第25討論精読第1回Disputatio 25 De concursu Dei cum causis secundis ad omnem earum actionem et effectum(第25討論「すべての二次的諸原因の働きと結果に対する二次的諸原因との神の協働について」)第1節
「神は私たちの選択にどのように関わっているのか?」
これは、哲学や神学の歴史を通じて繰り返し問われてきた難問です。
人間には自由があると言われますが、それが本当に意味を持つためには、「神の全能性」や「予知」「摂理」とどのように整合するのか、明確にされなければなりません。
16世紀の神学者ルイス・デ・モリナは、この難問に真正面から取り組みました。彼の主著『コンコルディア』は、「神の恩寵と人間の自由意志をいかに調和させるか」を徹底して論じた書物です。
これから、その『コンコルディア』第2部第25討論から、ラテン語原文に即して、訳・解説・構文分析(別記事)を行いながら読んでいきます。
今回はその第一回として、第25討論冒頭の第1節をご紹介します。この節では、モリナが本討論全体の焦点となる「神の協働の二様態」(一般的協働と特殊的協働)を定義し、それらが人間の自由意思にどのように関わるかを概観します。
では、始めます。
第1節
Constituta arbitrii nostri libertate dicendum est tum de concursu Dei generali quo cum causis omnibus secundis atque adeo cum libero arbitrio ad omnem actionem et effectum concurrit, tum etiam de particulari quo insuper arbitrium nostrum ad supernaturalia opera adiuvatur.
「我々の自由意思の自由が確立されたところで、次に神の一般的協働について語られるべきである。神はこの一般的協働によって、総ての第二原因および我々の自由意思と一緒になって、あらゆる働きと結果にもたらすべく協働している。そしてまた神の特殊的協働についても語られるべきである。この特殊的協働によって、とりわけ我々の意思が超自然的な業に向かうように援助してくれるのである。」
注釈:
モリナは、第1部で議論してきた「自由意思の成立」を踏まえて、神と人間(特に人間の自由意思)との協働という核心的テーマに進みます。
彼によれば、すべての被造物の行為は、神の力の参与なしには成し遂げられない。彼は、この神の力を「一般的協働」 (concursus generalis)と呼びます。他方、信仰や愛、恩寵といった超自然的な行為には、神のさらなる「特殊的協働」(concursus specialis)が必要であると彼は述べています。まとめると、次のようになるでしょうか。
一般的協働 (concursus generalis):
神が全ての自然的行為に対して普遍的・中立的に関与すること。自由意思を含むあらゆる第二原因(被造物の原因)の働きに神が力を貸している。
特殊的協働 (concursus specialis):
神が特別な恵みによって、人間の意思を超自然的善(例えば信仰、愛、恩寵)へと導くこと。
引き続き読んでいきます。
Sunt enim haec duo concursus Dei genera longe inter se diversa neque eodem modo ad nostrum arbitrium affecta.
「というのも、これら二つの神の協働は互いに類において遠く隔たったものであり、我々の意思に対して同じありかたをするものではないからである。」
注釈:
この文は、前の文で提示した一般的協働と特殊的協働の本質的な違いを明示しています。この2つの協働は「我々の意思に対して同じありかたをするものではない」ため、同一視してはならないとモリナは強調します。この2つの協働が、どう「類において遠く隔たったもの」なのか、これから(多分長くかかると思いますが)見ていきましょうということです。ただ、おそらく、この区別は、神の摂理と人間の自由を調和させるモリナの意図において非常に重要ではないかと思います。
ということで、次の文を見ていきます。
Ac sane, nisi modum utriusque perspectum habeamus, neque scire poterimus, quanam ratione libertas arbitrii nostri salva maneat et consequenter rerum contingentia quam una cum illa ostendere molimur, neque item qua ratione eadem arbitrii libertas cum divina gratia, praescientia, voluntate; providentia, praedestinatione et reprobatione consentiat.
「そこで次のように語ってもよいだろう。〔一般的協働かまたは特殊的協働の〕いずれかについて明確なあり方を手にすることができなければ、次のことはできないだろう。つまり、いかなる仕方で我々の自由意思と、したがってまた偶然性が損なわれることなくとどまることができるのか知ることができないだろう。事物の偶然性とは、我々の意思の自由と一つであると示そうと工夫しているものであるが。またいかなる仕方で意思の自由が、神の恩寵、予知、意志、摂理、救霊予定、業罰と調和しうるのかも知ることはできないだろう。」
注釈:
この文は、モリナがなぜ協働概念を論じるのか、その理由を端的に要約しています。
なぜ「協働」の理解が重要なのか?
それは、神がどのように人間の行為に関与するか(協働の様式)を理解しない限り、次の問題に答えられないから。
Q. 事物の偶然性と神の予知・予定・摂理はどう両立するか。
Q. 人間の自由意思と神の予知・予定・摂理とどう両立するのか。
神の協働の様式を明確にしない限り、自由意思も、偶然性も、神の恩寵などとどう調和するかも分からないからだとしています。
モリーナの試み:人間の自由意思と神の恩寵の「調和」
モリーナは、自由意思の確保と、神の恩寵・予知・予定・摂理との整合を両立させようとします。
これらのことは、キリスト教思想・神学における大昔からの大問題であり、カトリック内において大論争を巻き起こしました。イエズス会士であったモリナとドミニコ会士だったバニェスとの間でいわゆる「恩寵論争」(Controversia de gratia)が起こりました。恩寵論争については、それだけでかなりにボリュームを要するので、おいおい、徐々に触れていければと思います。
そして、この一文でも、モリナにおける「偶然性(contingentia)」の重みがわかります。モリナにとって、自由意思と偶然性は密接に結びついています。
神が未来の出来事を知っていたとしても、それは決定論的に予定しているのではなく、自由な選択の結果を神は「中間知(scientia media)」によって知っている、というのが彼独自の理論です。
つまり、この文は、『コンコルディア』全体を貫く核心的問いである、
「神の全知と人間の自由は、どうすれば同時に真となるのか?」
という問題の入り口を提示していると思います。
では、次の文に進みます。
Denique ex notitia modi utriusque concursus complurium gravissimarum difficultatum cognitio explicatioque dependet.
「要するに、各々の協働(一般的協働と特殊的協働)のあり様を理解することによって、多くの極めて重大な問題の認識と解明がかかっている。」
註解:
「complurium gravissimarum difficultatum」は、「多数の」「最も重い」問題という二重の強調。この言いぶりから、モリーナにおいては、自由意思と神の協働の理解は、他の多くの難題の鍵となるという強い主張です。
「cognitio explicatioque」には、cognitioというからには「表面的理解」にとどまらず「理論的な説明」「合理的整合性の確立」まで含まれていると思います。
この文は、第25討論の導入部における締めくくりの一文です。モリナは、
「神の協働(一般的・特殊的)の様式を正しく理解しない限り、多くの重大な難問は理解も説明もできない」
と述べています。
では、「多くの重大な難問」とは何か?
おそらく以下のような問題群ではないでしょうか。
Q. 自由意思と神の恩寵の関係:
人間は本当に自由に選んでいるのか?それとも神の恩寵によって必然的に動かされているのか?
Q. 神の予知と未来の偶然性:
神が未来を知っているなら、その未来は決定されているのでは?偶然性や自由性はどうなる?
Q. 神の摂理と悪の存在:
神がすべてを支配しているなら、悪がなぜ存在するのか?
Q. 救済と予定・劫罰の整合性:
なぜある者は救われ、他の者は滅びるのか?それが「自由な選択」だと言えるのか?
モリナによれば、これらの問題に共通して求められるのが、神の因果関与としての協働(concursus)と自由意思の保存との整合的な理解であると述べています。
この協働概念において、問われることは主に次の事柄だと思います。
・ 神は、どのような仕方で人間の行為に関与しているのか?
・ その関与は、人間の自由を侵していないのか?
・ 逆に、神が関与していないなら、それは本当に「神が摂理する世界」なのか?
まとめると、モリナはこの一文で、神の協働の様式(一般・特殊)を正しく理解することが、神学と哲学の最も深い問題を解決する鍵であると強く宣言する。
そして、これらのことに対し、第2節以降で、少しずつ論じられていくことと思います。
以上が、第25討論の第1節におけるモリナの基本的立場の提示でした。神の協働の二様態の違いは、自由意思と恩寵の整合性を考察する上で鍵となる概念です。
神は、すべての原因と共に働いている――しかし、それが私たちの「自由」を奪ってはいないのか?
モリナはこの難問に、いかに応答しようとしたのでしょうか。次回、第2節ではこの問いにいっそう踏み込んでいきます。
今後も、少しずつ、一緒にこの奥深いテキストを読み進めていけたら嬉しいです。
本記事をお読みくださり、ありがとうございました。より詳細な構文解析については、別途、有料部分で補足するようにします。
次回は第2節を通して、モリーナの自由意思論のさらなる展開に迫ります。
