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【雨季の宿】第七章💤眠りは、泥水のように浅かった。

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第七章💤眠りは、泥水のように浅かった。

竹の床は夜の湿気をたっぷりと含み、体温をゆっくりと、しかし確実に奪っていく。

凍えるほどではない。

だが、眠りが底まで沈みきる前に、何度も意識を不快な表面へと押し戻すには十分な冷たさであった。

目を閉じていても、難民キャンプの気配は消えない。  

燻る火の匂い、濡れて乾かない布の匂い、得体の知れない粥が煮詰まる匂い。

それに、人が密集して眠る場所に特有の、温んだ呼気と汗の混じり合った重い空気が、薄い夜気の層の下にべったりと沈澱している。

どこかで赤子が泣き、すぐにあやす声が続く。  湿った咳がある。

犬が一度だけ低く唸る。  そして、また静かになる。

静かになる、という言い方は正確ではないのかもしれない。

音は消えていない。

ただ、ひとつひとつの音が、この場所では「異常」として立ち上がらないだけである。

泣き声も咳も、寝返りを打つ床の軋みも、ここでは夜を構成する部品の一部にすぎない。

わたしは、その部品になりきれないまま、硬い竹の上に横たわっていた。

疲弊している。

身体は、確実に限界に近い。  

だが、意識のどこか一箇所だけが、どうしても完全に沈もうとしない。

難民キャンプのすぐ外れにある、この壁すらまともにない物置のような空間に転がされているという事実が、眠りの底の底までついてくるのだ。

竹を編んだ隙間から夜が入り込み、その夜の向こうには、確実に「別の気配」がある。

その気配の正体が何であるのかを、頭は考えまいとしていても、極限状態にある身体の細胞は忘れてくれなかった。

目を閉じたまま、何度めかの泥のような眠りに沈みかけていたとき、明確な違和があった。

最初は、音である。  いや、足音ではない。

人が動く気配の「止まり方」が違うのである。

このキャンプの人間は、夜に動くとき、もっと静かで、もっと身体の重みが薄い。

足の置き方も、声の出し方も、火のそばで鍋を動かすかすかな音でさえ、どこかに怯えに似た遠慮がある。

ここでは皆、音を立てればそれが暗闇の外へ漏れることを、長いあいだの恐怖によって身体で覚えてしまっているのだろう。

だが、いま近づいてくる動きには、その遠慮が一切ない。

完全に無遠慮というわけではない。むしろ逆で、意図的に抑えようとしている。

だが、抑え方の質が違うのだ。

音を消すことに慣れた難民ではなく、力によって音を「押し殺している」ような暴力的な足取り。

地面を知っている者の歩き方ではなく、最悪の場合「誰を踏んでもかまわない」と思っている者の歩き方。

わたしは目を開ける。

暗い。だが、完全な闇ではない。

消えきらぬ焚き火の赤い光が、外の輪郭をわずかに浮かび上がらせている。

竹の編み目の隙間から、影が動くのが見える。ひとつではない。

ふたつ、みっつ、それ以上かもしれない。

輪郭は不鮮明だが、立ち方に軍隊のような妙な揃いがある。ばらばらに立っているようでいて、互いの位置関係や射線が崩れない。

そういう種類の人間たちである。

わたしは上体を起こしかける。  その瞬間、低い声がした。

言葉の意味はわからない。だが、絶対的な「命令」の声であることだけはわかる。  

動くな、ということだろう。

声はすぐ近くで発せられたわけではない。

少し離れた位置から、こちらへ向かって正確に投げられている。

距離を取りながら空間を支配する声である。

わたしの背中に、冷たい汗が一筋流れる。  気温のせいではない。  

頭より先に、身体が理解したのである。

これは、ただの夜の物音ではない。圧倒的な「死の気配」だ。

竹の仕切りが乱暴に押し分けられる。

男がひとり、中へ入ってくる。

背は高くない。だが、肩の横幅があり、身体の輪郭に無駄な肉が一切ない。

腰のあたりに何か重いものがある。

大型の刃物なのか、拳銃なのか、暗くて判別できない。

衣服は泥と汗を吸って重そうだが、それでも動きが微塵も鈍く見えないのは、たぶんその身体が「人を殺す」という機能に合わせて削り上げられているからだろう。

彼は、わたしの顔を静かに見下ろす。

光が足りず、表情は読めない。

だが、確実に見られていることだけははっきりわかる。

こちらが何者であるかを、顔の骨格から、目の動きから、服の質感から、いまこの数秒で判断しようとしている、冷徹な捕食者の視線である。

男の背後には、さらにふたりほどいる気配がある。  入ってはこない。

入口のところで立ち、外の闇と完全に一体化している。

わたしは、異常に喉が乾くのを感じる。  何か言うべきなのか。

両手を上げるべきなのか。それとも一切動くべきではないのか。

すべてが頭をかすめるが、どれも決めきれない。

男が、短く何かを言う。  今度は少し大きい。

外にも聞こえるように、わざとそうしているのかもしれない。  

すると、背後の闇からブラザーの声がした。

近いところに寝ていたのか、それとも銃を突きつけられて連れて来られたのかはわからない。

彼はすぐに竹の隙間の向こうへ現れ、外から何か言葉を返す。

その声は低く、いつものように感情をほとんど含まない。

だが、微妙に口調が速い。

完全に平静ではないことが、その速度だけでわかる。

男は、わたしから目を逸らさないまま、ブラザーの方へ何か言う。

やりとりは短い。

だが、短さのわりに緊張の密度が異常に濃い。

質問と返答というより、確認と拒絶、あるいは尋問と弁明の、その寸前の均衡のようであった。

やがて、男の視線がまたわたしに戻る。  今度は、英語で言った。

「ユー」

それだけで止まる。

語彙が足りないのか、あるいはわざと切って圧をかけているのか。どちらにしても、その一語だけで空気が凍りつくには十分だった。

「ホウェア……フロム(どこから来た)」

わたしは一瞬、答えを探す。  いや、探すまでもない。

事実だけを言えばよい。嘘は即座に見破られ、致命傷になる。

「ジャパン」

自分の声が、思ったよりもひどく乾いている。喉の奥が砂を噛んだようにざらつく。

男は反応を見せない。

「ホワイ」

短い。

「ホワイ、ヒア(なぜ、ここにいる)」

なぜここにいるのか。

それは当然の問いであり、同時に、この状況下において最悪の問いでもあった。  

なぜなら、本当の理由をそのまま口にしたところで、まるで質の悪い嘘にしか聞こえないからだ。

昆虫を探しに来た。カブトムシを探して、地雷と野獣のジャングルを歩き、難民キャンプまでやってきた。

そんな狂った話を、この武装した男たちがどう信じろというのか。

わたしは、口を開く。

「ビートル(カブトムシ)」

男は動かない。

「アイ……サーチ、ビートル(わたしは、カブトムシを探している)」

言いながら、自分でもひどく間抜けな響きだと思う。

だが、それ以外に言いようがない。

男の背後で、別の気配がわずかに動いた。

外にいた者たちのうち、ひとりが笑ったのかもしれない。

笑いと断定するには乾きすぎた、金属的な音だったが、それでも「そんなふざけた話があるか」という空気だけは、暗がりの中にはっきりと漂った。

男は、身体を少し屈める。  顔が近づく。

汗と、煙草と、湿った布の強烈な匂いがする。

そしてその奥に、機械油のような、火薬のような匂いが微かに混じっていた。

武器の手入れに使うものに違いない。

森の自然や、難民の生活臭ではないことだけは確かだった。

「ビートル」

彼は、その単語を無表情に繰り返す。

意味を確かめるようでもあり、底知れぬ嘲りを含んでいるようでもある。

わたしは頷く。  それしかできない。

男は、しばらく黙ってこちらを見下ろしていた。

その永遠にも似た沈黙のあいだ、わたしはようやく恐るべき事実に思い至る。

ここまでの道のりを、彼らはすべて知っているのだ。

わたしたちが森のどのルートを歩いて来たのか。どの集落を経由したのか。

何人で動いているのか。

外から来た見慣れないファラン(外国人)がひとり混じっていること。

そのすべてが、すでに見られていたのである。

森の中で、こちらは虫の気配を探し、樹液の木を見上げ、罠を避けて歩くことに必死だった。

そのあいだずっと、自分たちが「見ている側」だと思っていた。

だが違った。わたしたちは、銃のスコープ越しに常に「観測される側」だったのだ。

その事実が、遅れて冷水のように胸の奥へ落ちてくる。

男は、さらに尋ねる。

「フォト?(写真)」

その言葉と同時に、手でカメラを構えるような仕草をする。

写真を撮ったか。

自分たちのルートやキャンプを記録したか。

ジャーナリストかスパイではないか。 そういう意味だろう。

わたしは静かに首を振る。  本当に撮っていない。

そもそも、カメラなど初めから持っていなかった。

だが、その「本当」は、この場ではさほど意味を持たない。

信じるかどうかは、こちらではなく向こうが、彼らのルールで決めることだ。

男は、わたしの足元にある荷物を顎で示す。

「オープン(開けろ)」

わたしは、ゆっくりと袋を引き寄せる。  急な動きは絶対にしない。

それくらいのことは、もう分かっている。

中身を床に出す。  

生ぬるい水。泥だらけの着替え。紙。小さな道具。

そして、虫を入れるための空の容器。

男がそれを見る。ひとつひとつを念入りに見るのではない。

全体を、である。

森を歩いてきた人間の荷物として不自然なもの、通信機や武器、カメラ、が隠されていないかを、目の速さだけで判断している。

外で、またブラザーの声がする。  今度は少し強い。

言い争いに近いのかもしれない。

だが、完全にぶつかるところまでは行かない。

互いに、一線を越えれば血が流れることを知っているような、ギリギリのやりとりである。

男は、わたしから目を離さずに、外へ向かって何か言う。

声は低いままだが、刃物のような鋭さが増す。

すると、しばらくして、あの若者の声が混じった。

あの若者は、道中ほとんど話さなかった。

だが、いまは何かを必死に説明しているらしい。その響きは短く、速い。

自分たちが何をしにここまで来たのか。どこまでしか行っていないのか。

それとも、外から来たこの間抜けなファランが、ただの狂った虫好きで、ついて来ただけだと、そう弁明しているのかもしれない。

男は、しばらく黙る。

その沈黙のあいだ、キャンプ全体も息を潜めているように感じられた。

実際に音が止んだわけではない。

赤子の寝息も、遠くの咳も、火のはぜる音もある。

だが、すべてのトーンが一段低くなっている。

この命がけのやりとりが、ここにいる誰の耳にも届いていることだけは、確かだった。

やがて、男はゆっくりと身体を起こす。

「ジャパン」

もう一度、言う。  それから、口の端だけでわずかに笑った。  

笑った、というよりは、わたしの存在を「あり得ないが、あり得なくもない無害な馬鹿」として処理したような顔であった。

「ノー・ムーブ(動くな)」

ここから逃げるな、という意味か。余計な真似をするな、という意味か。

どちらにしても、従う以外の選択肢はない。

わたしは頷く。  男は、まだ数秒こちらを観察していたが、やがて踵を返す。  

背後の影も一緒に動く。

竹の仕切りが押し分けられ、外の闇がまた元の形へ戻る。足音が遠ざかる。

だが、完全には消えない。

すぐ近くに、まだ誰かが留まっている気配が残る。

見張りとして残されたのかもしれなかった。

しばらくして、ブラザーが中へ入ってくる。  顔は見えにくい。

だが、その肩のラインがいつもより少し硬い。

彼は何も言わず、床に散らばったわたしの荷物を一瞥し、また外の闇を窺う。

それから、低く一言だけ言う。

「スリープ(寝ろ)」

眠れ、という意味なのだろう。  無茶な話である。  

だが、それ以外にできることもない。

わたしは、まだ警鐘のように早鐘を打つ心臓を抱えたまま、再び竹の床へ身体を横たえる。  

目は閉じる。だが、眠りなど来るはずもない。  

さっきの男の匂いが、まだ鼻の奥にこびりついている。 汗、煙草、機械油。

そして、こちらを見下ろしていた目の、あの殺気すら感じさせない無駄のなさ。

ジャングルを歩いてきたあいだ、ずっと監視されていたのだ。

その事実が、遅れて全身の毛穴へ広がる。  道中で感じた不自然な視線。

若者の説明のつかぬ沈黙。 突然現れたワイヤーや人間の痕跡。

それらが、いまになってまったく別の恐ろしい意味を持ち始める。

わたしは、ただの虫を探しに来たのだと思っていた。  

だが、この狂った土地の住人たちにとっては、そんなことはどうでもいい。  
見慣れないファランが、国境地帯をうろついている。

それだけで、撃ち殺すには十分すぎるほど怪しいのだ。

虫の声が、また夜の空間を満たし始める。

だが、もう以前のようには聞こえない。

その単調な音の下に、別の底知れぬ沈黙が潜っている。

人間が息を潜めている沈黙。  暗闇の中から、じっとこちらを見据えている者の沈黙。

キャンプの夜は、再び元の静けさを取り戻したように見える。

だが、その静けさは、さっきまでとは別のものであった。

それは、安心ではない。「猶予」である。

いまは、まだ何も起きていない。ただ、それだけだ。

その事実を冷たい石のように抱いたまま、わたしは目を閉じ続けた。

眠りが来るのか、それとも夜が明けるのが先か。

あるいは、そのどちらも訪れない結末が待っているのかもわからぬまま、ただ身じろぎ一つせずに横たわっていた。

第八章へ続く

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