【雨季の宿】第五章☀️朝は白々しく、何事もなかったかのような顔をしてやってくる。
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第五章☀️朝は白々しく、何事もなかったかのような顔をしてやってくる。
夜の破裂音がまるで悪質の冗談であったかのように…
火が起こされ、煙が細く立ち上り、まだ完全に目を覚ましきっていない湿った空気の中で、人々の動きがゆっくりと形を取り始める。
欠けた器に水が満たされ、何かが煮られ、裸足の子どもが走り、痩せた犬がそれを目で追う。
すべてが、昨日とまったく同じ順序と速度で進んでいる。
違うのは、こちらの内側だけだ。
昨夜の音は、まだ耳の奥から消えていない。
空気を裂く乾いた破裂。 遅れて届く、腹の底へ泥のように沈む重い爆ぜ。
夜気の向こうから、骨の内側へまでダイレクトに届いたあの暴力的な震え。
それが夢ではなかったことは、いま目の前で繰り返されている完璧な朝の平穏が、逆に証明していた。
この土地では、闇の奥で人間が殺し合ったという事実と、翌朝の粥が煮えるという事実とが、何の矛盾もなく同居するらしい。
どちらかがどちらかを打ち消すわけでも、劇的に世界を変えるわけでもない。ただ、無関心に両方が並び立っている。
わたしは、火のそばに立っている。
ブラザーがいる。 あの若者もいる。
ふたりはすでに準備を終えているように見える。
だが、それは出立のために何かを特別に整えた結果ではなく、もともと「生きるために必要なもの」以外を一切持っていないだけなのだろう。
袋は小さく、身につけているくたびれた服は昨日と変わらない。
歩くために必要な最小限の機能が、最初から彼らの身体の延長として備え付けられている。
言葉は、すぐには出てこない。 いや、出てこないのではない。
ここでは、言葉を先に出すという順序そのものが、あまり意味を持たないのである。
ブラザーが、煙草をふかしながらこちらを見た。 短く。
それだけで、彼の意図は伝わる。
「ついてこい」ではない。 まだ、その手前の段階。
最後の確認である。
彼は、ゆっくりと、ひび割れた唇を開く。
「トゥデイ」
一拍、置く。
「ゴール」
そのあと、まだ薄暗い森の最奥部を顎でしゃくってみせる。
「ボーダー」
さらに、ほんの少しだけ声を落とし、濁った響きで言った。
「ミャンマー」
その単語が落ちた瞬間、火の周りの空気の質がわずかに変わった気がした。
若者は、無言のまま立っている。
その横顔には何の感情も浮かんでいない。
だが、そこに一切の迷いが存在しないことだけは、はっきりとわかる。
彼にとっては、国境の向こうも、銃声の鳴る森も、昨日のジャングルの延長に過ぎないのだろう。
「国家の境界」という言葉も、わたしが感じるほどの特別な響きを、彼の中には持っていないのかもしれない。
ブラザーが、もう一度言う。
「キャンプ」
難民キャンプ。あるいは、武装勢力の野営地。
その言葉は、彼の口から極めて軽く発音される。
だが、そこに含まれる現実は決して軽くない。
わたしの中で、昨夜の音が明確な線として結びつく。
あの方向。 あの距離。 あの反響。
あれは、ただ森のどこかで偶然起きたものではなかったのだ。
ブラザーが、視線を外さないまま続ける。
「ラストナイト」
一拍。
「バン」
手で、空を叩くような仕草。
「ガン」
短く、指を弾く。 それだけで十分であった。
何が起きたのか、誰が撃ったのか、政府軍かゲリラか、何ひとつ彼は説明しない。
説明する必要がないからだ。知っていても、言わないのかもしれない。
知らなくても、それで困らないのかもしれない。
どちらにせよ、ここで重要なのは「弾が飛んだ」という事実だけである。
昨夜、これから向かう方向から、銃声と爆発音がした。
そして、今日、そこへ行く。 それだけだ。
ブラザーが最後に言う。
「ユー、ゴー?」
問いは短い。 その短さのせいで、かえって逃げ場のない重さがある。
行くか。 それとも、命を惜しんでここで引き返すか。
彼はどちらでもよいという顔をしている。
いや、本当にどちらでもよいのだろう。道はそこにある。
行く者は行き、怯える者は戻る。それだけのことであり、異邦人の意思決定に特別な価値が付与されるわけではない。
若者は、すでに森の方を見据えている。
わたしの答えを待ってはいない。 時間も、待ってはいない。
わたしは、息をひとつ深く吸い込む。 湿った朝の泥臭い空気が、肺に重く入り込む。
頭の中で計算が走ることはなかった。安全かどうか、ここでやめるべきかどうか。
そうしたまともな問いは、バンコクのぬるま湯を出たときに、とうの昔に後ろへ置いてきてしまった。
残っているのは、ひどく単純な、ただひとつの渇望だけである。
まだ、見ていない。
それだけだ。
わたしは頷く。 小さく。 だが、はっきりと。
ブラザーは、それ以上何も言わない。 それで終わりである。
確認は済んだ。選択は終わった。 あとは、進むだけだ。
若者が音もなく歩き出す。 振り返らない。 わたしも、黙って後を追う。
集落の生活の匂いが、背後へ急速に薄れていく。 そして、圧倒的な緑の森がまた、わたしを飲み込むために大きく口を開けた。
今日の森は、昨日までのそれとまったく同じ顔をしている。
暴力的な湿度も、容赦のない傾斜も、罠のように張られた根も、絡みつく蔓の感触も、大きく変わったわけではない。
だが、こちらの認識が決定的に狂っている。
昨夜の音を聞いたあとでは、前方の藪がわずかに揺れるだけで、その向こうに銃口の気配を想像してしまう。
鳥の羽ばたく乾いた音と、遠くの破裂音との区別を、耳が勝手に、そして神経質に探り始める。
それでも歩く。
昨日と同じように、だが昨日より慎重に、そして昨日よりも深く。
地面はすぐに不快な湿りを増す。
夜露をたっぷりと吸い込んだ腐葉土は、踏み込むたびにスポンジのように沈み、底の方から這い上がるような冷たさを返してくる。
行く手を阻む倒木は昨日よりも多く、しかも太い。むき出しになった根が複雑に絡み合い、どこに足を置けば正解なのか、一見しただけではまったくわからない。
若者の足は、その迷いを一切持たない。
彼は立ち止まることなく、しかし決して急がず、地面の“まだましな部分”だけを正確に拾い上げて進んでいく。
足を置く前の一瞬、ほんのわずかに体重を預けて確かめる。その微細な判断が、ほとんど本能的な反射として身体に組み込まれている。
わたしは、それをなぞろうとする。
だが、真似はできても、同じ速度と精度ではできない。
わずかな遅れと躊躇が、確実に膝や腰にダメージとして返ってくる。
その小さな疲労の負債が、一時間も積もれば、取り返しのつかない重さになる。
汗は、すぐに滝のように流れ始める。
朝だというのに、額から落ち、首の後ろを絶え間なく伝う。シャツは一度濡れると、もう「乾く」という選択肢を完全に放棄する。
肌と布との境界は気持ち悪く曖昧になり、腕を振るたびに濡れた布が皮膚を擦って、微かな痛みを伴う刺激を残し続ける。
上を見上げても、空はない。 正確には、あるはずだが、見えない。
何層にも重なった葉と枝と蔓が、上空を完全に塞いでいる。だから光は直接降ってこない。
不気味な緑色に濾過された薄明かりが、あらゆる方向から均等に滲み出ているだけである。
そのせいで時間の進み方がまったく読めない。
朝なのか、もう昼に近いのか、その区別はもはや腕時計を見ても曖昧に感じられた。
しばらく進んだところで、若者が不意に立ち止まる。
前方の、ひときわ巨大な木を見上げている。
幹は異様に太く、根元が瘤のように膨らみ、途中から二股に分かれている。
その分岐のあたりから、黒っぽい筋が幹をなまなましく伝っている。
樹液である。 昨日見た乾燥したものより、はるかに新しい。
まだ粘り気を持ち、濡れているのがわかる。匂いも立っている。
むせ返るような甘さの底に、わずかに腐敗へ傾いた酸弱さが混じった、強烈な匂いである。
若者は音もなく幹へ近づく。 樹液を指で触り、粘りを確認する。
地面を見る。 倒木の陰を覗き込む。 少し離れた別の木の根元も探る。
探している。 その真剣な動作を見て、こちらの胸にも、摩耗して鈍っていた期待がわずかに蘇る。
ここなら、と思う。
だが、いない。 幹の表面に小さな甲虫は群がっている。無数の蟻もいる。
細い羽音を立てて飛ぶ、凶暴そうな別種の虫も集まっている。
だが、目当てのものはどこにもいない。
あの巨大な角も、磨かれたような黒い甲殻の反射も、いっさい存在しない。
若者は一秒たりとも未練を残さない。 見切りは残酷なほど早い。
だめだと判断したら、振り返ることなくすぐに次へ進む。
そのあまりの潔さが、逆にこちらのすり減った精神を削る。
歩き続けるうちに、森の内部はさらに湿りを増し、そして奇妙なほど静かになる。
虫の声はある。
だが、ある瞬間、ふと音の層にぽっかりと穴が開いたような、絶対的な静けさが生まれることがある。風がないわけではない。
葉が動かないわけでもない。それでも、森全体が示し合わせたように一度息を止めたような、不気味な空白が現れるのだ。
そういうとき、自分の心臓の音だけがやけに暴力的に大きく感じられる。
自分の荒い呼吸が、周囲の緊迫した静けさを壊しているような気がして、無意識に息が浅くなる。
若者は、その静けさの中でもまったく同じ速度で歩き続ける。
つまり、彼にとってはこれが異常ではないのだろう。
異常だと怯えているのは、こちらだけだ。
昼近く、初めて明確な「人の痕跡」に気づく。
森の中に、人の気配がないわけではなかった。昨日から、ところどころに足跡めいたものや、鉈で払った枝の跡のようなものを見てはいた。
だが、それらはこの環境に住む村人なら誰でも残しうる、生活の匂いのする痕跡だった。
今回のは違った。
倒れた幹の側面に、深く抉られた斜めの傷がある。
古いが、完全には風化していない。
その少し先の木の根元には、不自然に踏み固められた軍靴の跡のような小さな平面がある。
さらに進むと、竹を鋭く折って作ったらしい、簡素だが明確な「目印」のようなものが視界の端にひっかかる。
若者は、それらを見る。 立ち止まりはしない。だが、確実に視界に収めている。
わたしも見る。 わかるのは、それが自然のものでも、ただの猟師のものでもないということだけだ。
誰かがここを通った。それも、そう遠くない過去に。明確な目的を持って。
昨夜の銃声が、また頭の芯で結びつく。
この森は、単に猛獣と虫の領域ではない。
人間もまた、ここを戦場や密輸路として使っている。
秘密の道を持ち、目印を残し、武器や薬を運び、殺し合うために。
わたしは、急に耐え難いほどの喉の渇きを感じる。
水筒を取り出し、水を飲む。 生ぬるい。
だが、それが食道を通る感覚だけが、いま自分が生きているという唯一の証明であった。
午後、森の匂いが唐突に変わる。
最初は、また樹液かと思った。
だが、そうではない。もっと濃く、もっとねっとりと熟している。 強烈に甘い。
しかし、その甘さは表面だけで、そのすぐ下にどろりとした腐敗の匂いが横たわっている。
大量の果実が潰れ、発酵し、さらに得体の知れない死臭がわずかに混じったような、むせ返る匂い。
若者の歩く速度が、ほんの少しだけ落ちた。
彼は鼻を使っているのか、目を使っているのか、あるいはその両方かもしれない。
顔は上げすぎず、しかし足元に落としすぎず、森の中のどこか一点ではなく、空間全体を捉えるような特殊な視線で進む。
わたしも、匂いの源を探す。 だが、見つからない。
視界は相変わらず劣悪だ。
木と木のあいだ、葉の陰、倒木の裏、すべてが何かを黒々と隠している。
隠しているものが致命的な危険か、ただの無意味な風景か、その区別は見ただけではつかない。
やがて若者が、無言のままスッと手を上げる。
止まる。 今度は、前方十メートルほどにある一本の古木を見ている。
幹は太く、表面の樹皮がただれるように剥がれ、根元に近い位置から大量の樹液が黒くしみ出している。
その濃密な匂いが、空気の底に淀んでいるのだ。
わたしは、息を詰める。 若者は動かない。 その視線の先を追う。
最初は何も見えない。 ただの幹の分岐。葉が落とす影。黒い空間。
そこに、何かが「ある」という圧力だけを感じる。
次の瞬間、その闇の一部がわずかに動いた。
鈍い光が反射する。 なめらかな曲面。 金属のように硬い質感。 濡れたような、絶対的な黒。
そして、その前方に、鋭く反り返った一本の角がはっきりと見える。
わたしの胸の奥で、心臓が跳ね上がる。
いた。
考えるより先に、身体の全細胞が理解する。 あれだ。
バンコクの夜の安宿で、アルコールにまみれた与太話のように聞かされ、この辺境までの過酷な移動と、ジャングルでの地獄のような疲労を正当化するためだけにしがみついてきた幻の存在が、いま目の前に、たしかに実体として存在している。
だが、それは、こちらの狂乱にも似た感動とは完全に無関係であった。
虫は、幹の陰から半身を現しただけで、こちらを威嚇するわけでもなく、驚いた様子もなく、ただゆっくりと、王のように位置を変える。
太い脚が樹皮を捉え、黒い巨大な甲殻がわずかに揺れる。
そして次の瞬間には、分岐の深い闇の奥へと、滑るように消えていった。
消え方が、あまりにも静かであった。
羽音を立てて飛び立つわけではない。慌てて逃げるわけでもない。ただ、こちらの手の届かぬ領域へ、彼ら自身の時間の速度で戻っていくだけである。
わたしは、思わず一歩だけ前へ踏み出しかける。
だが、若者が即座に手で強く制した。
追うな、という意味である。
その短い制止の中に、あらゆる説明は含まれていた。 追っても無理だ。
ここで無理をすれば、足を滑らせるか、ワイヤーに引っかかるか、あるいはもっと最悪のものを起こす。
目当てのものがほんの一瞬見えたからといって、その瞬間にこの森の殺人的な条件が、こちらに都合よく変わるわけではないのだ。
わたしは、歯を食いしばって止まる。
心臓だけが、まだ狂ったように速く打っている。
もう一度、幹の方を見る。 いない。
そこにはただ、湿って光る樹液の筋と、ひび割れた古い木の表面と、残酷なほど濃い影だけが残っている。
姿を見たのは、たった数秒だったのかもしれない。
だが、そのわずかな数秒のために、ここまで来たのだという事実が、遅れて巨大な波のように押し寄せる。
見た。 だが、手に入っていない。 その差が、絶望的なまでに重い。
若者は、すぐに歩き出す。 場所を記憶したのだろう。
あるいは、この一帯の条件が悪くないことだけを確認したのかもしれない。
彼は決して深追いしない。
森の中で、あれを人間の足で追うことは無意味だと骨の髄まで知っている。
わたしも、再び歩き出す。 だが、もう午前中と同じ歩きではない。
極限の疲労の上に、別の黒い熱が乗る。
異常な興奮と焦燥が、身体の内側でドロドロに混じり合う。
見えたのに、取れない。
存在が証明されたのに、自分のものにはならない。
そのどうしようもない苛立ちと執着が、不快な汗とはまったく別の粘つきを持って、胸の奥にべったりと張りつく。
夕方が近づくころ、森はまた別の暗さを帯び始める。
光が減るというより、影の量が増殖する。枝の一本、根の一本、葉の一枚が、それぞれ自分の影を持ちはじめ、地面の模様が幾何学的に複雑になる。
そうなると足元はさらに読みにくい。疲弊しきった身体には、その視覚的な変化すらがきつい。
若者の速度は落ちない。
彼にとっては、むしろこのくらいの時間帯の方が森が見やすいのかもしれなかった。
光が強すぎず、気温もほんのわずかだけ下がる。
だが、こちらにはそこまでの余裕はない。ふくらはぎは鉛のように重く、肩の筋肉は悲鳴を上げ、指先は枝を払い続けたせいで微かに痺れている。
それでも進む。 進むしかない。
やがて、森の密度がわずかに変わる。
木々のあいだから、白っぽい煙が見える。
次の集落である。 その瞬間、身体のどこかが安堵でほっと緩む。
だが、同時に、胸の奥には別の硬いしこりが残る。
見えたのに、取れなかった。
今日の行軍は、その一事によって、単なる過酷な移動ではなくなってしまった。
成果がゼロではなくなった代わりに、「欠落」という概念がより鮮明に、より狂気じみて輪郭を持ったのである。
わたしは、もう引き返せないところまで来てしまった。
見てしまったからである。
そして、一度見たものを手に入れずにバンコクのぬるま湯へ戻るという選択は、ここへ来る前よりも、いまの方がはるかに不可能に近いものになっていた。
第六章へ続く
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