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自由が欲しい人ほど、立ち止まれない



── 走り続ける理由を、
自由と呼んでしまいそうなあなたに



「自由になりたい」

そう言う人ほど、
なぜか一番、走り続けている。


予定を分単位で詰め、
複数の役割を抱え、マルチタスクをこなしながら
麻雀のプロ雀士や将棋の棋士のように、
常に次の一手二手三手先まで考えている。


止まれない。
し、止まらない。

何もしない時間が、落ち着かない。
じっとしていても心が休まらない。

でも、それは本当に
“自由を求めている状態”だろうか。


自由とは、
選択肢が多いことではない。


いつでもどこへでも行けることでも、
何でもできることでもない。

止まっても、壊れないこと。

何もしなくても、落ち着いていられること。

それが、自由の根底にあるものだ。


止まれない人は、
止まることで“なにか”を失う気がしている。


評価。
役割。
居場所。
勢い。
エネルギー。

だから馬車馬の如くひた走る。
走りながら「自由が欲しい」と言う。


けれど、
走り続けているかぎり、
自由はいつも少し“先”にある。

鼻先に吊るされた人参のように。


身体を見ていると、よくわかる。


休めない身体ほど、
動きは不自由になっていく。

可動域は狭く、
呼吸は浅く、
選べる動作は減っていく。

思考が固定化し、
同じパターンを繰り返すほど、
脳の柔軟性そのものも失われていく。


だから、追い込まれるほど、
同じ選択しかできなくなる。


止まれないことは、
自由の真反対にある。


本当の自由は、
止まることを許したあとにやってくる。


動かなくても、
価値が消えないと知ったとき。

何もしなくても、
自分がそこに在っていいと感じたとき。


自由は、
走り切った先ではなく、

立ち止まれる場所に宿っている。

そこで初めて、
選択が自分から生まれはじめる。



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