渇き ―信頼が数値化された街で―「創作大賞2026ファンタジー小説部門」TALESにて応募中
第1章 配給の街
朝の六時四十分、配給端末が起動する音で目が覚める。
正確には、音ではない。壁に埋め込まれた端末が、僕の体温と呼吸を読んで、起きるべき時間に微弱な振動を送ってくる。目覚まし時計はとうに配給対象から外れた。眠りの管理まで、もう僕の仕事ではない。
[第7街区/割当通知] 本日分 飲料水:1.8L(前日比 −0.2L) 栄養体:2/推奨摂取 3 信頼指数:412(−6)
水が、また減った。
理由は表示されない。理由を表示するのは非効率だと、ずっと前に決められたからだ。割当は調整される。された結果だけが、毎朝そこにある。僕はそれを受け取る。受け取る以外のことを、この街区の人間はほとんど忘れている。
信頼指数が六つ下がっていた。心当たりはあった。三日前、隣室のヤマギという男に栄養体をひとつ譲った。彼は「明日返す」と言った。返ってこなかった。端末はそれを「未回収の貸与」として記録し、僕の指数を削った。貸したほうが減るのだ。回収できなかったのは、貸したお前の判断ミスだから。
そういう仕組みになっている。
僕は端末の前に立って、配給口が開くのを待った。金属の蓋が横にずれて、透明な容器がせり出してくる。一・八リットル。両手で持つと、思っていたより軽い。軽さに、いちいち心が動くのをやめたいと思う。
廊下に出ると、同じ階の住人が三人、それぞれの配給口の前に立っていた。誰も話さない。話す理由がない。言葉はときどき、信頼指数を動かす。下手なことを言って指数を削られるより、黙っているほうが安い。だからこの街区は静かだ。人がいるのに、ずっと静かだ。
階段を降りる途中で、ヤマギとすれ違った。
彼は僕を見て、一瞬だけ目を逸らした。それから、何事もなかったように軽く手を上げた。
「よう」
「……どうも」
栄養体のことを言うべきだろうか、と僕は思った。明日返すと言ったよね、と。たった一言だ。言えば、たぶん指数は戻る。端末に「催促した」と記録されて、貸与は正式な取引に書き換わる。それが、ここでの正しいやり方だった。
でも、言えなかった。
ヤマギが少しだけ困った顔をするのが、先に見えてしまうからだ。彼にも事情があるのかもしれない。彼の信頼指数も、どこかで誰かに削られているのかもしれない。そう思うと、口が動かなくなる。
「水、減ったな。お互い」
ヤマギが言った。栄養体の話ではなかった。
「うん」
「まあ、なんとかなるだろ」
彼は階段を降りていった。なんとかなる、の中に僕の栄養体が含まれているのかどうか、確かめる方法はなかった。
外に出る。
第7街区の朝は、いつも薄い灰色をしている。空が灰色なのか、空を覆っている膜が灰色なのか、もう誰も区別しない。街区を囲う壁の上に、監視塔が等間隔に立っていて、その先端で小さな光が点滅している。あれが何を見ているのか、何を記録しているのか、僕たちは知らない。知らされていない。知ろうとすることが、すでに少しだけ、指数を下げる行為だった。
配給広場に、列ができていた。
追加配給の抽選列だ。端末の割当とは別に、余剰が出た日だけ、広場の配給機が少量の水や栄養体を放出する。早い者勝ちではない。指数の高い順だ。僕のような人間が並んでも、ほとんど意味はない。それでも並ぶのは、並んでいる間だけは、何かをしている気になれるからだった。
列の前のほうで、小さな騒ぎが起きていた。

老人が一人、配給機の前で立ち止まっていた。指数が足りず、機械が反応しないらしい。後ろの人間が舌打ちをする。誰かが「どけよ」と低い声で言った。老人は容器を抱えたまま、動けずにいた。
僕は、列を出た。
自分の番号はまだ先で、どうせ何も出ない。手元の容器にはまだ水が残っている。老人の前まで歩いて、僕は自分の容器を差し出した。
「これ、少しなら」
言ってから、しまった、と思った。
広場の端末が、即座に反応する。
[譲渡検出/第7街区] 対象:登録外個体(指数照合不可) 譲渡者 信頼指数:412 → 397
十五、削られた。
譲渡先の指数が照合できない相手——つまり、システムにとって「いてもいなくてもいい」人間に水を渡すのは、最も非効率な行為として処理される。回収の見込みがゼロだからだ。広場の人間が一斉に、僕のほうを見た。
その視線の意味を、僕はもう知っている。
哀れみではない。軽蔑でもない。ただ、観察だ。あいつは、ああいうことをする個体だ。覚えておこう。利用できるかもしれない。——そういう、値踏みの目だった。
老人は僕の水を受け取って、何も言わなかった。礼も言わなかった。礼を言えば、彼の指数も動くからかもしれない。あるいは、礼の言い方を、もう忘れてしまったのかもしれない。彼は容器を抱えて、列を離れていった。
僕の手の中の容器は、さっきより、もっと軽くなっていた。
また損したな、と思った。誰に言われるまでもなく、自分でそう思った。
この街では、誰もが少しだけ嘘をついて生きている。顔色を読み、適当に話を合わせ、必要なら平気で手を引く。そうやって指数を守り、水を守り、自分を守る。それができる人間から順番に、生き延びていく。
僕には、それができなかった。
できない理由を、長いあいだ「清らかな心」だと思っていた。善いことをしているのだと。
でも最近、少しだけ、わからなくなってきている。
広場を出て、街区の外縁を歩いた。壁づたいに歩くと、誰ともすれ違わずに済む。すれ違わなければ、言葉も視線も交わさずに済む。それがいちばん、安かった。
壁の途中に、古い落書きが残っていた。配給制が始まる前のものだろう。塗りつぶされ、薄れて、もう半分も読めない。かろうじて残っている文字を、僕は立ち止まって眺めた。
『たすけ』
その先は消えていた。たすけて、なのか、たすけあい、なのか。どちらだったのか、もう誰にもわからない。
端末が、ポケットの中で短く震えた。
[第7街区/緊急通知] 本日18:00より 配給量 段階的縮小を実施 理由:第6街区との統合準備に伴う再配分 詳細は追って通知
第6街区との、統合。
僕は壁の前で、しばらく動けなかった。
統合が何を意味するのか、正確には知らない。ただ、これまで「統合」と名のついたものが、誰かにとって優しい結果になったことは、一度もなかった。
第2章 正直者は餌になる
統合の通知が出た日の午後、街区は少しだけ、いつもと違っていた。
誰も統合の話をしないのは、いつも通りだった。違っていたのは、人の歩く速度だ。みんな、わずかに速い。配給機の前の列が、いつもより長い。余剰が出たわけでもないのに、人が集まっている。何かが減ると決まったとき、人はまだ減っていないものまで、先に確保しようとする。
僕はその列に並ばなかった。並んでも出ないのは知っていたし、何より、397まで落ちた指数で割り込めば、また何かを言われる。言われるのが嫌なのではない。言われたときに、うまく言い返せない自分を、また見てしまうのが嫌だった。
部屋に戻ると、扉の前にカイトが立っていた。
カイトは、この街区で僕が唯一、友人と呼んでいた人間だ。正確には、呼んでいた、と過去形にすべきかどうか、いつも迷う。子どもの頃、配給所の同じ列に並んでいた。親に置き去りにされた僕に、最初に話しかけてきたのが彼だった。それだけの理由で、僕はずっと彼を信じている。それだけの理由しかないことに、最近、気づき始めている。
「よお。聞いたか、統合」
カイトは笑っていた。彼はいつも笑っている。笑っていれば指数が下がらないと、本気で信じている節がある。実際、彼の指数は僕よりずっと高い。
「聞いた」
「やばいよな。第6街区、指数の基準が違うらしいぜ。統合されたら、こっちの基準で計算し直しだ。お前、大丈夫か?」
大丈夫か、と彼は言った。心配しているように聞こえた。たぶん、半分は本当に心配している。残りの半分が何なのかは、いつも、後になってわかる。
「わからない」
「だよなあ」
カイトは部屋に入ってきて、勝手に床に座った。それから、こちらを見ずに言った。
「なあ、頼みがあるんだ」
来た、と思った。来かたを、僕はもう体で覚えている。世間話、心配、それから頼み。順番がいつも同じだ。順番が同じだと気づいていても、僕はその流れを止められない。止めれば、彼が傷つくかもしれないと思ってしまうからだ。傷つくのは、たぶん僕のほうなのに。

「水を、少し貸してくれないか。統合前に、第6街区の知り合いに渡しておきたいんだ。向こうに渡りができれば、統合後も融通がきく。お前のぶんも、頼んでやれる」
筋は、通っていた。彼の言うことはいつも筋が通っている。だからこそ、断る理由が見つからない。
「どれくらい」
「一リットル」
今日の僕の配給は、一・八リットル。広場で老人に渡したぶんを引くと、手元には一・二リットルしか残っていない。一リットル渡せば、二百ミリリットルだ。一日、それで過ごすことになる。
「……それは、きつい」
言えた、と思った。珍しく、言えた。
カイトの顔から、笑みが消えなかった。消えないまま、少しだけ、種類が変わった。
「きついよな。わかるよ。俺だってきつい。でもさ」
彼は床に座ったまま、僕を見上げた。
「お前さ、さっき広場で、登録外のジジイに水やっただろ」
心臓が、ひとつ跳ねた。
「見てたやつがいるんだよ。お前、知らないやつには平気で水やるのに、俺には貸せないのか。十何年の付き合いだぜ」
言葉が出なかった。
彼の理屈は、間違っている。間違っているのに、どこが間違っているのか、その場で言葉にできない。老人に渡したのと、カイトに貸すのは、違うことのはずだった。違うのに、並べられると、同じことのように聞こえてしまう。僕が薄情な人間であるかのように聞こえてしまう。
そして何より——彼は見ていた。僕が広場で何をしたか、知っていた。心配して訪ねてきたのではなかった。あの十五の減点を、僕がもう後に引けないことを、知った上で来ていた。
それでも僕は、容器を手に取った。
「……五百なら」
「助かる。さすがだよ、お前は」
カイトは立ち上がって、僕の手から容器を受け取り、慣れた手つきで自分の容器に水を移した。目盛りを、きっちり五百で止めた。きっちり止めるところが、彼の几帳面さで、彼の優しさで、そして、彼が決して自分の取り分を間違えない人間であることの証拠だった。
[第7街区/貸与記録] 貸与者 信頼指数:397 → 391 返済予定:登録なし
また、減った。返済予定の登録は、貸すほうにはできない。借りたほうが登録する仕組みだ。カイトは、登録しなかった。
「じゃ、また」
彼は出ていった。扉が閉まる音を聞きながら、僕は手元の容器を見た。七百ミリリットル。今日一日と、たぶん明日の朝までを、これで過ごす。
餌。
いつかカイトが——いや、あれはカイトではなかった。もっと昔、別の誰かに言われた言葉だ。正直すぎる、それは餌にしかならない。誰に言われたかも思い出せないのに、その言葉だけが、何度も戻ってくる。たぶん、何度も、その通りだったからだ。
僕は容器を棚に戻して、壁の端末を見た。
信頼指数:391
三桁の数字が、僕という人間の、ほとんど全部だった。
この数字が高い人間は、信じられている。低い人間は、信じられていない。ただそれだけのことのはずだった。でも実際には、逆だった。この街では、人を信じる人間ほど、この数字が減っていく。疑い、断り、回収し、決して損をしない人間の数字が、上がっていく。
信頼指数。
信頼を測るはずのその数字は、本当のところ、どれだけ他人を信じずにいられるかを測っていた。
僕はその仕組みに、ずっと負け続けている。
窓の外で、監視塔の光が点滅した。僕がいま考えたことを、あの光は記録しただろうか。考えただけで、指数は減るのだろうか。減らないとして——では、考えたことは、どこへ行くのだろう。
夜になって、配給縮小の続報が来た。
[第7街区/配給通知] 明日6:00以降 飲料水割当を一律 −15% 信頼指数 380未満の個体は 追加で −10% 統合審査の対象者には別途通知
380未満。
僕の指数は、391。あと十一。
カイトに貸した、あの五百ミリリットル。あれがなければ、指数は減らなかった。減らなければ、380を割ることは、もっと先だったはずだ。
僕は端末の前に立って、長いあいだ、その数字を見ていた。
明日、また誰かが頼みに来るだろう。心配そうな顔をして、筋の通った理屈を持って。そして僕は、たぶんまた、断れない。断れずに、また減る。減って、380を割る。割れば、追加で削られる。削られれば、統合審査の対象になる。
その流れが、はっきりと見えた。見えているのに、止められる気がしなかった。
止める方法は、たぶん、ひとつしかない。
僕が、嘘をつけるようになることだ。
第3章 見えない線引き
嘘をつく、と決めたわけではなかった。
ただ、明日の朝、誰かが頼みに来たら、今度は断ろう、とだけ思って眠った。断ることは、嘘ではない。でも、断るために理由を用意するなら、その理由は、たぶん本当のことではないだろう。本当のことは「あなたに貸すと指数が減って、僕が統合審査に回される」だ。それは言えない。言えば、相手は「俺のせいにするのか」と言う。だから、別の理由がいる。本当ではない理由が。
その時点で、もう、嘘の準備は始まっていた。
朝が来た。
[第7街区/割当通知] 本日分 飲料水:1.53L(縮小 −15%適用) 信頼指数:391 ※380未満で追加縮小対象
一・五三リットル。減った。でも指数は、昨日のまま391で止まっていた。夜のあいだ、誰にも何も貸さなかったからだ。何もしなければ、減らない。当たり前のことが、今朝はやけに、安心の形をしていた。
配給口の前に立っていると、扉が叩かれた。
ミナだった。
ミナは二つ隣の部屋の女で、僕より少し若い。この街区では珍しく、よく笑い、よく話す。話すと指数が動くのに、彼女は気にしない。気にしないというより、たぶん、人と話さずにいることのほうが、彼女にとっては苦しいのだと思う。その点で、彼女は僕と少し似ていて、少し違った。僕は損をしても話さず、彼女は損をしても話す。
「カズト、いる? あのね、エミが」

扉を開けると、ミナは早口で言った。エミというのは、彼女がよく一緒にいる、もっと若い女の子だ。
「エミ、昨日から栄養体が出てなくて。指数が足りないの。私のぶんを分けたいんだけど、私も今日きつくて。あなた、昨日広場で——」
また、それだった。
昨日、広場で老人に水を渡したこと。あれを、この街区の人間はみんな知っている。知っていて、僕のところに来る。あいつは断らない。あいつは、頼めばくれる。
僕は、用意していた言葉を出そうとした。今日は自分のぶんもない、すまない、と。それは、嘘だった。栄養体は、まだ二つある。一つくらいは、渡せる。渡せるのに、渡さない理由を、僕はゆうべ考えていた。
でも、ミナの顔を見ていたら、その言葉が出てこなかった。
ミナは、自分のために頼みに来たのではなかった。エミのために来ていた。それは、カイトとは違う。カイトは自分のために、心配の顔をして来た。ミナは、エミのために、本当に困った顔をして来ている。
その違いが、僕には、わかってしまう。
わかってしまうことが、僕の弱さだった。線が引けない。この人には貸す、この人には貸さない——その線を、相手の事情で引いてしまう。本当に困っている人には渡してしまう。それは優しさだと、昔は思っていた。でも、本当に困っている人ほど、何も返せない人だ。返せない人に渡すぶんだけ、僕は減っていく。
優しさは、いつも、いちばん回収できない場所に向かって流れていく。
「……一つなら」
僕は栄養体を一つ、棚から取った。手が、自分の意思と関係なく動いている気がした。
「ありがとう。本当に。エミ、喜ぶよ」
ミナは受け取って、笑った。彼女の笑い方は、カイトのとは違った。カイトは、得をしたときに笑う。ミナは、誰かが救われるかもしれないときに笑う。同じ笑顔でも、こんなに違う。
[第7街区/譲渡記録] 譲渡者 信頼指数:391 → 385 返済予定:登録(ミナ/7日後)
ミナは、返済予定を登録した。カイトは、しなかった。
その一点だけで、僕は、彼女に渡したことを後悔しなかった。指数は減った。385。380まで、あと五。それでも、後悔は、しなかった。
ミナが帰ったあと、僕は端末の前で考えた。
線が引けないのではない、と気づいた。僕はちゃんと、線を引いている。カイトには渋り、ミナには渡した。返さない人間と、返す人間を、僕は無意識に見分けている。見分けて、返す人間にだけ、渡している。
ただ、その線は、指数を増やす方向には引かれていなかった。
得をする人間が引く線は、逆だ。返してくれる人間にだけ貸し、返せない人間は切り捨てる。返済能力の高い相手に投資する。それが、指数を増やす線の引き方だ。
僕の線と、彼らの線は、向きが反対だった。
僕は、返してくれるかどうかではなく、本当に困っているかどうかで線を引いていた。困っている人ほど、返せない。だから僕の線は、いつも僕を貧しくする方向に引かれる。
それは、優しさだろうか。それとも、ただ、線の引き方を間違えているだけだろうか。
夕方、僕は試しに、外へ出た。
目的があった。嘘を、一度ついてみようと思ったのだ。
広場の隅で、配給機の不具合を見ている男がいた。タケという、元は別の街区にいたらしい大柄な男だ。寡黙で、めったに人と関わらない。彼の指数は高い。高いのに、誰にも貸さず、誰からも借りない。一人で完結している人間だった。
僕はその男に、近づいた。
「あの、配給機、調子悪いんですか」
知っていることを、知らないふりをして訊いた。これが、僕の最初の嘘だった。配給機が朝から不調なのは、もう街区中が知っている。知らないふりをして話しかけるのは、関係を作るための、ありふれた技術だ。みんながやっている。僕も、やってみようと思った。
タケは、僕をじっと見た。
長い時間、見た。それから、低い声で言った。
「お前、嘘が下手だな」
心臓が、止まりそうになった。
「それ、知ってて訊いてるだろ。配給機の話なんか、どうでもいいって顔してる。何が目的だ」
目的なんて、なかった。ただ、嘘をついてみたかっただけだ。それを正直に言ったら、もっと変な人間に見えるだろう。だから僕は、また嘘を重ねようとして——できなかった。
「……目的は、ないです。ただ、誰かと、話してみたかった」
言ってしまってから、顔が熱くなった。これは、嘘とは正反対の、いちばん言うつもりのなかった本当だった。嘘をつこうとして近づいて、結局、いちばん無防備な本当を差し出していた。
タケは、少し黙った。
それから、ふっと、息を吐くように笑った。笑ったのを、僕は初めて見た。
「変なやつだな、お前」
「よく言われます」
「嘘つこうとして、本当のこと言うやつなんか、初めて見た」
タケは配給機に視線を戻して、それきり何も言わなかった。でも、追い払われはしなかった。僕はしばらく、その隣に立っていた。何も話さなかったけれど、一人でいるのとは、違う立ち方だった。
その夜。
端末に、新しい通知が来た。
[第7街区/統合審査 事前通知] 下記の個体は 統合審査の対象候補です 抽出基準:信頼指数の継続的低下傾向 対象:蒲田 カズト(指数 385 /30日間で −27) 審査日:追って通知 ※対象個体は 現時点で他街区への移動を制限されます
僕の名前が、そこにあった。
指数の低下傾向。30日で27下がった。下がった理由を、端末はもう知っている。広場の老人。カイトの五百ミリリットル。ミナの栄養体。一つひとつは、小さな善意だった。小さな善意が積み重なって、いま、僕を審査の対象にしていた。
移動制限。
統合が来る。来るのに、僕は、もうこの街区から出られない。
僕は端末の前で、さっきのタケの言葉を思い出した。お前、嘘が下手だな。
そうだ。僕は嘘が下手だ。下手で、優しくて、線の引き方を間違える。その全部が、いま、一枚の通知になって、僕を逃げ場のない場所に追い込んでいた。
嘘をつけるようになりたい、と昨日は思った。
でも、今日わかったのは、もっと残酷なことだった。
——たぶん僕は、もう手遅れになるまで、嘘がつけない。
第4章 初めての共犯者
移動制限がかかった翌日から、街区の人間の僕を見る目が、変わった。
いや、目そのものは変わっていない。変わったのは、その目が何を計算しているか、だ。これまでの「利用できるかもしれない」が、「もう利用できない」に変わった。統合審査の対象になった個体に貸しを作っても、回収の見込みがない。審査で街区を移されたら、貸したものは戻らない。だから、誰も僕に頼みに来なくなった。
頼まれなくなって、初めてわかった。頼まれることが、この街区での、僕の唯一の居場所だったのだと。損をしながら、それでも誰かに必要とされていた。その「必要」が、利用に過ぎなかったとしても。それすら、なくなった。
ミナだけは、変わらなかった。
審査通知の翌朝、彼女は栄養体を一つ、僕の部屋の前に置いていった。返済の七日後より、ずっと早かった。返すというより、返しに来てくれた、という感じだった。置き手紙もなかった。ただ、栄養体が一つ、扉の前にあった。
僕はそれを拾って、長いあいだ、手のひらに乗せていた。
この街区にも、こういう人間がいる。減るとわかっていて、それでも何かを置いていく人間が。でも、こういう人間ほど、この世界では長く保たない。ミナの指数も、きっと、どこかで削られ続けている。優しさを、回収できない場所に流し続けて。
その日の夕方、僕は配給を受け取りに広場へ出た。
審査対象になってから、追加配給の抽選列には、もう並ぶ気もしなかった。どうせ出ない。出ないどころか、対象個体が列に並ぶこと自体が、何かの減点対象になっているかもしれない。だから僕は、列を遠巻きに見ていた。
そのとき、列の中で、また小さな騒ぎが起きた。
昨日の老人だった。広場で僕が水を渡した、あの登録外の老人。彼がまた、配給機の前で立ち往生していた。指数が照合できず、機械が反応しない。後ろの人間が苛立ち、誰かが「邪魔だ」と言った。
僕は、動けなかった。
動けば、また指数が減る。385から、もう一段。380を割れば、審査が早まるかもしれない。今度こそ、渡してはいけない。頭では、はっきりわかっていた。
そのとき、列の中から、一人の女が出てきた。
小柄で、茶色の髪を短く切った女だった。彼女は老人に近づくと、自分の容器を差し出した。昨日の僕と、同じことをした。
広場の端末が反応する音が、聞こえた。彼女の指数も、削られたはずだった。
でも、彼女は、僕とは違っていた。
彼女は水を渡したあと、老人に何か短く言って、それから配給機の操作パネルに触れた。指を素早く動かして、何かをした。次の瞬間、反応しなかったはずの機械が、ことりと音を立てて、老人のぶんの栄養体を吐き出した。
彼女は、機械を、騙していた。
老人が立ち往生していた隙に、自分が水を渡す動作で人目を引きつけて、そのあいだに操作パネルを操作していた。指数の照合をすり抜けて、機械に栄養体を出させた。一連の動きは、よどみがなかった。何度もやったことのある人間の動きだった。
善意と、技術が、同じ一つの動作の中にあった。
僕は、それを見ていた。見ているうちに、彼女がこちらを向いた。目が合った。
彼女は、僕がずっと見ていたことに、気づいていた。
まずい、と思った。彼女のしたことは、たぶん不正だ。それを見ていた僕は、通報すれば、指数が戻るかもしれない。彼女は、僕がそう考えることを、わかっている顔をしていた。
彼女は、まっすぐ僕のところへ歩いてきた。逃げなかった。逃げる代わりに、近づいてきた。
「見てたよね」
低い、落ち着いた声だった。
「見てた」と、僕は正直に言った。嘘をつく余地は、たぶんあった。でも、つけなかった。
彼女は、少しだけ、意外そうな顔をした。
「通報する?」
「しない」
「どうして」
どうして、と訊かれて、僕は詰まった。理由を、うまく言葉にできなかった。通報すれば指数が戻る。戻れば、審査が遠のくかもしれない。それでも、しない。理由は——
「あの人に、栄養体が要るのは、本当だから」
言ってから、これも理由になっていない、と思った。彼女のしたことは不正で、不正は不正だ。困っている人がいることと、機械を騙すことは、本当は別の話だ。でも僕の中では、それが繋がってしまっていた。困っている人がいて、それを助ける手段がそれしかないなら、不正かどうかは、二番目の問題だった。
彼女は、僕をしばらく見ていた。さっきのタケと同じように、長く見た。
それから、ふっと、表情を緩めた。
「あなた、審査対象でしょ。蒲田カズト」
名前を、知られていた。
「なんで」
「対象者のリスト、流れてくるの。指数の低下傾向で抽出された個体。あなた、この一ヶ月で二十七も落ちてる。理由、だいたい想像つく」

彼女は、僕の容器に目をやった。昨日、老人に水を渡した、その容器に。
「困ってる人に、渡しちゃうんでしょ。返ってこないってわかってても」
図星だった。何も言えなかった。
「私もね、昔そうだった」
彼女は言った。昔、という言葉に、何かが滲んでいた。それ以上は、言わなかった。
「でも、ただ渡すだけじゃ、自分が先に死ぬ。だから、覚えたの」
彼女は、さっき触れた操作パネルのほうを、顎で示した。
「渡すなら、減らない方法で渡す。善意を、技術で包む。そうしないと、この世界で善意は、ただの自殺だから」
善意を、技術で包む。
その言葉が、僕の中に、深く入ってきた。
僕はずっと、二つに一つだと思っていた。正直で、優しくて、損をして死ぬか。嘘をついて、冷たくなって、生き延びるか。その二つしかないと思っていた。だから、嘘をつけるようになろうとした。優しさを捨てようとした。
でも、彼女は、第三のことをやっていた。優しさを、捨てていない。捨てずに、生き延びる技術を、その上に乗せていた。
そんな道が、あるのか。
「名前」と、僕は訊いた。
「リナ」
彼女は、それだけ言った。
「あなた、たぶん、もうすぐ審査される。そのとき、何も技術を持ってなかったら、終わりだよ」
リナは、踵を返した。去り際に、こちらを見ずに、言った。
「学ぶ気があるなら、明日、ここに来て。同じ時間。——ただし、私を信じる理由は、ひとつもないけどね」
彼女は、人混みに消えていった。
僕は、広場に立ち尽くしていた。
信じる理由は、ひとつもない。彼女は、そう言った。普通、人を誘うとき、信じてくれと言う。彼女は逆を言った。信じる理由はない、と。
それは、この街区で誰も言わない種類の言葉だった。みんな「信じてくれ」と言って、裏切る。彼女は「信じる理由はない」と言って、手を差し出した。
どちらが、信じられるだろう。
僕にはもう、わからなくなっていた。わからないまま、明日、あの場所に行くだろうという予感だけが、確かにあった。
[第7街区/通知] 統合審査日:3日後 14:00 対象個体は 指定時刻に第3ゲートへ出頭のこと 欠席は 信頼指数の全没収と見なす
審査日が、決まった。
三日後。
リナに会える時間は、二回だけだった。
つづく



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