見出し画像

【60代短編】止まり木


藤野久子、六十三歳。

夫が定年した。四十年勤めた会社をやめた。家に夫がいる。一日中いる。

夫婦でいつか小さな店をやろうと言うてきた。居酒屋だ。三十年言うてきた。

わたしは料理を作る。家の味だ。子も孫もこれを食べて育った。

夫は料理をしない。客をもてなすのがうまい。話を聞くのがうまい。

普通は逆だ。大将が作る。女将が運ぶ。うちは逆にした。

ノートを開いた。書いた。「三年で町の止まり木になる」。

そこから逆に数えた。三年後がそれなら、一年後はどうか。今月は。今日は。

今日やることを一つ書いた。「母の煮物を仕込む」。

娘が本を置いていった。アドラー心理学の本だ。線を引いた言葉があった。

「所属は与えられない。自分から関わって手に入れる」。

共同体感覚という言葉だった。

母のレシピで煮物を仕込んだ。だしを引いた。のれんを出した。夫が暖簾の下で客を待つ。

客は来ない。一日目は二人。二日目は一人。

隣に大きなチェーンの居酒屋がある。安い。若い客はそっちへ行く。

夫が値段を下げようと言った。品書きを増やそうと言った。

真似ても客は来なかった。ひと月赤字が続いた。

貯金が減る。夫とはじめて言い合いになった。

「その歳で無理やったんや」。夫がそう言った。

ノートを開き直した。線を引いた言葉を読んだ。所属は待っていても来ない。

客を集めようとしていた。それをやめた。

品書きを母の味だけに戻した。安売りをやめた。うちの食卓をそのまま出した。

夫は客を集めるのをやめた。来た一人に話しかけた。

はじめの客は若い男だった。十年前、うちの子と同じ塾に通っていた。親の帰りが遅かった。いつも腹をすかせていた。

うちでよく飯を食わせた。金は取らなかった。

その子が社会人になっていた。母の煮物を覚えていた。

男は毎晩来るようになった。会社の同僚を連れてきた。

夫が一人客の隣に座る。話を聞く。次の日その客が友を連れてくる。

一人で来る客が増えた。カウンターに並んで座る。知らんもん同士がしゃべりだす。

母はもういない。煮物の味は母のものだ。母の味を町の人が食べている。母はまだ台所にいる。

一年たった。ノートを見た。三年後の一行にもう着いていた。

店は満席の日が増えた。常連が常連を呼ぶ。

ノートに次の一行を書いた。「二軒目はいらん。この一軒を長う続ける」。

夜が来る。夫が暖簾を出す。わたしは鍋に火を入れる。母の煮物のにおいが店に満ちる。

カウンターの端の一脚は空けてある。誰かが羽を休めにくる。





いいなと思ったら応援しよう!

LaLaLa はぁ、はぁ……っ! お願い、です……! 『怪獣の腹の中で』を……どうしても、私の手で「紙の本」にしたいんです……っ! あなたの、そのサポートが……本の、一ページに、なります……っ。 はぁ……応援、してくれませんか……っ?