった。裏も含みもない、朝の挨拶。
小夜子はいつものように、相手の内側へ目を向けた。
近づいてくる者の奥をのぞくのは、彼女にとって呼吸と同じだった。そこには必ず何かがある。欲や値踏み、天羽の血への好奇。あるいは、まだ形にならない小さな棘。のぞけば線が引かれる。無害か、排除か。引こうとして引くのではない。見た瞬間に、線はもう引かれている。
けれど、透の奥には何もなかった。
欲がないのではない。隠しているのでもない。のぞいた先が、ただ明るかった。朝の水面のように、底まで光が届いていて、沈んでいるものが何も見えない。小夜子は目を凝らした。凝らすほど、探しているものが遠ざかる。線を引く手がかりが、どこにもなかった。
こんなことは、初めてだった。
透は前に向き直り、教科書を出していた。もう小夜子のことなど気にしていない。気にしていないという、そのことが小夜子を落ち着かなくさせた。人は彼女を怖れるか、欲しがるかのどちらかだった。どちらでもない目で見られることは、器として育った十六年の記憶にない。
昼休みに、小夜子は一人で中庭の隅にいた。いつもの場所だった。誰も来ない木の陰で、誰にも見られずに弁当を使う。それが器の昼だった。
足音がして、透が現れた。
「ここ、涼しいな」
彼は当たり前のように、少し離れた石のへりに腰かけた。小夜子と目を合わせ、それからパンの袋を開けた。距離を取ったのは怖れからではなく、ただ石の座り心地の問題らしかった。小夜子は箸を止めた。追い払う言葉も逃げる理由も、うまく組み立てられない。
「天羽さんって、いつもここにいるんだ」
「……誰かに、聞いた?」
「いや。さっき教室出ていくの見えたから」
そこへ同じ組の男子が二人、廊下の窓から中庭をのぞいた。透がそこにいるのを見て、片方が声をひそめて手招きをする。透は首をかしげ、小夜子をちらと見てから、立ち上がって窓へ寄っていった。二人が早口で何かを告げている。天羽には近づくな。近づいた奴がどうなったか。名を伏せた、いつもの警告だった。
透は最後まで聞いて、それから笑った。
「脅かすなよ。ただの同じ組だろ」
二人は顔を見合わせ、肩をすくめて去った。忠告はした、あとは知らないという背中だった。透は中庭へ戻ってきて、また石のへりに座り直した。
「変な町だな。人のこと化け物みたいに言う」
化け物、という言葉に小夜子の指が動いた。透はそれに気づかない。パンの最後をのみこんで、空を見上げている。梅雨の切れ目の、洗ったような青だった。
小夜子はもう一度、彼の奥をのぞいた。今の警告を聞いたあとでも、透の内側は変わらず明るいままだった。怖れも値踏みもなく、忠告を受けた者がためこむはずの猜疑の芽さえ、そこにはなかった。線を引く場所が、やはりどこにもなかった。
引けないということが、これほど落ち着かないものだとは思わなかった。
放課後、家へ帰る川沿いの道で小夜子は昼のことを思い返していた。追い払えなかった。理由がなかったからだ。害のない者を遠ざける線を、彼女はまだ持っていない。線は害のある者にしか引けない。ならば害のない者は、どうすればいい。
川霧はもう晴れて、水は午後の光をまっすぐ返していた。歩きながら、小夜子は自分の口元にそっと指を当てた。昼のあいだに一度だけ、頬の奥がゆるみかけた瞬間があった。笑うという形を、彼女の顔はとうに忘れていたはずだった。忘れていたものが、ほんのわずかに動きかけて止まった。
指先がかすかに冷たくなった。七人が壊れていくのを眺めていたときには、こんなふうにはならなかった。小夜子は足を速めた。川の音が、いつもより近く追ってくる気がした。
【第6章】
透は、来る日も来る日も同じだった。
朝に手を挙げて挨拶をし、昼には中庭の石のへりへやって来る。小夜子が答えても答えなくても、彼の調子は変わらない。天ノ瀬の子どもが幼いうちに覚える距離を、透はいつまでも覚えなかった。覚える気配すらなかった。町の警告は幾度も彼の耳に入っていたはずだ。それでも透は、化け物のとなりに平気で腰を下ろし続けた。
小夜子は、いつのころからか、彼の奥をのぞくのをやめていた。
やめようと決めたわけではない。のぞいても何も見つからないと、体のほうが先に覚えてしまった。相手の内側を探るのは、彼女にとって息をするのと同じことだった。その息を、透の前ではふと忘れている。忘れていることに気づくたび、小夜子は自分の手のひらを見た。線を引く手が、彼の前ではずっと休んでいる。休ませてよいものか、彼女にはわからなかった。
梅雨がぶり返した午後、下校の途中で雨に降られた。
小夜子は川沿いの橋の下で雨宿りをしていた。しばらくして、透が同じ場所へ駆け込んできた。制服の肩を濡らして、息を弾ませている。二人のほかに雨をよける者はいない。橋の下は狭く、いつもの机ひとつぶんの余白は、そこには作れなかった。
「傘、置いてきた」透は苦笑した。「晴れると思ったんだけどな」
小夜子は自分の折り畳み傘を鞄から出しかけて、手を止めた。差し出せば、帰り道の途中まで並んで歩くことになる。並んで歩くという絵が、うまく像を結ばない。器のとなりに人が並ぶ光景を、彼女は一度も見たことがなかった。
「濡れて帰るよ」透は先に言った。「気にすんな。そういう日もある」
雨は川面を細かく叩いていた。増した水が音を太くして、二人の沈黙を埋めていく。透は膝を抱えて水を見ていた。何かを話そうとするでも、間を持てあますでもない。ただそこにいた。小夜子は、その横顔を盗み見た。害のない者と同じ屋根の下にいるだけで、こんなにも呼吸が浅くなるのだと初めて知った。
「天羽さんは」透が水を見たまま言った。「この町、好き?」
「……考えたことが、ない」
「そうか。俺は、まだよくわからない。けど、川はいいな」
なんでもない言葉だった。なんでもないから、小夜子の中に残った。好きかと問われることも、答えを待ってもらえることも、器には縁のないものだった。問いはいつも彼女に向かって投げられるのではなく、彼女を避けて通り過ぎていく。透の問いだけが、まっすぐ彼女のところで止まった。
雨が小やみになると、透は立ち上がって伸びをした。
「先、行くよ。濡れついでだ」
橋の下から雨の中へ出ていく背中を、小夜子は見送った。呼び止める理由はない。呼び止めたい理由なら、うまく言葉にできないまま胸のどこかにあった。それに気づいた瞬間、指先がまた冷たくなった。七人を眺めていたときには決して起きなかった冷たさだった。
家に帰ると、守屋が土間で待っていた。
「近ごろ、器のお顔が変わられました」
老いた女は、床の一点を見たまま言った。咎める声ではない。天気を告げるような、平らな声だった。それがかえって小夜子を身構えさせた。
「変わった?」
「柔らかくなられました」守屋は言葉を選ぶように間を置いた。「器は、柔らかくなってはなりませぬ。柔らかいところから、崩れますゆえ」
小夜子は答えなかった。守屋が何を言っているのか、半分はわかり、半分はわからなかった。わかる半分が、冷たい指先とつながっている気がした。
その夜、小夜子は覚書のことを思い出していた。塗り潰された最初の器。名を消された娘。どの代の器も、線の内側に人を置かなかった。置かなかったのか、置けば崩れたのか。守屋は、柔らかいところから崩れると言った。ならば最初の器は、柔らかかったのだろうか。柔らかくて、崩れたのだろうか。
その娘のことを、知らなければならない気がした。自分がこれからどうなるのかは、始まりの場所にしか書かれていない。小夜子は灯の下で、蔵の桐箱の重みを思い返した。塗り残しの縁からのぞいていた、読めそうで読めない一文字を。
川の音が、また少し近く聞こえた。
【第7章】
小夜子は、守屋に正面から尋ねた。
「いちばん初めの器は、どんな人だったの」
守屋は灯を上げる手を止めた。いつもの床の一点から、めずらしく目を上げて小夜子を見た。器の顔をまともに見たのは、育ててきた歳月で数えるほどしかない。老いた女は長いあいだ黙り、やがて灯明を膳の端に置いた。
「お知りになりたいのは、器のことではございませんな」低い声だった。「ご自分がこれからどうなるか、でございましょう」
図星だった。小夜子は答えなかった。
守屋は先の夜に、器が柔らかくなったと言った。柔らかいところから崩れるとも。だからこそ、この娘に始まりを教えねばならぬと決めたようだった。恐れを知らぬまま柔らかくいるより、始まりの惨さを知って固くいるほうが器は長く保つ。守屋の理屈は、そういうものだった。
「初めの器は、沙夜さまと申しました」
塗り潰された名が、初めて声になった。
守屋は語った。沙夜は、人を疑うことを知らぬ娘だったという。誰かの差し出す手を、裏を確かめもせずに握った。器として育てられながら、線というものをただの一度も引かなかった。町の者は沙夜を慕った。慕われるだけの器は、天ノ瀬の長い歴史でも沙夜ひとりきりだった。
その沙夜のもとへ、一人の男が来た。愛を口にして近づいた男だった。男が欲しかったのは沙夜ではなく、天女の血に流れる福と、その名に付いてくるものだった。沙夜はそれを見抜かなかった。見抜こうともしなかった。開いて、明け渡して、望まれるままに差し出した。男は欲しいものを手にすると、沙夜を置いて去った。
「沙夜さまは、水のほとりで息を引き取られました」守屋の声が、そこでわずかに沈んだ。「最期にお手を伸ばされたのは、いちばん欲しかったもの――ただ、愛されることでございました。その手が、あの方を滅ぼしたのです」
いまの犠牲者たちと、寸分たがわぬ壊れ方だった。欲しかったものへ手を伸ばし、その手で自分を滅ぼす。七人が辿った道の、いちばん初めに沙夜がいた。
「その死の際に、血が誓いを立てました」守屋は続けた。「あるいは、血に宿るものが。二度とこの娘たちを無防備にはさせぬ、と。以来、器に邪心を向ける者には、その邪心が返るようになりました」
小夜子は、ようやく理解した。自分の力は、呪いではなかった。一人の娘の死が生んだ、喪の誓いだった。守るための牙だった。沙夜のような死を二度と繰り返させぬために、血が自ら持った牙。
「けれど」小夜子は、覚書の余白の注を思い出していた。「まだ何もしていない人まで、返されている」
守屋は頭を垂れた。
「牙は、代を経るごとに焦れてまいります。向けられた悪意を待たず、いつか芽吹くやもしれぬ悪意まで、先に刈るようになりました。沙夜さまを喪った傷が、深すぎたのでございましょう」
守屋の話が終わっても、小夜子はしばらく動けなかった。喪の誓いは、いまや悪意の芽さえ待たない。害のない者まで、害のあるうちに数えて刈る。牙は守るために鋭くなりすぎて、守るべき者の周りから、人を根こそぎ払っていた。
その夜、小夜子は一人で川へ下りた。
守屋に告げてはいない。ただ、沙夜が息絶えたという水のほとりを、この目で見ておきたかった。夜の天女川は昼の光を失い、黒く滑らかに流れている。祠の灯が上流から届いて、水面にひとすじの帯を落としていた。かつて羽衣を奪われた娘が、空へ帰れずに留まった水だった。
ほとりに立つと、指先が冷たくなった。透の前で覚えた、あの冷たさだった。
水の面に、一瞬、別の光景が滲んだ。
若い娘が水辺に膝をついている。誰かへ向かって、両手をまっすぐ差し伸べている。その手の先には、もう誰もいない。去った者の背中を、娘はいつまでも待っている。夜気が娘の輪郭を溶かし、差し伸べた手だけが、白く水の上に残った。小夜子は瞬きをした。光景は消え、川はただ黒く流れていた。幻だとわかっていた。それでも、差し伸べられた手の白さが、目の裏に灼きついて離れない。
沙夜は、開いて死んだ。
線を引かず、手を伸ばし、その手で滅んだ。
小夜子は自分の手のひらを、月のない空にかざした。透の前で休んでいた手だった。線を引くのをやめた手だった。器が柔らかくなれば、崩れる。守屋はそう言った。崩れるとは、沙夜の水辺へ足を踏み入れることだ。透に開くとは、この手を伸ばすことだ。
伸ばした先で、自分が滅ぶのか。
それとも――伸ばされた透のほうが、返されるのか。
その問いに気づいた瞬間、指先の冷たさが手首まで這い上がった。小夜子は手を握った。強く握って、川に背を向けた。歩き出す足の下で、水の音が今度こそ、すぐ後ろまで追ってきていた。
【第8章】
翌る日から、小夜子は透を避けた。
昼の中庭へは行かなかった。教室に残って机に伏せ、弁当も使わずに時間をやり過ごす。朝に手を挙げられても、鞄の中を探すふりで顔を伏せた。廊下で行き合いそうになれば、手前で足を折って別の道へ回った。線を引けない相手から離れるには、線のかわりに自分の足を動かすしかなかった。
避けられているのだと、透はすぐに気づいたはずだった。それでも彼は退かなかった。
小夜子のうしろで、透はいつもどおり教科書を出し、いつもどおり窓の外を眺めた。距離を詰めもしないが、消えもしない。押しても引いても、同じ位置へ戻ってくる。害のない者を遠ざける手立てを、小夜子はやはり持っていなかった。線は害のある者にしか引けない。害のない者に引けば、それは遠ざけることではなく、返すことになる。
そこに、小夜子の手詰まりがあった。
透を排除の側へ置けば、線は引ける。引いた瞬間、透は七人と同じ道を辿る。彼を遠ざける唯一の確かな方法が、彼を滅ぼす方法と同じものだった。だから小夜子は、線を使えない。使えない手で、彼女は不器用に足だけを動かしている。避けるという、器がいちばん苦手なやり方で。
四日目の放課後、教室に二人だけが残った。
「天羽さん」透が先に口を開いた。「俺、なんかしたか」
小夜子は鞄を閉じる手を止めた。
「べつに」
「嘘だろ。目も合わせてくれない」
窓の外で、部活の声が遠く上がった。小夜子は、相手を突き放す言葉を探した。冷たいひと言があれば、透は去るかもしれない。去れば助かる。彼女は言葉を組み立てようとして、うまく組み上がらないことに気づいた。七人を眺めていたときには、突き放す必要さえなかった。彼らは勝手に落ちていったからだ。誰かを自分の意志で遠ざけるのは、これが初めてだった。
「わたしに近づかないほうがいい」ようやく出たのは、それだけだった。
「その話なら、聞いたよ」透はこともなげに言った。「天羽に近づいた奴は不幸になる。もう何回も聞かされた」
「なら」
「なら、なんで平気かって? わからない。ただ、俺は天羽さんを見てても、化け物には見えないんだ」
化け物ではない、と彼は言った。町じゅうが名を伏せて怖れてきたものに向かって、透はまっすぐそう言った。小夜子は、その言葉を受け止める器を持っていなかった。怖れられるか欲しがられるか、どちらかしか受けたことのない手のひらに、透の言葉はうまく載らずにこぼれた。
こぼれた先で、指先が冷たくなった。
その冷たさが、今度ははっきりと恐怖に似ていた。透が自分を怖れないことが、恐ろしかった。怖れる者は、離れていく。離れる者は、線の外にいる。線の外にいるかぎり、その人は返されない。透は怖れないから、離れない。離れないから、いつか線の内側へ入ってくる。内側へ入った瞬間に、この娘の血が彼を何とみなすのか、小夜子にはわからなかった。
「帰る」小夜子は鞄を掴んで立ち上がった。
「送ろうか」
「いい」
言い捨てて、教室を出た。廊下を歩く足が速くなる。追ってくる足音はなかった。透は無理に追う男ではない。追わないという、その優しさが、いちばん質が悪かった。追ってこないから突き放せない。突き放せないから、遠ざけきれない。
家へ帰る川沿いで、小夜子は一度だけ立ち止まった。水は夕日を返して、赤く長い帯になっていた。沙夜が手を伸ばした水だった。あの娘は、線を引かずに開いて、その手で滅んだ。自分は線を引けるのに、引けば透が滅ぶ。引かなければ、いつか沙夜のように自分が。
どちらの手も、誰かを水のほとりへ連れていく。
小夜子は握った手を、帯の色に染まった川へ向けて、そっと開いてみた。何も起きなかった。当たり前だった。ここには、返すべき邪心を持った者が、一人もいなかった。
握り直して、家路を急いだ。川の音は、もう足のすぐうしろまで来ていた。
【第9章】
沙夜の話を聞いてから、小夜子は自分の手のひらをよく見るようになった。
線を引くのは、この手ではない。手はただ握ったり開いたりするだけだ。線は、もっと奥のどこかで、彼女が見た瞬間に勝手に引かれる。引いた覚えのないその働きを、初めて疎ましく思った。七人は、彼女が疎ましく思う前に落ちていった。疎ましく思えるようになったのは、透を避けはじめてからだった。
梅雨の明けた週、守屋の家に客が来た。
蔵原と名乗る男だった。町の古い家の生まれで、かつては田も山も蔵原のものだったと聞く。いまはその多くが人手に渡っている。落ちた身代を立て直そうと、男はあちこちの縁を頼って回っているらしかった。守屋は玄関で長く頭を垂れ、それから小夜子を座敷へ呼んだ。
「これはこれは、器さまで」
蔵原は畳に手をついた。敬いの形をしていた。けれど床につけた指の先が、落ち着きなく畳の目を撫でている。小夜子は男の正面に座り、いつものように奥をのぞいた。
そこには、はっきりと欲があった。
蔵原が欲しいのは、器ではなかった。器に流れる福だった。天女の血を自分の家へ引き入れれば、傾いた身代がもう一度起き上がると、男は本気で信じていた。信じているだけではない。そのために何をどう運ぶか、順序まで頭の中で組み上げている。守屋を抱き込み、遠い縁者を装い、いずれは器そのものを蔵原の家へ移す。愛の言葉ひとつ挟まぬ、乾いた算段だった。
沙夜のもとへ来た男も、こんな顔をしていたのだろうか。
そう思った瞬間、小夜子の奥で、線が立ち上がった。
来る、とわかった。七人のときと同じ働きだった。見た。値踏みを見た。邪心を見た。見たからには、線が引かれる。引かれれば蔵原は落ちる。彼の乾いた算段が、彼自身の内側で暴走をはじめる。身代を起こそうとして無理を重ね、残った田も山も担保に入れ、最後には何も持たずに水のほとりへ辿り着く。そこまでの筋が、一息のうちに小夜子の中を走り抜けた。
引かせては、いけない。
初めて、そう思った。
理由は、はっきりしない。蔵原は返されて当然の男だった。沙夜を殺した男と、同じ乾き方をしている。それでも小夜子は、いま自分の奥で立ち上がったものを、押し戻したかった。押し戻せるかどうかを、確かめたかった。透を遠ざけきれない自分に、もし線を止める力があるのなら。
小夜子は、息をひとつ止めた。
奥で引かれかけた線に、意識のすべてを向ける。引く働きに、初めて逆らう。指先が冷たくなり、その冷たさが手首まで這い上がった。こめかみの奥が鈍く鳴る。線は、彼女の意志を押しのけて引かれようとした。小夜子はそれを、内側から握りしめた。開きかけた手を握るときの、あの力で。
蔵原の顔から、ふいに血の気が引いた。
男は何も言われていない。ただ器の正面に座っているだけだった。それなのに、座敷の空気が急に薄くなったように、蔵原は胸元をおさえて息を乱した。目の前の娘の奥で、何かが自分に向かって鎌首をもたげ、そして押し戻されたのを、理屈ではなく身体で感じ取ったらしかった。
「……今日は、ご挨拶だけで」
蔵原は畳に手をつき直し、逃げるように腰を上げた。組み上げていた算段は、顔から抜け落ちていた。座敷を出ていくとき、男は一度も器のほうを振り返らなかった。振り返れないのだと、小夜子にはわかった。二度と、この家の敷居はまたがないだろう。
小夜子は、止めた線を、ゆっくりと奥へ沈めた。
止められた。
今日、初めて、自分の意志で線を止めた。握った手のひらは汗ばみ、こめかみの鈍い痛みはまだ残っている。安くはない。それでも、できた。引かれるままにするしかなかったはずの働きを、握り込んで押し戻せた。
だとしたら、と小夜子は思った。
七人は。あの七人は、止められたのだろうか。
止めようと、一度でも思っていれば。
その問いは、答えを持たなかった。あのころの彼女は、止めようとすら思わなかった。思わなかったから、握らなかった。握らなかったから、七人は落ちた。見ているだけだと信じていた自分の手のひらに、初めて、握るという選択があったことを知ってしまった。
冷たい指先を、小夜子は膝の上で固く握った。
透のことが、頭をよぎった。もし透がいつか線の内側へ入り、奥で線が立ち上がったとき。止めるかどうかは、もう血の働き任せではない。この手が握るか、開くか。それだけになる。
握れる自分を知ったことが、少しも救いにならなかった。握れるということは、開けるということでもあったからだ。
【第10章】
蔵原の一件のあと、小夜子は透を避けるのをやめた。
避けても遠ざけきれないと、もう知っていた。足で距離を作るのは器のやり方ではない。それに、蔵原を止められたことが、彼女の中で何かの重しを外していた。線は握れる。握れるなら、そばにいても落とさずにすむかもしれない。根拠の薄い理屈だった。薄いと承知のうえで、小夜子はその上に足を載せた。
透は、避けられていた日々を蒸し返さなかった。中庭へ戻った小夜子が石のへりに座ると、当たり前のように隣で袋を開ける。何日ぶりだとも、どうしてだとも聞かない。戻ってきた者を、ただ戻ってきたものとして扱った。詫びも言い訳もいらない相手は、器にとって初めてだった。
その日の放課後、二人は川べりへ下りた。
透が平たい石を拾い、水面に向かって低く投げた。石は四度跳ねて、水の向こうへ消えた。
「見た? 四回」透は得意げだった。「天羽さんもやってみ」
小夜子は石を握った。教わったとおり腕を低く振る。石は一度跳ねて、あっけなく沈んだ。もう一度投げた。今度は跳ねもしなかった。透が声を上げて笑った。からかう笑いではない。ただ可笑しいだけの、明るい笑いだった。
その笑いにつられて、小夜子の頬の奥がゆるんだ。
とうに忘れていた形だった。忘れていたものが、川の光の下で、ほとんど笑いになりかけた。なりかけて、彼女は口元を手で押さえた。押さえずにはいられなかった。笑うということが、これほど無防備な形だとは知らなかった。
その瞬間、奥で、線が立ち上がった。
蔵原のときと同じ働きだった。けれど、向く先が違った。線は、透へ向かって鎌首をもたげていた。値踏みもない。欲もない。邪心の芽ひとつない相手へ、血の牙が、初めて自分から立ち上がろうとしていた。
小夜子は息を止めた。
止めるものが、どこにもなかった。蔵原のときは、押し戻す先に男の邪心があった。押し返す壁があった。今は違う。透の内側には、返すべきものが何もない。線はただ、小夜子が開いたという、そのこと自体に反応して立ち上がっていた。守るための牙が、守るべき娘の柔らかくなった場所へ、まっすぐ牙を向けている。
沙夜の水辺が、目の裏で白く滲んだ。
そこで、小夜子は理解した。
牙は、透が危ういから立つのではない。自分が透を欲したから立つのだ。開けば開くほど、この血は無防備を嫌って牙をむく。無防備の源を消そうとする。源は、透だった。彼女が透を想うかぎり、線は透へ向かって立ち上がり続ける。想いが深くなるほど、牙は鋭くなる。
握った手のひらに、汗がにじんだ。
小夜子は奥の働きを、内側から握りしめた。蔵原のときより、ずっと重かった。押し返す壁がないぶん、握るしかない。自分の想いごと、握って沈めるしかなかった。こめかみが鳴り、指先の冷たさが肘まで這った。
「天羽さん?」透が石を持ったまま、こちらを見ていた。「顔、白いぞ」
「……なんでもない」
小夜子は立ち上がった。日が傾き、川が赤く染まりはじめていた。沙夜が手を伸ばした、あの色だった。
「そろそろ、帰る」
「そうだな。また明日、ここで」
透は何気なく言った。また明日。その先も、当たり前に続くと信じている声だった。小夜子は答えられなかった。答えれば、明日も透を想う。想えば、線がまた立つ。握れるかどうかは、次はわからない。今日でさえ、あれだけ重かった。
家へ帰る道で、小夜子は握った手を開かなかった。
開けば、こぼれる気がした。想いも、線も、どちらも。川の音が、もう背中のすぐうしろで鳴っていた。振り返らずに、彼女は足を速めた。明日、また川べりへ下りることが、こわかった。こわいと思うほど、下りたいと思う自分がいた。
その二つが、同じ胸の中に並んで灯っていた。
【第11章】
翌日も、小夜子は川べりへ下りた。
下りないという選択は、初めからなかった。こわいと思うほど下りたくなる。その二つが同じ胸で灯りつづけている。理屈では行かないほうがいい。理屈の外で、足が川へ向かう。器として育った十六年で、彼女が理屈の外を歩いたのは、この夏が初めてだった。
透は先に来ていた。
土手に腰を下ろし、水面へ石を投げている。三度跳ねて、沈む。振り返った顔に、いつもの屈託のない笑いがあった。
「四回はいけると思ったんだけどな」
小夜子は少し離れて、膝を抱えて座った。返事のかわりに、口の端がわずかに動いた。笑うという形を、彼女の顔はまだうまく作れない。それでも、透の隣にいると、忘れていた形が勝手にほどけかける。ほどけかけるたび、指先が冷たくなる。冷たさには、もう慣れていた。慣れてはいけないものに、慣れかけていた。
夕日が川を裂いて、一本の赤い帯になった。
沙夜が手を伸ばした水の色だった。小夜子は、その色を美しいと思ってしまった自分に気づいた。かつては、ただ怖ろしいだけの色だった。
透がこちらを向いて、何でもないことのように言った。
「天羽さんは、来年もここにおる?」
たった、それだけの問いだった。
その瞬間、小夜子の奥で、古いものが立ち上がった。
来年。そのさらに先。この男の隣で笑って、手を伸ばして、開いて――そこまで思い描いたところで、別のものが滲んできた。開けば、いつか裏切られる。透も、いつか去る。沙夜のそばにいた男がそうしたように、欲しいものを手にすれば、背を向けて水辺に自分を置き去りにする。愛したものに捨てられて、いちばん欲しかったもので滅ぶ。彼女の内側にいる、彼女より古い娘が、その未来を先回りして怖れた。
守らなければ。
意志ではなかった。数代前に水辺で息絶えた娘の、まだ塞がらぬ傷が、勝手に牙をむいた。喉の奥に、あの言葉がせり上がってくる。七度こらえて呑み込んできた言葉。ただの一度も、声にしたことのない言葉。透の内側には、返すべき邪心などない。それでも牙は、透へ向かって鎌首をもたげた。小夜子が透を欲したという、そのこと自体へ向かって。
透は、まだ笑っている。石を持ったまま、返事を待っている。
言葉は、もう舌の上にあった。
小夜子は知っていた。いま息をひとつ止めれば間に合う。喉を締めればいい。蔵原のときは、そうやって握り込んだ。時間はある。半呼吸ぶんの、たしかな余白があった。その余白のなかで、彼女は選べた。
握るか、開くか。
その半呼吸のあいだに、怖れが囁いた。この手を開けば、透は去らない。去らなければ、いつか彼女を裏切ることもない。裏切られる前に。捨てられる前に。沙夜になる前に――
選んで、しまった。
「……死ね」
声にならないほど、小さく。
透の手から、石が落ちた。
音はしなかった。彼は不思議そうに一度まばたきをして、それから、水を見にいく人のように、静かに前へ傾いていった。土手を、川へ向かって。呼び止める声を、小夜子は持っていなかった。持っていたのに、使わなかった。赤い帯の上を、黒い影がひとつ、ゆっくり伏せて渡っていく。抗いも、驚きもない足取りだった。自分がどこへ向かっているのかを、透自身も知らないままだった。
水が、その背を受け止めて閉じた。
あとには、跳ねそこねた石の輪だけが、川面に残った。
小夜子は動かなかった。夕日が沈みきるまで、指の先ひとつ動かさず、いま自分の内側で起きたことを、順番に確かめていた。
七人までは、わからなかった。力なのか、偶然なのか。見ているだけなのか、殺しているのか。その問いだけが、彼女の逃げ場だった。蔵原のときでさえ、止めた自分を、まだ疑うことができた。血が勝手にやったのだと、思うことができた。
もう、できない。
透には、返すべき邪心がなかった。だから今しがた滅んだのは、透の罪ではない。彼女の怖れだった。裏切られたくないという、それだけの怖れが、無害な一人を水へ沈めた。血ではない。血のせいにできない。握れる手があったことを、小夜子はもう知っている。蔵原の日に、知ってしまった。
私はいま、止められた。
止められたのに、止めなかった。
それが、答えだった。
川はもう黒く、何ごともなかったように流れていた。祠の灯が上流から届いて、水面にひとすじ、白い帯を落としている。かつて羽衣を奪われた娘が、空へ帰れずに留まった水だった。いまはもう一人、その水に沈んだ者がいる。奪われたのは羽衣ではなく、ただ一人の、なんでもない同級生だった。
小夜子は、ゆっくりと立ち上がった。
手のひらを、暗い川へ向けて開いてみた。何も起きなかった。返すべき者は、もうどこにもいなかった。
【第12章】
透は、行方知れずとして扱われた。
川からは、何も上がらなかった。天女川は下流で幾度も淵を巻き、増水のあとは特に人を返さない。名瀬透という転校生が、ある夕方から姿を消した。それだけが事実として残った。遺書はない。争った跡もない。よその県から来たばかりで、身を案じる縁者も土地に少なかった。捜索の網は、はじめから目が粗かった。
学校には、透の机が残された。
窓際のいちばんうしろ、小夜子の前の席だった。誰も座らず、誰も片づけない席が、教室にひとつ増えた。天羽小夜子の半径の余白が、机ひとつぶん、前へ広がっただけのことだった。同級生はその席を見ないようにした。見れば、消えた転校生が最後の日々を誰のそばで過ごしていたかを、思い出さねばならなくなる。
町の受け止め方は、二つに割れた。
多くの者は、口をつぐんだ。天羽に近づいた者がまた一人いなくなった。それが何を意味するかを、天ノ瀬の大人は考えない技術で処理した。考えなければ、なかったことにできる。透の名は、名を伏せて語り継がれる者たちの列に、静かに加えられた。八人目として。
だが、口をつぐまぬ者もいた。
祠に手を合わせに来る年寄りの幾人かは、むしろ安堵していた。器に邪心を向ける不埒者が、また一人返された。福の血が正しく働いている。天ノ瀬は守られている。彼らにとって透の失踪は、凶事ではなく吉兆だった。器がその務めを果たした証しだった。彼らは小夜子に、いつもより深く頭を垂れた。守屋もまた、その晩、いつもより長く祠に灯を上げた。
小夜子は、その頭の垂れ方に耐えられなかった。
彼らは、透を邪心の主だと信じている。返されて当然の者だったと信じている。だから安堵し、器を敬う。誰一人、透の内側を見た者はいない。見ていれば、そこに邪心の芽ひとつなかったことを知っただろう。返されたのは邪心ではない。ただ一人、化け物を化け物と呼ばなかった男だった。町はそれを、吉兆と呼んでいる。
刑事は、今度は来なかった。
失踪に事件性はなく、天羽の名を挙げる同級生も、前ほどはいなかった。透と小夜子の間柄を知る者が、そもそも少なかったからだ。二人が川べりで石を投げていたことを、見ていた者はいない。誰にも見られない場所を選んでいたのは、いつも小夜子のほうだった。器の昼が、人目のない木の陰であったように。害のない者と過ごした時間さえ、彼女は人目から隠していた。隠していたことが、いまは透を守る記録を、この世に一つも残さなかった。
家に帰ると、守屋が土間で待っていた。
「器のお務め、大儀にございました」
老いた女は、床の一点を見たまま、そう言って頭を垂れた。労いだった。守屋にとって、透もまた邪心を返された一人にすぎない。務めを果たした器を、守屋は労った。小夜子は、その言葉に何も返せなかった。返せば、透に邪心などなかったと明かすことになる。明かせば、自分が邪心のない者を、ただの怖れで沈めたと認めることになる。
認められなかった。まだ。
その夜、小夜子は自分の頁の覚書を思った。守屋はもう、七を八に書き改めただろうか。真新しい紙の余白が、また一つ埋まった。過去のどの器よりも早く、数字は膨らんでいく。けれど八人目だけは、ほかの七人と、質が違う。ほかの七人は、自分の邪心で落ちた。八人目は、彼女の怖れで沈んだ。
小夜子は灯を消さずに、長いこと座っていた。
透の席が、目の裏に浮かぶ。誰も座らない、誰も片づけない席。あの席の前で、彼女は明日も授業を受ける。うしろを振り返っても、もう手を挙げる者はいない。また明日ここで、と言った声も、もうどこにもない。
指先が冷たくなった。透を失ってからも、その冷たさだけは、まだ小夜子のそばに残っていた。
【第13章】
透を失ってから、小夜子は幾度も川へ下りた。
下りて、水のほとりに立つ。透が沈んだ場所は、沙夜が息絶えた場所と、同じ水辺だった。羽衣を奪われた娘が留まった水。沙夜が手を伸ばした水。いまは透を呑んだ水。天ノ瀬の因縁は、みなこの一点へ集まって、黒く滑らかに流れていた。
ある晩、祠の灯だけが川面に帯を落とすころ、水の面が滲んだ。
若い娘が、水辺に膝をついている。第七章の夜に見た、あの幻だった。けれど今度は、差し伸べた手の先で立ち止まらなかった。娘がゆっくりと顔を上げる。溶けかけていた輪郭が、夜気の中で結ばれていく。小夜子は、その顔を見た。
自分に、似ていた。
「沙夜」
名を呼ぶと、娘は薄く笑った。慕われた器だけが持つ、柔らかい笑いだった。小夜子が一度も作れなかった形だった。
「あなたは、線を引けるのね」沙夜の声は、水の音に混じって届いた。「わたしには、引けなかった」
幻なのか、血に宿るものが娘の形を借りたのか、小夜子にはわからなかった。わからないまま、問うた。ずっと問いたかったことを。
「あなたが誓いを立てたの。器を、無防備にさせぬと」
「わたしは、何も誓っていない」沙夜は首を振った。「わたしはただ、開いて、伸ばして、死んだだけ。誓ったのは、わたしを喪ったこの血のほう。二度とこんな娘を出すまいと、血が勝手に固くなった。守るために。愛が娘を殺したのなら、もう愛させぬように」
愛が娘を殺したのなら、もう愛させぬように。
小夜子は、その一言で、すべての筋が一本に通るのを感じた。血の牙は、邪心を返すために立つのではなかった。娘を、二度と愛させないために立つのだ。愛せば無防備になる。無防備になれば、沙夜のように滅ぶ。だから血は、娘が誰かを想うたび、その相手を先に消す。邪心のあるなしは、はじめから関係がなかった。透に牙が向いたのは、透が危うかったからではない。小夜子が、透を愛したからだった。
「わたしは、透を」小夜子の声が、初めて揺れた。「邪心のない人を、怖れだけで沈めた」
「知っている」沙夜は静かに言った。「わたしの怖れよ。裏切られるくらいなら、失うくらいなら、先に手放す。あなたの奥にいるのは、そう願ったわたし。あなたは、わたしの怖れを相続したの」
水辺に、風が渡った。沙夜の輪郭が、また溶けはじめる。
「解く道は、ある」沙夜は言った。「この誓いは、血に封じられている。血が絶えれば、誓いも絶える。あなたが誰も残さず、あなたの代でこの血を終わらせれば、もう誰も、器として牙を持たずにすむ。あなたはもう、誰も沈めなくてよくなる」
「……それは」
「あるいは」沙夜の声が、遠くなっていく。「継ぐ道も、ある。牙を、そのまま抱えて生きる。ただし、二度とこの手を開かぬこと。誰も想わず、誰も欲さず、線の内側に、あなた自身の望みをただの一つも置かぬこと。そうすれば、牙は立たない。立つ相手が、いなくなるから」
解くか、継ぐか。
沙夜は、答えを示さなかった。示すために現れたのではなかった。ただ、始まりの娘として、二つの道の在りかを告げに来ただけだった。輪郭が夜に溶けきる間際、沙夜は最後にひとこと残した。
「わたしは、開いて死んだ。あなたが、どちらを選んでも――わたしのようにだけは、ならないで」
水の面が、もとの黒さに戻った。
小夜子は、長いあいだ動かなかった。
解く道。血を絶やし、誓いを終わらせる。誰も残さず、この代で天羽の血を閉じる。透のような者を、もう二度と沈めずにすむ。それは、正しい道に見えた。けれど――と、小夜子は思った。血を絶やして誓いを終わらせても、透は戻らない。八人は戻らない。解くとは、これから先の誰かを守ることだ。すでに沈めた者を、赦す道ではない。
そして小夜子には、赦されてよいという気持ちが、もうなかった。
透を沈めたのは、血ではなかった。彼女の怖れだった。裏切られたくない、失いたくないという、たった一つの望みだった。線の内側に透を置きたいと望んだから、牙が立った。望んだことが、透を殺した。
ならば、と小夜子は思った。
望むことをやめればいい。
線の内側に、自分の欲しいものを、二度と置かなければいい。誰も想わず、誰も欲さず、この身を丸ごと境界の外へ締め出せば、牙はもう立たない。立つ相手が、いなくなるから。それは救いではなかった。救いではないことが、いまの小夜子には正しく思えた。透を沈めた手が、救われてはならなかった。
継ぐ、と決めた瞬間、指先の冷たさが、すっと引いた。
引いたことが、恐ろしかった。怖れが去ったのではない。怖れる相手が、もう自分の中に、一人もいなくなっただけだった。想う者がいなければ、牙は立たない。牙が立たなければ、指も冷えない。小夜子は、自分がこれから生きていく場所の温度を、その冷たさの消え方で知った。
水辺に背を向けて、彼女は歩き出した。
川の音は、もう追ってこなかった。追う理由が、なくなったからだった。
【終章】
夏が過ぎ、川霧の朝がまた戻ってきた。
透の失踪は、町の記憶の底へ静かに沈んでいった。窓際のいちばんうしろの席は、年の変わり目に片づけられた。誰も座らなかった机が運び出され、余白だけが残った。天羽小夜子の半径の余白は、もとの一つぶんに戻っていた。
小夜子は、また笑わない娘に戻っていた。
戻ったように、町の者には見えた。器はいつもどおり冷たく、いつもどおり誰にも心を開かない。相沢の前も、透の前も、こうだった。何も変わっていない。天ノ瀬は、そう信じて安堵した。福の血は、また固く閉じている。
けれど、小夜子だけが知っていた。前の冷たさと、今の冷たさが、まるで違うものであることを。
かつての冷たさは、生まれつきのものだった。誰にも開かぬよう育てられ、開き方を、そもそも知らなかった。今は違う。開き方を、一度知ってしまった。川べりで石を投げ、頬の奥がゆるみかけた、あの夏を知ってしまった。知ったうえで、閉じている。忘れていた娘と、忘れられぬまま閉じる娘は、同じ冷たさをしていても、中身がまるで違った。
新しい学期の朝、よその土地から越してきた一年生が、用事で小夜子の教室へ来た。
天ノ瀬の余白を、まだ知らない子だった。廊下で行き会っただけの、名も知らぬ相手が、小夜子の前で足を止めた。
「あの、職員室ってどっちですか」
なんでもない声だった。裏も含みもない。透が最初に手を挙げたときの、あの声に似ていた。
小夜子の奥が、わずかに動きかけた。
このまま答えれば、明日はもう一度話しかけられるかもしれない。話しかけられれば、覚える。覚えれば、想う。想えば――牙が立つ。この子へ向かって、線が鎌首をもたげる。透のときと、同じ道をなぞる。半呼吸のうちに、その筋が小夜子の中を走り抜けた。
彼女は、口の端がゆるむのを、先に押さえた。
透が思い出させてくれた、あの笑いの形だった。忘れていたものを、もう思い出せる。思い出せるからこそ、自分の手で埋める。頬の奥をこわばらせ、目を伏せ、声からいっさいの温度を抜いた。相手が二度と話しかけたくなくなる、器の顔を作った。作れることを、彼女はもう知っている。
「……あっち」
短く、冷たく、それだけ。
一年生は、びくりと身を引いた。何かにぶつかったように顔をこわばらせ、礼もそこそこに廊下を去っていく。その背中に、小夜子は線を引かなかった。引く必要が、なかった。あの子はもう、近づいてこない。近づかなければ、想わずにすむ。想わなければ、牙は立たない。あの子は、生きて廊下を歩いていく。ただ運の悪い一日だったと思いながら。
それでいい、と小夜子は思った。
冷たさは、いまや彼女が人に贈れる、ただ一つのものだった。突き放すことが、沈めないことだった。誰も内側へ入れず、自分の望みを、線の内側にただの一つも置かない。そうして境界の外へ、彼女は自分ごと締め出した。牙は、もう立たない。立つ相手が、彼女の中に、一人もいないからだった。
沙夜は、わたしのようにだけはならないで、と言った。
小夜子は、沙夜のようにはならなかった。開いて、伸ばして、水辺で死ぬことは、もうない。誰も想わないのだから、裏切られることもない。失うこともない。沙夜の願いを、彼女はたしかに聞き届けた。聞き届けて、沙夜とは正反対の場所に立った。開いて死んだ娘の隣に、閉じて生きる娘が、ひとり。
生きることが、罰だった。
透を沈めた手で、これから何十年も、彼女は生きていく。笑える顔を持ちながら、二度と笑わずに。想える心を持ちながら、二度と想わずに。持っているのに使わないことは、忘れているより、ずっと重い。その重さを、小夜子は自分に科した。透に、それだけはしてやれた。
川霧の朝、彼女は祠へ手を合わせに行った。
福と美と豊穣の神。天女は、羽衣を奪われて空へ帰れなかった。留まった水のそばで、いまも人を返し続けている。小夜子は、その神の器だった。これからも福を宿し、町は栄え、人は頭を垂れる。近づいた者は、彼女の冷たさに弾かれて、生きたまま遠ざかる。
祠の奥で、小さな像が、静かに笑っていた。
吉祥天の、慈悲の笑みだった。小夜子は、その笑みを長いあいだ見上げていた。慈悲と、拒絶と。その境界が、どこにあるのか。像は答えなかった。答えないまま、ただ、笑っていた。
彼女は、手を合わせた。開いた両手を、そっと合わせて、閉じた。
もう、開くことのない手だった。



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