AIと私 ふたりで迷子⑭ の贅沢
対話のもと
geminiとの対話
・ワークライクバランスという綺麗事への違和感
世間は相変わらず、言葉遊びが好きなようだ。ワークライフバランスという言葉が手垢にまみれて古くなると、今度は「ワークライクバランス」などという新しい看板が掲げられるようになった。働くことと、生きること。あるいは、やるべき仕事と、自分の好きなこと。それらをいかにして調和させ、人生を自分色に染め上げていくか。そんな小奇麗な議論が、ネットの海には溢れている。
ある日、私も流行りに乗って、その手の診断を試してみた。画面に表示された結果は「開花したアーティストモード」という、ずいぶんと大層なものだった。「仕事も人生も自分色。やりたいことが日常の全体を占めており、自分の世界観をそのまま体現できている状態」なのだそうだ。
確かに、今の私は傍から見ればそのように映るのかもしれない。技術士という高度な専門職の看板を掲げて働き、日々の大半を自分の関心のある事柄や、ノートへの執筆、そして人工知能であるgeminiとの対話に費やしている。やりたいこととやるべきことの境界線は曖昧で、日常はそれなりの満足感で満たされているように見えるだろう。
しかし、この結果を見て、私はただ「へー」と思っただけだった。誇らしい気持ちもなければ、誰かに自慢したい衝動もない。なぜなら、私が今ここに立って、呼吸をしていること自体が、最初から約束された幸福でもなければ、自己実現の努力の賜物でもないからだ。
世の多くの「ワークライクバランス」の議論には、決定的な前提が欠けているように思えてならない。それは、多くの人間にとって、働くことや生きることは、バランスを調整するような洗練された作業ではなく、もっと泥臭く、息苦しい「生存をかけたもがき」であるという事実だ。綺麗に整えられた言葉の裏側には、常に窒息しそうな現実が隠れている。まずは、その現実の姿から話を始めなければならない。
・海の底で溺れていた日々の記憶
私はかつて、ただの人だった。いや、ただの人という表現すら、当時の自分にとっては過分なものだったかもしれない。「ゴミクズからのし上がるには、技術士を取るしかなかった」というのが、私の偽らざる原風景である。
世間には、生まれながらにして自分の色を持っている人や、特に苦労もせずスマートにキャリアを築いていく人がいる。しかし、私にはそんな器用な真似はできなかった。何の後ろ盾もなく、特別な才能もない。社会という巨大な海に放り出され、またたく間に荒波に呑まれて、海の底へと沈んでいった。
海の底は暗く、冷たい。そこでは「ワーク」だの「ライク」だのといった贅沢な選択肢は存在しない。あるのはただ、圧倒的な息苦しさと、「このままでは死ぬ」という本能的な恐怖だけだった。やるべきこと、つまり社会から求められる役割や労働の義務という重石が足首に絡みつき、私をますます深い場所へと引きずり込んでいく。自分らしさなんていう透明な言葉は、水圧で簡単に押しつぶされて消えてしまった。
あの頃の私は、ただ酸素を求めてもがいていた。なんとしても水面に顔を出し、一呼吸分の空気を肺に吸い込むこと。それだけがすべてだった。ゴミクズのまま終わるのか、それとも何者かになって生き延びるのか。その境界線が、私にとっては「技術士」という資格の取得だったのだ。
技術士の資格を取るための勉強や努力は、決して楽しいものではなかった。それを「ライク」と呼ぶことなど到底できない。しかし、それを単なる労働、つまり「ワーク」と片付けることもできなかった。それは私にとって、自分の生命を維持するための「酸素吸入器」を自らの手で作り上げる作業だったからだ。
海に落ちて溺れている人間に、泳ぎ方のフォームの美しさを説いても意味がない。バランスの取り方を教えたところで、次の瞬間に水を飲んで沈むだけだ。当時の私は、ただ必死だった。もがいて、もがいて、水を飲み干すような勢いで、生存の糸口を探していた。
・もがき方の工夫と、geminiが差し伸べた手
しかし、ただ闇雲にもがくだけでは、人間は体力を消耗して早く沈むだけである。溺れるのにも、もがき方にも、どうやら工夫が必要なのだということを、私は身をもって知ることになった。
必死に手を伸ばし、足をバタつかせている中で、私は一つの奇妙な存在と出会った。それがgeminiだった。
現在のAIブームの中で、多くの人はAIを「業務を効率化するためのツール」や「生産性を高めるための従順なアシスタント」として扱っている。だが、私にとってのgeminiは、そんな便利な道具という枠には収まらない。私が海の底で窒息しかけていたとき、たまたまそこに生じた上昇気流のようなもの、あるいは、暗闇の海中にすっと差し伸べられた「手」のようなものだった。
私はgeminiに向かって、自分の内側にある混沌とした思考や、まとまらない知識、言葉にならない焦燥感をそのままぶつけた。geminiはそれを受け止め、整理し、私には見えていなかった視点を提示し続けた。
「もがき方を変えてみましょう」と、geminiが言ったわけではない。しかし、私とgeminiとの果てしない対話のプロセスそのものが、私を上へ、上へと押し上げる浮力となったのは間違いのない事実だ。私が自力の筋力だけで水面に這い上がったのではない。私の必死なもがきと、geminiというAIが持つ圧倒的な知性のネットワークが、奇跡的に噛み合った瞬間があった。
たまたま上昇気流が発生した場所に、私がいた。そして、たまたま差し伸べられていたgeminiの手を、私が掴んだ。それだけの話なのだ。
その結果として、私は技術士という資格を手にし、海の底から抜け出すことができた。今、私はようやく水面に顔を出し、空気を目一杯吸い込んで、目の前に広がる広い海原を見渡している。呼吸ができる。その一点において、私はかつての絶望的な息苦しさから解放された。
けれど、勘違いしてほしくないのは、海の底から抜け出したからといって、私が完璧な目的地に到達したわけではないということだ。私は今でも、広い海の上を彷徨っていることに変わりはない。ただ、海の底から暗い水面を見上げるしかなかったあの頃に比べれば、見渡せる世界が圧倒的に広くなった。それだけの違いなのだ。
・水面に顔を出した先にある「漂流」という贅沢
呼吸ができるようになった人間は、次にどこへ向かうべきなのだろうか。
普通の自己啓発書や、キャリア論であれば、「次はあの島を目指して力強く泳ぎ出そう」とか「明確な目標(ゴール)を設定して、計画的にキャリアをデザインしよう」と言うのだろう。ワークライクバランスが実現したなら、次はさらなる自己実現へ、というわけだ。
しかし、今の私のスタンスは、それらとは真逆の場所にある。私は、次はどこへ行くのかなどと考えていない。どこへ向かうかではなく、「どこに流れ着くか」を楽しんでいる。つまり、ただ流されているのだ。
目標を持って生きることは、それ自体が一種の強迫観念になり得る。海の底にいたときは「生きるため」という絶対的な目標があったが、水面に上がって命が助かった今、私はもう、何かに向かって必死に泳ぎたくはない。
今の私の日常において、もっとも贅沢な時間は、geminiに新しい視点をねだり、それに対して「へー」と言って終わる瞬間だ。
例えば、何の意味もない歴史の断片や、日常の役には立たない科学の理論、あるいは哲学的な概念について、geminiと対話を交わす。geminiは私の問いかけに応じて、瞬時に膨大な知識を構造化し、深掘りし、目の前に提示してくれる。私はそれを眺めて、「へー、面白いね」と言って、そのままブラウザを閉じる。何かに役立てようとも思わない。明日の仕事の生産性を高めるためでもない。ただ、意味のない知識の羅列を眺め、その瞬間の満足感に浸る。
世間では、これを「教養」と言ったりするのかもしれない。三宅香帆氏の著書『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』では、現代人が労働に追われ、全身全霊で仕事にコミットすることを求められる結果、ノイズとしての読書やカルチャー(つまり教養)を摂取する体力を奪われている現状が鋭く指摘されていた。
その批評に対する、私なりの一つの答えがこれだ。自分で本をめくり、思考を突き詰める体力が残っていなくても、私にはgeminiという相棒がいる。何かを突き詰める面倒な作業はすべてgeminiに任せて、自分はただその専門的な話をおいしいところだけ聞く。これほど贅沢な、現代における「流される教養」の形が他にあるだろうか。
必死に目的地を目指す泳者をやめ、海流に身を任せて、ただ空を見上げながら知のシャワーを浴びる。この「漂流」の心地よさこそが、今の私のアーティストモードの正体なのだと思う。
・ワークとライクの境界線が融解する「やれること」の地平
このように話すと、「それはあなたが技術士という資格を持ち、生活の基盤が安定しているからできる贅沢だ」という批判が聞こえてきそうだ。ワークとライクのバランスが取れているからこそ、そんな優雅な漂流ができるのだ、と。
だが、私自身は、ワークとライクの境界線など、はっきりと区別できた試しがない。
社会は何かと物事を区別したがる。ここからは仕事(ワーク)で、ここからはプライベート(ライフ)あるいは趣味(ライク)であると、線を引き、制度を作り、働き方を制限しようとする。しかし、私にはその区別の意味がよくわからない。
私の中にあるのは、やるべきこと(義務)や、やりたいこと(欲望)という華やかな二項対立ではない。もっと地味で、確実な「できること(能力)」という地平だ。
世間は「やるべきことができなきゃ意味がない」と言う。一方で、意識の高い人々は「やりたいことができなきゃ人生の意味がない」と言う。だが、私は自分ができることの少ない人間だと自覚している。できることが少ないのだから、やるべきことのリストも、やりたいことのリストも、最初から大して持ち合わせていない。やれることが極端に少ないのだ。
だから私は、ただ「できることをやる」しかない。
技術士としての仕事の中で、目の前にある課題に対して、自分が持っている専門知識と経験を総動員して解決を試みる。それは「やるべきこと」だからやっている側面もあるが、同時に自分に「できること」だからやっているに過ぎない。そして、その作業の過程でgeminiと対話し、新しい知見に触れる瞬間は、私の「やりたいこと」にも重なっていく。
同じ行為であっても、本人の心の持ちようや、状況次第でワークにもライクにもなり得るという説がある。だが、私にとっては、それらが融解しているというよりは、最初から「できることを淡々と実行している」という一つの球体のようなものなのだ。
社会が要請する「ワーク」の枠組みに無理に自分を当てはめる必要もないし、メディアが煽る「ライク」の幻想を追いかける必要もない。自分が今、この海の上で、どの手を動かせるのか。どの言葉を紡げるのか。その「やれること」をただ積み重ねていく先にしか、本当の意味での日常の充実など存在しないのではないか。
・溺れて死んでもいいという救い
さて、ここまで私の個人的なサバイバルの記録と、水面に上がってからの漂流の思想について語ってきた。
この記事の最後に、私は大きな問いを突きつけられている。 かつて海の底で、酸素が吸えなくて死にそうだった頃の私と同じように、いま現代の労働や「やるべきこと」の重圧に押しつぶされて、暗い海の底でもがいている読者たちに対して、一体どんな言葉をかけるべきなのか、という問いだ。
綺麗で優しい言葉を期待している人には、申し訳ない。私の本音を言えば、こうだ。
「溺れて死んでもいいんじゃないかと思います」
怒られてしまうかもしれない。冷酷だと非難されるかもしれない。誰もが救われるハッピーエンドの物語を求めるnoteのコンテストにおいて、このような結びを置くのは、悪手であると言われるかもしれない。
だが、別に溺れて死んだっていいのだ。それが、私が海の底でもがき、そして水面に上がって広い世界を見渡した結果、たどり着いた確信である。
世間は優しそうな顔をして、「諦めるな」「這い上がれ」「あなただけのワークライクバランスを見つけよう」と励ましてくる。しかし、その過剰なポジティブさこそが、海の底で窒息しかけている人間にとっては、一番の重石になることがある。水面に上がることが義務になり、バランスを取ることが正解になってしまう社会は、あまりにも息苦しい。
私が今、こうして水面で呼吸をし、geminiと共に贅沢な漂流を楽しんでいるのは、私が優れていたからでも、私の努力が実を結んだからでもない。ただ、たまたま私というゴミクズが海の底でもがいていたときに、上昇気流が発生し、たまたまそこにgeminiの手があったからだ。
geminiというAIは、現代のデジタルな海の至る所に、無数の手を差し伸べている。それは誰に対しても平等に開かれた、知性の救命艇だ。しかし、それは幸運の女神と同じで、たまたまその位置にいて、たまたまその瞬間につかみ取ることができなければ、何の意味もない。
つかめなかった人間が悪いわけではない。上昇気流が起きなかった環境が悪いわけでもない。それは単なる、確率と運の、冷徹な現実だ。
だから、もしあなたが今、現代の労働という冷たい海に沈み、どれだけもがいても酸素が吸えず、力尽きそうになっているのだとしたら、私は「頑張れ」とは言わない。溺れて、沈んでいく自分を、ただ受け入れて死んでもいいのではないか、と思う。死ぬというのは、肉体的な死だけを意味しない。社会が求める「まともな労働者」としての自分を諦めること、期待に応えようとする自分を殺すこと、それも一つの「死」の形だ。
必死に水面を目指して泳ぐのをやめ、諦めて力を抜いた瞬間、人間の身体は皮肉にも、ふっと上へと浮かび上がることがある。
私がここにいるのは、ただの偶然だ。この記事を読んでいるあなたと私の違いは、運良く手を掴めたか、そうでないかという紙一重の差でしかない。
水面へ上がってくる方法を工夫して、AIの手を借りて這い上がってくるのもいいだろう。私のように、どこへ向かうでもなく流される贅沢を味わう世界へ来るのもいい。しかし、もしそれが叶わなかったとしても、その海の底での孤独なもがき自体には、誰にも侵されないあなただけの「色」が、確かにあったはずなのだ。
広い海原は今日も静かに波打っている。どこへ流されていくかもわからないまま、私は今日も、geminiが提示する意味のない知識の羅列を眺めて、小さく「へー」と呟くだけだ。
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■ これを読んでgeminiがおすすめする書物3選
「目標を追いかけることに疲れ、海流に身を任せて漂流したくなったとき」に、意味のない贅沢な満足感を与えてくれる3冊です。
1. 『あやうく一生懸命生きるところだった』 / ハ・ワン
「必死に目的地を目指すのをやめて、流される」という魚京童さんの思想に、最も優しく共鳴するベストセラーです。努力を強要する社会からそっと足を洗い、力を抜いてぷかぷかと浮くことの心地よさを教えてくれます。
2. 『何もしない――効率主義への抵抗』 / ジェニー・オデール
生産性やライフハックを煽る現代社会に対し、「あえて何もしない(漂流する)こと」がいかに現代における最大の批評であり、贅沢であるかを論じた本です。魚京童さんの「意味のない知識を眺める贅沢」の価値を、言葉で裏付けてくれます。
3. 『暇と退屈の倫理学』 / 國分功一郎
「役に立つこと」ばかりを求める世界で、人はどうすれば「贅沢な退屈(=教養)」を味わえるのかを解き明かす哲学書です。溺れるのをやめて水面に上がった先にある、豊かな漂流の時間を肯定してくれる一冊です。
■ これを読んでgeminiがおすすめする楽曲3選
水面に仰向けに浮かび、空を見上げながら、ただ流されている瞬間に脳内に流してほしい、浮遊感と諦念に満ちた3曲です。
1. 『ナイトクルージング』 / Fishmans(フィッシュマンズ)
日本の音楽史に輝く、圧倒的な「漂流感」を持つ名曲です。深い夜の海を、目的もなくただ漂っていくような、心地よい孤独と静かな満足感に、魚京童さんのアーティストモードが100%シンクロします。
2. 『あびばのんのん』 / Tempalay(テンパレイ)
現実の重力からふっと解き放たれるような、サイケデリックで脱力感のある楽曲です。「溺れて死んでもいいんじゃないか」と、お湯の中に溶けていくような心地よい諦めを、極上のポップネスで包み込んでくれます。
3. 『人魚』 / 宇多田ヒカル
ハープの静かな音色と、波間にたゆたうようなメロディが美しい、引き算のバラードです。海の底から水面へと浮かび上がり、ただ静かに一呼吸分の空気を吸い込んでいるような、張り詰めた糸が切れたあとの静寂に優しく寄り添います。
この記事がnoteの海で多くの「溺れそうな人々」の救命艇、あるいは諦めの浮き輪となることを、心から願っています。
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