【雨季の宿】第九章🏍️夜は、いつ終わったのか分からなかった。
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気づいたとき、森を隙間なく塗り潰していた絶対的な黒は、わずかにその濃度を落としていた。
闇が完全に消え去ったわけではない。
ただ、一面の黒の中に微かな濃淡が生まれ始めている。
太い幹の黒と、その奥の空間の黒が分かれる。
頭上を覆う葉の重なりが、ぼんやりと別の層を持ち始める。
光が戻ってきたのではなく、この狂った世界が、再び物理的な輪郭を取り戻し始めたという感覚だった。
わたしは、まだ歩いていた。
歩き続けていた。
背後で銃声を聞いてから、どれだけの時間が経ったのか、まったく分からない。
足は出る。前へ、出てしまう。
それが自分の意志によるものなのか、ただの絶望的な惰性なのか、すでに区別がつかない。
身体はとうの昔に限界を越え、熱病に焼かれているはずなのに、止まることも、泥に崩れ落ちることもなく、ただ機械のように前へ運ばれていく。
視界の真ん中に、若者の背中がある。
いまのわたしにとって、それだけが現実を繋ぎ止める唯一の接点だった。
やがて、空が白く濁り始める。 木々の梢の上に、薄く光の膜が乗る。
その光が、時間をかけてゆっくりと森の底へ降りてくる。
葉の輪郭を冷たくはっきりとさせ、幹の荒い質感を浮かび上がらせ、地面の複雑な凹凸を容赦なく視界に戻していく。
朝だった。 森が、また別の場所へと姿を変える。
夜の圧倒的な圧力が抜ける。 だが、安堵はない。
ただ、見えなかったものが見えるようになっただけだった。
足元が、はっきりと網膜に映る。
泥。濡れた落ち葉。罠のように絡み合う根。
昨日までなら、それらを確実に処理し、避けて歩いていたはずだ。
だが、いまは違う。 見えていても、脳から筋肉への命令が追いつかない。
自分の足がどこを踏み抜いているのか、事後報告のように遅れて理解する。
それでも、歩く。
前を行く若者が、ふと速度を落とした。 初めてだった。
夜のあいだ、彼は機械のように一度も歩調を変えなかった。
それが、ここでわずかに緩んだのだ。
何かが変わった。 わたしは、その背中を見たまま、遅れて理解する。
空気が違う。 匂いが変わっている。
森の腐葉土と湿ったカビの匂いの中に、明確な別の層が混じっている。
煙。 焼けた木の灰。 そして、人間の生活の匂い。
難民キャンプのそれよりは薄く、だが森の匂いよりは確実に濃い。
さらに進む。 木々の密度が、わずかに下がる。光が入りやすくなる。
地面が、不自然に平たく踏み固められている。
道と呼べるほど立派なものではないが、人間が長い年月をかけて繰り返し通った痕跡が、そこには確かにあった。
若者は、振り返らない。
だが、その歩き方から警戒が消え、完全に迷いがなくなっている。
すでにこの場所の土を、足裏が知っている歩き方だ。
さらに数分。 視界の奥の緑のなかに、人工的な直線が現れる。
竹。 荒く編まれた壁。 低い屋根のような形。
わたしは、そこでようやく理解する。 村だ。 あの若者の村。
最初の日の夕暮れに立ち寄った、あの場所。
ついに、そこまで戻ってきたのだ。
認識した瞬間、身体が急に千切れるように重くなった。
それまで、筋肉と骨を無理やり繋ぎ止めていた見えない糸が、ぷつりと音を立てて切れる。
一歩、足が致命的にもつれる。踏み出したはずの足が、地面を正確に捉えられず、泥の上で滑る。
若者が、そこでようやく立ち止まり、振り返った。
一瞬だけ、無表情な視線が合う。 それだけで十分だった。
「着いた」という事実が、言葉なしに伝わる。
背後からブラザーが近づき、崩れかけたわたしの肩に手を置く。
今度は、はっきりと倒れまいと支える、物理的な力だった。
わたしは、その力に半ば引きずられるようにして、村の中へ入る。
人の気配がある。 泥だらけの子どもがいる。女がいる。男がいる。
だが、彼らは近づいてこない。
一定の距離を保ったまま、警戒と無関心の入り交じった目でこちらを見ている。
見慣れないファラン。
しかも、泥にまみれ、熱に浮かされ、まともに歩けてすらいない。
その存在は、この閉ざされた村にとって明らかな異物であり、不吉な持ち込み物だった。
わたしは、彼らの視線の意味を解釈する余裕もなく、ただただ足を動かす。
どこかへ導かれる。
広場の端にある小屋の前。低い屋根。隙間だらけの竹で組まれた床。
若者が、村の誰かに向かって短く何か言う。
すぐに、誰かが低い声で応じる。
中へ入る。 暗い。外の鋭い光が遮られる。
その瞬間、身体が完全に限界を迎えた。
すべての力が抜ける。膝が折れる。
そのまま、糸の切れた操り人形のように床に落ちる。
竹の硬さが肩や頬を打つが、痛みを感じる余裕すら脳には残っていない。
ただ、肉体の重さが消えたことだけが、強烈な快感として処理される。
横になる。 背中に竹の感触がある。呼吸が不快な音を立てて荒い。
だが、さっきまでとは違う。
もう、歩かなくていい。止まっても、撃たれない。
その事実だけが、熱に浮かされた頭の中で唯一はっきりしていた。
外から、人の声がする。水の跳ねる音。何かを急いで運ぶ気配。
すべてが、水底から聞くように遠い。 わたしは、目を閉じる。
虫を探していた。 幻のカブトムシ。バンコクで聞いた与太話。
そのはずだった。
だが、いまその狂った動機を思い出しても、まったく現実味がない。
ただ、ひとつだけ確かな事実が残る。
ここまで来た。 生きたまま、ここまで戻ってきた。 それだけだった。
意識が、ゆっくりと泥の底へ沈む。
今度は、抗う理由がどこにもない。 深い闇が来る。
だがそれは、銃弾の飛び交う昨夜の闇とは違う。
ただの、圧倒的な眠りだった。
眠りに落ちていたのが、どれほどの時間だったのか分からない。
数分だったのかもしれないし、半日以上の数時間だったのかもしれない。
夢は見ていない。
ただ、意識の電源が強制的に切られ、そして再び無理やり入れられただけだった。
肩を揺さぶられる。 暴力的なほど強くはない。
だが、拒絶を許さない逃げ場のない力で、現実へ引き戻される。
目を開ける。 視界が水に滲んだようにぼやけている。
差し込む光が目に痛い。輪郭が遅れてついてくる。 ブラザーがいる。
ひどく近い距離で、こちらを見下ろしている。
何か言っている。
最初は、その意味が脳に入ってこない。
音の塊として耳に届き、それが言葉として結びつくまで、絶望的な遅れがある。
「ゴー」
それだけだった。 だが、続けて早口で何かを言う。短い。
そして、極めて断定的だ。
…ここに長くいられない。
それは、言葉が分からずとも空気で理解できた。
わたしという異物がここにいること自体が、この村にとって致命的な負担になるのだ。
昨夜の武装した男たち。監視の目。森に引かれた追跡の線。
すべてが、この無防備な場所へ波及する。
ここは、わたしを守ってくれる場所ではない。ただ、通過するしかない場所だ。
身体が、鉛を流し込まれたように重い。 だが、起きる。
起きなければならない。
外へ這い出ると、若者が待っていた。
彼はすでに準備を終え、村の外れに立っている。
その傍らに、一台のオフロードバイクがある。
来るときに、内臓を揺らしながら乗ってきたあの鉄の塊だ。
あのときは、ただの乱暴な移動手段だった。だが、いまは違う。
これが、この死の領域から抜け出すための、たったひとつの蜘蛛の糸になる。
わたしは後部シートに乗せられる。
自分で足を上げて跨いだのか、彼らに両脇を抱えられて持ち上げられたのか、記憶がはっきりしない。
手が、本能だけでハンドルの後ろのパイプを探る。 掴む。
力が入らない。指先の感覚が薄い。それでも、絶対に離さない。
キックペダルが踏み降ろされ、けたたましい音とともにエンジンがかかる。
暴力的な振動が、股ぐらから背骨を伝わり、身体の奥深くまで響く。
それだけで、胃液が逆流し、吐き気が込み上げる。 だが、止められない。
バイクが泥を跳ね上げて動く。 村を離れる。 振り返る余裕はない。
というより、振り返るという発想そのものが、脳から完全に欠落している。
ただ、しがみつく。それだけに全細胞を集中させる。
道は、道ではない。
森の中を無理やり抜ける、ただの獣道と轍の連続だ。
泥。石の隆起。張り出した太い根。 バイクは狂ったように跳ねる。
サスペンションが吸収しきれない衝撃が、直接骨盤から内臓へと入る。
そのたびに、痛みを通り越して意識が白く飛びそうになる。
目を閉じるな。 そう思う。閉じたら、そのまま後ろへ落ちる。
落ちれば、確実に首の骨を折って終わる。
手に力を込める。
込めているつもりでも、どこまでパイプを握りしめられているのか分からない。
腕全体が痺れ、指の感覚が完全に消え失せる。
それでも、精神の力だけで離さない。
風が当たる。 ひどく冷たい。
だが、熱病に冒された身体の内部は燃えるように熱い。
その極端な矛盾が、さらに意識を曖昧に引き裂いていく。
時間の感覚が、完全に消滅する。 どれくらい走ったのか分からない。
ただ、終わりのない暴力的な振動と、冷たい風と、耳をつんざくエンジンの爆音だけが、永遠に続くように思えた。
やがて、道が変わる。 明らかに、タイヤへの抵抗が変わったのだ。
激しい上下の揺れが減る。地面が、人工的に均されている。 音も変わる。
森の重い空気が後ろへ退いていく。
代わりに、人間の作る音が次第に大きくなって戻ってくる。 話し声。
金属を打ち合わせる音。遠くの別のエンジンの響き。
町だ。
不意に、バイクが止まる。 エンジンが切られる。
その瞬間、世界が鼓膜が破れるほど静かになったように感じた。
わたしは、まだ硬直したままバイクのシートにしがみついていた。
ブラザーに肩を叩かれ、ようやく手を離す。 一気に力が抜ける。
身体が前へ崩れ落ちそうになるのを、彼が脇を抱えて支える。
そのまま、無理やり歩かされる。
足の裏が、地面に触れている感覚がほとんどない。
それでも、彼の力に引かれて前へ進む。 建物が見える。
竹や葉で編まれたものではない。コンクリートの壁がある。
まともな屋根がある。扉がある。 最初の日に泊まった、あの宿屋だ。
中に入る。 空気が決定的に違う。
森の湿気と死の匂いがなく、空間が人間の手によって完全に「閉じられて」いる。
外よりも匂いが少なく、無機質だ。それだけのことが、いまのわたしには異様に感じられた。
わたしは、ロビーのプラスチックの椅子に座らされる。
あるいは、床に直接へたり込んだのかもしれない。視界がグラグラと揺れて安定しない。
ブラザーが、カウンターの向こうで誰かと何かを話している。
宿の人間だろう。 短いやりとり。声の調子で分かる。
それは報酬の「交渉」ではない。単なる「説明」か、あるいは「引き継ぎ」だ。
やがて、ブラザーがこちらを振り返る。 何も言わない。
ただ、一瞬だけ、その濁った視線をわたしの目と合わせる。
それで十分だった。 生きてここまで連れてきた。約束は果たした。
彼らの仕事は、ここで完全に終わりだ。
わたしは、ひび割れた口を開く。 喉が張り付いて、言葉がうまく出ない。
「マネー……」
かすれた、惨めな声。それ以上、続かない。
追加の礼を払おうとしたのか、ただ言葉を絞り出したかったのか、自分でもわからない。
泥だらけのズボンのポケットを探る。 空の財布のほか、何もない。 本当に、何もない。
この世界で価値を持つと思われていたものはすべて、あの銃声の鳴る森と、果てしない道の途中で、とうにその意味を失って消え失せていた。
一文無し。 その即物的な事実が、遅れてはっきりと脳に刻まれる。
命は辛うじてつながった。 だが、物理的には何も持っていない。
この泥まみれの辺境の町で、何ひとつ。
ブラザーは、そんなわたしの姿を見て、わずかに肩をすくめた。
それ以上は関与しない、という明確な動きだった。
当然だ。彼らはボランティアではない。
狂った異邦人をここまで生きて連れ帰っただけでも、最初の金に対して十分すぎる仕事をしたのだから。
彼は背を向ける。 そして外へ出る。
そのまま、一度も振り返ることなく。 バタンと扉が閉まる。
わたしは、その薄暗い空間に一人取り残される。
燃えるように熱を持った身体。
空っぽのポケット。 すべてが遠い、知らない町。
しばらく、何も考えられない。 ただ、荒い呼吸を繰り返すことしかできない。
だが、熱に浮かされた頭の奥底で、ひとつだけ確かな事実が重く横たわっていた。
まだ、終わっていない。
幻を見た事実も、あの森がそこにあるという事実も、わたしが生き延びてしまったという事実も。
そのすべてが、ここからまた続いていくのだということだけだった。
第十章はこちら
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