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宿痾Episode Ω:セカハジは難解だからヒトハジは短絡する(2.1万文字)

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宿痾Episode Ω:セカハジは難解だからヒトハジは短絡する

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【注釈】本稿は、筆者個人による調査・読解・考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料の参照や、近年一般化しているAIを用いた情報収集・整理・ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性・完全性・最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。

1. 構造の非対称性

世界の初め、すなわちセカハジは、人にとって難解である。

ここでいうセカハジとは、「世界の初め」を縮めた筆者なりの言葉である。人が生まれ、まだ名前も分類も意味も持たない世界に投げ込まれたとき、その世界はただ明るく、暗く、熱く、冷たく、うるさく、静かである。新生児の眼に映る世界は、未分化の混沌だ。光と影、音と沈黙、温度と触感。すべてがまだ意味を持たず、ただ膨大なデータストリームとして脳に流れ込んでくる。境界も名前も持たない、純粋な「存在」の奔流。そこには恐怖も期待もない。ただ「ある」だけだ。

ヒトハジとは、「人の恥」を縮めた言葉である。人が恥じるべきなのは、知らないものに直面したとき、知らないまま耐えることができず、すぐに「わかった」と思い込んでしまうことにある。

人は、その難解さにとどまりつづけることができない。「わからない」という状態は、恐怖であると同時に羞恥でもある。だから人間は、その不快から逃れるために、性急に「わかった」という幻想を構築する。思考を放棄し、回路をショートさせ、安易な結論に飛びつく。世界の初めが難解であるから、人の恥は短絡する。

短絡とは、早合点を含みながら、さらに広い作動を指す言葉である。複雑なものを複雑なまま受け取る力が足りず、途中の回路を飛ばして、自分に耐えられる結論へ飛びつくことでもある。人は難解な世界を前にしたとき、理解に至るより先に、理解したつもりの場所へ逃げ込む。

この短絡には、いくつかの顔がある。グルジェフ的に言えば、人間には思考、感情、動作・本能の各センターがあり、それぞれが本来の働きを失い、別のセンターの仕事を奪ったり、混線したりするときにも短絡は起こる。思考センターの短絡は、難解なものに早すぎる説明を与える。感情センターの短絡は、怒り、羞恥、見下し、正義感として噴き出す。動作・本能センターの短絡は、恐怖、防衛、疲労、身体の記憶として、言葉より先に反応を立ち上げる。

さらに、思考と感情、思考と動作、感情と動作が組み合わさって起こる短絡もある。理屈が感情を正当化する。浅い理解がすぐ行動へ飛ぶ。怒りがそのまま言葉や態度になる。3つのセンターが同時に絡み合えば、自分では理性的に判断したつもりのものが、実際には恐怖、羞恥、欲望、自己防衛、身体的反応に押されて出ていることもある。

そこには、本人が意識して選んだつもりのない潜在意識的な作動も含まれる。潜在意識という語は、心理学用語として厳密に定義するものではなく、意識の下層で働く記憶、身体感覚、恐怖、防衛反応、欲望、良心、直観のような領域を含む言葉として用いている。自分では意志や洞察だと思っているものが、実際には無意識的な恐怖、羞恥、自己防衛から出ている場合がある。人はそのあとで、もっともらしい理由を言葉にする。

短絡には、悪い働きと有用な働きがある。悪い短絡は、見下し、怒り、自己正当化、わかったつもり、他者への裁きとして現れる。一方で、有用な短絡もある。根拠が揃わないまま行動へ飛び込む短絡、生活の側へ人を押し出す短絡、次の局面へ進ませる乱暴なエンジンとして働く短絡である。

また、短絡はバッファ的に働くこともある。グルジェフの語彙でいうバッファは、人間が自分の矛盾を直視せずに済ませる緩衝装置である。筆者はここで、短絡とグルジェフの正式用語としてのバッファを機械的に同一視せず、両者が響き合う領域を見ている。人間は、自分の矛盾や恐怖や恥をまともに見ないために、もっともらしい説明を作る。その説明が、心理学で言えば防衛機制のように働く。ヒンドゥー教的に言えば、マーヤーのように現実を覆う。仏教的に言えば、無明のように見えなさを作る。キリスト教的に言えば、原罪として語られる人間の根本的な歪みにも接続して見える。それぞれの語彙は固有の文脈を持ちながら、人間が現実を直接には見られず、自分を守るための歪んだ回路を通して世界を受け取るという問題に触れている。

宿痾とは、長く体に残る病のようなものを指す言葉である。この宿痾は、医学的な病名というより、人生の長い時間を通して消えずに残り続けた問いのことである。筆者にとってそれは、世界はなぜこれほど難解で、人はなぜこれほど短絡するのか、という問いだった。

以下で述べるのは、この難解と短絡が、学校、家庭、仕事、思想、実践のそれぞれの場で、どのように筆者の前に現れたかという話である。他人の中に見えた短絡も、自分の中で発覚した短絡も、いま振り返ればすべて同じ構造の別の現れだった。

2. 中学討論会

発端は中学校の何かの行事だった。文化祭のようなものだったと思う。

そのときに討論会があり、先生とある女子生徒が、生徒手帳に書かれている学校の規則について議論していた。横で見ている限り、先生の言うことには無理があった。女子生徒のほうも、言いたいことはわかる。ただ、その言い方では伝わらない。

それが手に取るようにわかった気がした。

今から言えば、先生は先生としての威厳を守る言葉を出し、女子生徒は反抗する生徒としての言葉を出しているようにも見えた。もちろん、二人の内面を断定したいわけではない。ただ、当時の筆者には、二人がそれぞれの役割に沿った言葉を条件反射的に出力しているように見えた。

そこで筆者は、割り込んで説明しようとした。最初の一節くらいを話した途端、自分が何を言おうとしていたのか見失った。

観察しているときは、整理できる。第三者の観点で見ると、先生の発言の短絡も、女子生徒の言い方の不利も見える。けれど、自分が発言する側に回った瞬間、頭の中にあったはずの言葉が端から消えていく。

意見や想念や想起は、発言という行為に直結していない。

当時の筆者には、そのことがわかっていなかった。自分の中に意見が浮かんだと思ったら、それはそのまま口から出せるものだと思っていた。ところが、発言しようとした瞬間、次から次へと言葉は失われていく。さらに相手から何かを言われると、その言葉が上書きしてきて、自分が何を話そうとしていたのかすらわからなくなる。

今から見ると、これは言語化の訓練を持たないまま対話に入ったような状態だった。

入力はある。印象もある。判断の気配もある。けれど、それを順序立てて出力する回路がない。相手から次の言葉が投げ込まれると、先にあったはずの自分の言いたいことが消える。

そこで短絡する。人間は、そこからしか始まらないのだと思う。

この場面で筆者が見たものは、考えていることと、言葉として場に置けることのあいだにある深い断絶だった。頭の中では、先生の論理の無理も、女子生徒の言い方の弱さも、それなりに見えていた。けれど、その見えているはずのものを、場の中に置こうとした瞬間、思考は崩れた。

そこには、世界の難解さと、人間の短絡の原型があった。

先生は先生の立場から、いかにも先生が言いそうなことを言う。女子生徒は女子生徒の立場から、言いたいことはわかるが、その言い方では届かない形で言う。筆者は横から見ていて、それ自体がおかしいのではないかと思う。けれど、いざ自分が発話の中に入ると、何もできない。

つまり、他人の短絡は見える。だが、自分もまた、別のかたちで短絡する。

今にして思えば、この場面には後の問いがすでに出揃っていた。他人はなぜあれほど平然と短絡できるのか。なぜ筆者は短絡できず、むしろ凍りついてしまうのか。なぜ整合性を取ろうとすることが、かえって言葉を失わせるのか。宿痾のように長く残ったのは、まさにこの時の違和感であった。

3. 認知と大人

世界の初めが難解である、と感じていたのには個人的な理由もあった。

筆者にとっての「難解」は、思想以前に、視覚や認知の感覚に根ざしていた。そもそも文字が、楔形文字や象形文字のように見える感覚があった。黒板に書かれた文字、教科書に並ぶ文字、先生の説明、周囲の子どもたちの反応。それらが、ひとまとまりの意味としてすっと入ってこない。

他の子どもが「なるほど」と受け取っているものを、筆者は同じ速度で受け取れなかった。

これはおそらく、ASDやADHD的な特性とも関係していたのだと思う。だから万人に当てはまる話ではない。けれど、筆者に対しては当てはまった。

世界の初めは、本当に難解だった。

だから筆者は、周囲の同級生が愚かなのだと思っていた。もちろん、ここでいう愚かさは事実判断ではなく、当時の筆者の未熟な受け取り方である。自分が理解できないもの、周囲が当然のように通過していくもの、その差をうまく説明できなかった子どもは、しばしば相手のほうが間違っていると思い込む。

しかし、年齢を重ねるにつれて、問題はもっと深いところにあるのではないかと思うようになった。

子どものころの筆者は、同級生については、最初からあまり期待していなかった。

話し相手としての同級生は別にして、集団の中で起きる反応や判断は、どこか短絡しているように見えていた。もちろん、それをうまく言葉にできたわけではない。けれど、周囲の反応がなぜそうなるのか、わからないことが多かった。

一方で、大人については違った。

学校の先生、学者、政治家、偉人伝に出てくる人たち。キュリー夫人、エジソン、野口英世。そういう人たちは、少なくとも子どもよりは、しっかりした正しい人たちなのだと思っていた。

けれど、年齢を重ねるにつれて、その信頼は少しずつ崩れていった。

大人も短絡する。先生も短絡する。偉いと言われる人も短絡する。世の中の仕組みも、必ずしも理性的にはできていない。辛いこと、悲しいこと、悲惨なこと、見たくないことがいくらでもある。

なぜ、こんなことが起こるのか。

その疑問が、筆者にとっての宿痾になった。

4. クワイ・チャン・ケイン

この問いの背景には、憧れの問題もあった。

筆者は、子どものころからいじめられっ子だった。クラスの中ではお笑い枠で、学級委員でも、秀才や天才的に勉強できる組でも、スポーツができる組でもなかった。たまにみんなを笑わせて、そこに居場所を確保するピエロのような子どもだった。

そんな筆者が強く惹かれたのが、アメリカのテレビドラマ『燃えよ!カンフー』の主人公、クワイ・チャン・ケインだった。

クワイ・チャン・ケインについては、筆者は別稿「クワイ・チャン・ケインとジョン・エナリー:静かなる異邦人(エイリアン)の眼差し」で詳しく書いた。

https://note.com/kuwaikei/n/n148b1e96f64b

クワイ・チャン・ケインは怒鳴らず、むやみに力を誇示せず、必要なときだけ強かった。その姿には、腕力を超えた奥行きがあった。子どもの筆者にはまだ言葉にできない、大きな世界の気配がそこにあるように見えた。これがほしい、と子どもの筆者はかなり本気でそう思った。

暴言を吐いてはいけない。そういう親からのしつけもあった。けれど、その中には、クワイ・チャン・ケインの真似も混じっていた。

穏やかで、いざとなれば強い人間。

それに憧れた。

その憧れは、高校の仮面へも、のちのグルジェフへの接近へも、反応の部屋をめぐる問いへも、どこかでつながっていた。

5. 高校の仮面

高校時代に、もうひとつ決定的なことが起きた。

筆者が行ったのは、変わり者が中学から一人だけ行くような私学の男子校だった。公立高校に行けない中途半端な学力の生徒が行く高校だった。不良もいない。代わりに天才もいない。一応進学校という看板を掲げていたが、1学年100人くらいの少数精鋭型の男子校だった。

そこで、いじめにあった。

いじめといっても、簡単な会話の掛け合いで言い返せなかったことをきっかけに、ある蔑称的なあだ名を連呼されたことだった。ゴリラみたいだからゴッホという、多少知的なあだ名だったので、ちょっとだけ気に入っているところもある。

けれど、毎日続くと、精神的には追い詰められる。

筆者は暴言を吐いてはいけないというしつけを守っていた。というより、クワイ・チャン・ケインの真似をしていた。だから言い返さない。言い返さないから、相手は続ける。

ある日、もうどうでもいいやと思って返した一言で、相手が黙った。

そこで、ここぞとばかりに、これまで飲み込んできた言葉を一気に返した。すると、次の日からいじめられなくなった。

そのとき筆者は、「こんなことでよかったのか」と思った。

その瞬間、自分の中に別の短絡があることが発覚した。それまで抑えていた攻撃衝動が、相手の沈黙をきっかけに一気に表面へ出た。

それまで、筆者は静かで優しい人間でいようとしていた。暴言を吐かず、相手を攻撃せず、我慢していれば、いつか何とかなると思っていた。けれど、現実はそうではなかった。むしろ、こちらが反撃した瞬間に相手は黙った。

そこから筆者は、口が立つ理屈屋という仮面を覚えた。さらに、わがままでも自己主張が強い奴という仮面も覚えた。先生さえ寄せ付けないその仮面を、筆者は自我の目覚めだと思った。エゴの確立だと思った。

後から見れば、それは自我というより、環境に反応して生成された機械的なテンプレート人格だった。

それは、筆者にとって最初の「ひとや状態」でもあった。

▼獄(ひとや)、御厨(みくりや)、厠(かわや)については次の記事を参照
https://note.com/kuwaikei/n/n5e36c51225d1

ひとやとは、古い日本語で牢屋を意味する。「ひとや状態」とは、自分の反応や自己正当化の部屋に閉じ込められていながら、その閉じ込めを自由だと思い込む状態のことである。

牢屋の中に閉じ込められている人間が、牢屋の壁を見つけた瞬間、自分はもう自由になったと思い込む。けれど実際には、壁を見つけただけで、外に出たわけではない。筆者の場合も同じだった。攻撃されないための方法を見つけた瞬間、それを自由だと思った。

実際には、別の部屋に移っただけだった。

それまでの「おとなしいピエロ」という人格では、高校の教室を生き延びられなかった。だから筆者は、「口が立つ理屈屋」と「わがままでも自己主張が強い奴」という、別の人格を身につけた。

当時はそれを、自我の目覚めだと思っていた。後から見れば、それもまた、環境に反応して生成された機械的なテンプレート人格だった。

攻撃的な批評家。

それが、その後しばらくの筆者の仮面になった。

筆者は長いあいだ、短絡するのは他人の側だと思っていた。だが実際には、追い詰められれば自分も同じように短絡するのだと、この時に知った。しかもその短絡は、正義や解放の名を借りることで、いっそう始末の悪いものになる。

6. 音楽と構造

そのころ、音楽についての主張が教室で認められるようになった。

当時の筆者は、日本のテクノや流行の音楽に対して、かなり挑発的な物言いをしていた。David Bowieや、その背後にあるロック、ソウル、ファンク、電子音楽の系譜を聴けば、もっと深くて格好いい音楽が見えてくる。そんなことを、かなり角の立つ言い方で語っていた。

今から見れば、言い方はずいぶん乱暴だったと思う。けれど、その主張によって、筆者は一家言の持ち主として、それなりに居心地のいい場所を教室で確保していた。

後年、そのころの同級生と同窓会で会ったとき、こう言われたことがある。

「お前の言い方には腹が立ったが、たしかに言うてることは正しかったわ。David Bowieは日本のテクノよりカッコよかった。おかげでいろんなミュージシャンを知ることができた。言い方は腹立つけど」

その言葉を聞いたとき、筆者は嬉しくもあり、もう笑うしかなかった。自分の特性を思えば、あの時期にそう受け止めてくれる同級生がいたことは、かなり恵まれていたのだと思う。

ピンク・フロイド、キャメル、デビッド・ボウイ、タンジェリン・ドリーム。これらは筆者にとって、1970年代のロック、プログレッシブ・ロック、電子音楽、実験的音楽への入口だった。Pink Floydは英国のロック・バンドで、音響的な構築力と長大な曲構成で知られる。Camelもまた英国のプログレッシブ・ロック・バンドであり、叙情的な旋律と構成美を持っていた。Tangerine Dreamはドイツの電子音楽グループで、シンセサイザーによる反復や空間的な響きが特徴だった。David Bowieはロック、ソウル、電子音楽、演劇的イメージを横断したアーティストであり、筆者にとっては音楽が単なる娯楽ではなく、世界観の構築であることを教える存在だった。

筆者は電子音楽の宇宙に浸っていた。

そこからキング・クリムゾンにも入っていった。King Crimsonは、Robert Frippを中心とする英国のプログレッシブ・ロック・バンドである。Robert Frippはギタリストであり、作曲家であり、バンドの中心人物でもあった。複雑な拍子、緊張感のある即興、ロックと現代音楽的感覚の接続によって、King Crimsonは単なるバンドというより、音の構造体のように筆者には見えていた。

あるとき、ライナーノーツで、Robert FrippがKing Crimsonの活動を停止し、音楽活動から距離を置いた時期に、IACEという学校で学んだという記事を読んだ。IACEとは、International Academy for Continuous Educationの略称で、J.G.ベネットが設立した教育機関である。J.G.ベネットは、グルジェフ思想の系譜に連なる人物であり、ロシア出身の神秘思想家ゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフの教えを受け継ぎ、独自に展開した人物として知られている。

そのころは、David Bowieが1975年に発表したアルバム『Young Americans』でソウルやファンクへ接近し、Jeff Beckが同じく1975年に発表したインストゥルメンタル・アルバム『Blow by Blow』でジャズ・ロック、フュージョン的な方向へ大きく踏み出していた時期だった。『Young Americans』は、David Bowieがアメリカの黒人音楽、とりわけフィラデルフィア・ソウルやファンクの感触を取り込んだ作品である。『Blow by Blow』は、Jeff Beckのギターを中心に、ロックの枠を越えてジャズ、ファンク、フュージョンへ向かう作品だった。

筆者が読んだライナーノーツは、ダンサブルなFrippのソロアルバムについてのものだったと思う。そこに、スピリチュアル系の修行僧のような話が出てきた。

少し『燃えよ!カンフー』の香りがした。

そこに書いてあったのが、グルジェフの説く「偶然性の概念とそこからの脱却」だった。

偶然性の法則とは、普通の人間が自分の意志で生きているつもりでありながら、実際には外部からの刺激や偶然の連鎖に動かされている、という考え方として受け取っておけばよい。人は自分で選んでいるつもりでも、実際には状況、性格、習慣、恐怖、欲望に押されて反応している。そこから抜け出すには、自分の反応を観察し、機械的な自分を見る必要がある。

世の中は偶然性の法則に支配されており、普通の人間はその法則の下にしかいない。そこからの脱却を目指す学校がある。

筆者は強く心を引かれた。

15歳くらいの筆者は、そこでゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフの名前を見た。

父親は、本はいくらでも買っていいから読め、という教育方針だった。父親のツケがきくから、小中学校のころは、浪費モードで積読を大量にしていた時期もあった。

ただ、それは他に行く場所がないから本屋に行っていただけだった。本当に学習を目的として、書籍を購入したり、検索したり、注文したりする行為はしていなかった。

せいぜい、マンガ本を買いに行く近所の小さな書店に通う程度だった。当然、そこにグルジェフの本が置いてあるわけもない。

自分からすれば強く心を引かれたRobert Frippの学校だった。けれど、実際には何のアクションもせず、そこから10年ほど経った。

7. グルジェフの衝撃

25歳くらいのころ、バンドのキーボーディストが、強い印象を受けた本として一冊を見せてくれた。それがグルジェフの本だった。たしか『注目すべき人々との出会い』だったと思う。

ちょうどそのころ、朝日新聞の最後のページの下の欄に書籍広告が載っていた。そこに、コリン・ウィルソンのグルジェフ関連本『覚醒への旅立ち』が目についた。コリン・ウィルソンはSFも書いていたので、名前は知っていた。

初めて大阪の紀伊國屋まで探しに行き、それを買った。

読み始めると、そこには予想以上の引力があった。

おとぎ話のようなロシアからの脱出や、基本概念が書かれていた。これは本人の本を買うしかないと思った。そこで買ったのが、ウスペンスキーの『奇蹟を求めて』だった。

ウスペンスキーとは、ロシアの思想家P.D. Ouspenskyである。数学、哲学、神秘思想に関心を持ち、グルジェフと出会ったのち、その教えを体系的に記録した人物として知られる。『奇蹟を求めて』は、ウスペンスキーがグルジェフとの出会いと教えを記録した本で、グルジェフ思想を知るための基本文献のように扱われてきた。

『注目すべき人々との出会い』も、キャサリン・スピースの『グルジェフ・ワーク』も、一通り買って読んだ。

その衝撃は、簡単には言葉にできないほど大きかった。

「人間は機械である」

この考えに触れたとき、筆者は衝撃を受けた。

ゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフは、20世紀の神秘思想家であり、自己観察、注意、身体、感情、思考の統合を通して、人間が機械的な反応から目覚める可能性を説いた人物である。彼の思想において「人間は機械である」という言葉は、人間が自分の意志で生きているつもりでありながら、実際には刺激に対して自動的に反応しているという、厳しい観察の言葉である。

人間は、自分で考えているつもりで、実際には反応している。自分の意志で判断しているつもりで、実際には外部からの刺激、習慣、恐怖、見栄、集団の空気によって動かされている。そう考えると、子どものころから見えていた世界の難解さにも、ひとつの説明がついたように思えた。

それまで筆者の中にあったのは、個々の人間の愚かさへの苛立ちだった。けれど、この考えに触れたことで、その苛立ちは、人間という存在そのものの仕組みへの問いへと変わっていった。

中学の討論会で、自分が何もできなかったことも説明できる気がした。先生も女子生徒も、それぞれの立場に応じたテンプレートで話していた。筆者はそれを見て、何かがおかしいと思った。けれど、筆者自身もまた、発話の場に入った瞬間、別の機械として止まった。

セカハジが難解だった理由も、ここで一旦わかった気がした。

世界が難解なのは、世界が偶然性の法則に支配されているからである。人間が短絡するのは、人間が機械として反応しているからである。先生も、同級生も、偉い人も、自分も、そこから逃れていない。誰も例外ではない。

その例外なしの絶対ルールを知ったとき、長年の違和感に、初めて説明がついた。

その説明は、救済の感触と同時に、別の危険も連れてきた。

「人間は機械である」という言葉を知った筆者は、人間の真理を全部わかったつもりになった。その輪郭を得た瞬間、筆者はまた別の危うさへ入り込んでいった。

おそらく筆者がこの考えにここまで強く引き寄せられたのは、それが長く形を持てずにいた混乱に、初めて構造を与えてくれたからである。慰めではなかったが、見えなかったものに輪郭を与える力はあった。

8. 万能感

けれど、筆者はまだまだ機械だった。

「人間は機械である」という考えに衝撃を受けたあと、筆者が何をしたかというと、世の中の真理を全部わかったつもりになった。

ここでも、筆者はまた短絡していた。

それまでは、自分が他の人にできることをできないのは、今の自分にはまだ努力が足りないからだと思っていた。けれどグルジェフに触れたあと、筆者は一気に反対側へ倒れた。人はみな機械なのだ、と。

他の人たちが「できている」と見えることも、実際には条件づけられた反応や社会的な型に乗っているだけではないか。自分ができないことにも、ただの劣等感ではなく、人間の仕組みそのものが関係しているのではないか。そう考えることで、筆者は自分の弱さから目をそらすこともできた。

それを脱却するためには自己観察しかない。自己観察とは、自分の思考、感情、身体反応、言葉、怒り、欲望を、できるだけそのまま見る試みである。善悪をすぐに決めるのではなく、自分がどのように反応しているかを見る。そういう実践として、筆者は理解していた。

だから、今できることだけをやればいい。できるとか、できないとか、そんなことはいったん棚上げにしてしまえばいい。

成績のいい人間であれ、教師であれ、有名な作家であれ、誰もが機械なのだ。世界は偶然と反応の連鎖で動いているのだ。気にすることは何もない。

とりあえずポジティブなアクションとして、自分は今どんな状況か、自分は何者か、それをずっと観察することだけにしよう。

そう思い込んだ。

もちろん、独学でそんな自己観察ができるわけではなかった。観察していると本人が思い込んでいただけで、実際には内省的になった程度だった。

そしてほとんどの時間は、他の人たちは全員機械だと思って、見下していただけだった。

「世の中の人間は誰も真実を知らない」という真実を手に入れたつもりになり、その真実を知らない人たちを見下す。

他の人を下に見るための、最強の武器を手に入れた。

本来なら、それは自己を観察するための内なる刃として働くはずのものだった。ところが当時の筆者は、それを他者を裁く外向きの物差しにしてしまった。

筆者にとって、それは精神的な罠だった。この短絡は、筆者を自由にしたのではなく、他者を下に見るための足場を与えた。

いま考えると、筆者は自由になったのではなく、自分が閉じ込められている仕組みに名前をつけたにすぎなかった。

しかも、その名前をつけた瞬間に、自分はそこから出たつもりになった。

これが一番危ない。

人は、自分の反応が反応であると少しだけ見えたとき、その見えたという事実を、すぐに自由の証拠にしてしまう。けれど、実際にはまだ同じ部屋の中にいる。部屋の壁を見つけただけで、外へ出たわけではない。

私は「人間は機械である」と知って、機械から出たつもりになった。

しかし実際には、「人間は機械である」と言う機械になっただけだった。

9. 構造への跳躍

そのころ筆者は、大学を離れ、音楽と生活をどうにか両立させようとしながら、新聞配達店で働いていた。

音楽をやりながら収入を得るには、フルタイムの会社員では無理だと思っていた。食うに困ってたどり着いた住み込みの仕事が、新聞屋さんだった。

そこから突然、「これからの時代はコンピューターだ」と思った。

今から見れば無謀に近い判断だったが、当時の筆者には奇妙な勝算があった。

その勝算は、現実的な技能や経験に基づくものではなかった。むしろ逆である。ワープロさえまともに触ったことがなかった。ワープロは難しいが、どこか未来的で魅力的な機械に見える、という程度の認識だった。

実家にはタイプライターがあった。大文字と小文字の棒が入れ替わって印字するような、がっちゃんがっちゃんというタイプライターだった。

ここで思い出すのが、アメリカの作曲家Leroy Andersonによる管弦楽曲「The Typewriter」である。1950年に作曲されたこの曲は、タイプライターの打鍵音やベルの音を、楽器的な効果として取り込んだユーモラスな作品である。父がこの曲をレコードで好きだったので、筆者もその、ガタガタガタガタ、チン、という感覚をよく覚えていた。

けれど、それは音として好きだっただけで、自分が文字入力を使いこなせるという感覚とはまったく別だった。

ワープロもお金がかかる。タイプライターも、人差し指だけでたどたどしく触っただけだった。自分がワープロを使いこなせる自信などない。できないことには、興味も示さない。

だから、ワープロさえ触ったことがなかった。

それでも、音楽は好きだった。

リズムボックスに曲を組み込むのは好きだった。Aパターンを何回、Bパターンを何回、そのあと別のパターンへ行く。そういう順序を機械に覚えさせる感覚には惹かれていた。

それをシーケンサーと呼ぶことも知っていた。シーケンサーとは、音やリズムや演奏情報を順番に並べ、機械に再生させる装置や仕組みのことである。筆者が触っていたものは本格的なシーケンサーではなかったが、リズムマシンやドラムボックスを打ち込む感覚は、音楽を「演奏」ではなく「構造」として扱う入口になっていた。

筆者が触っていたのは、本格的なシーケンサーというより、リズムマシンやドラムボックスだった。シーケンサーと言われるものの変化版を打ち込むのが好きだった。

楽器をうまく弾けなくても、順序やパターンを組めば、音楽のようなものは立ち上がる。その経験は、技術が足りなくても、論理や構造で何かを動かせるのではないか、という短絡につながっていた。

けれど、「こういう機械があれば、自分は楽器を弾けなくても何かできるのではないか」と短絡した。

そこから、なぜか「コンピューターの会社に行こう」へ飛んだ。

今から見れば、これも短絡だった。

ただし、グルジェフによるよい短絡だった。

その背景には、読書体験の中で筆者に強く残ったオビバチェリという言葉があった。ワークをするにはまずオビバチェリになる必要がある、という言葉である。

オビバチェリとは、グルジェフ周辺の文脈で用いられる言葉で、一般には「普通の生活者」「家長」「生活を担う者」に近い意味で受け取られることが多い。神秘思想というと、世俗を捨てる修行者を思い浮かべる人もいるかもしれない。だが、筆者がここで受け取ったグルジェフ・ワークは、むしろ生活のただ中で責任を担う道だった。

正確な引用ではなく、筆者の記憶では、人生において自分自身の方向性を見定める能力は、ワークの観点から見て非常に有用な資質であり、良きオビバチェリたる者は、自らの労働によって少なくとも20人を養えるべきだ、という趣旨の言葉だった。

また、これができない人間に、一体何の価値があるのか、というほど強い調子の言葉として、筆者の記憶には残っている。

また、ボヘミアンにワークができる可能性はない、とも書かれていた。

つまり、スポンサーやパトロンというモデルは、クワイ・チャン・ケインの道とは決して交わらない。俗世を離れて漂うのではない。在家の道であるグルジェフ・ワークは、自分の食いぶちは自分で稼ぐどころか、最低20人を養える家父長でないといけない。

そう書いてあるように読めた。

良きオビバチェリ、すなわち良き家長になること。

それなりに理屈が通っていると思った。

では、やってみよう。

それが会社員になる理由だった。

ここで筆者は、生き方の重心を、観念ではなく生活の側へ置き直した。

筆者の中には、勘違いした万能感があった。

自己観察をして、周囲の単なる機械でしかない人々や、習わしや組織に対して、グルジェフ・ワーク風にアプローチすれば、必ず自分の思い通りにできる。そんな思い込みがあった。

グルジェフ・ワークとは、グルジェフの教えに基づき、自分の機械性を観察し、注意を育て、生活の中で意識的であろうとする実践を指す。筆者の理解は浅く、むしろ「理解したつもり」に近かった。だが、その「つもり」が、奇妙な行動力を生んだ。

Napoleon Hillの『思考は現実化する』という本のタイトルだけは知っていた。読んではいなかった。けれど、読まなくても自分はわかっている、という気分になっていた。グルジェフの思想が、その勝手な万能感に、さらに論理武装を与えた。

グルジェフ的に言えば、そこで動いていたのは純粋な意志ではなく、思考センターの短絡、感情センターの万能感、動作センターの突進だった。その短絡は、やがて偶然性の法則の中で、会社側の需要と一時的に噛み合うことになる。

10. マイコン屋さん

30歳手前にして、筆者はリクルート活動に入った。

コンピューターの会社がいいと思った。実際に入った今の会社は、ハードウェアとソフトウェアを融合するようなキャッチフレーズを持つマイコン屋さんだった。

今では、大手自動車メーカーを相手に、日本の中でそこそこニッチな立場を確保している。良い会社である。今となっては、神様のご加護だったのかもしれない。

しかし、入ったときは大変だった。

社会人としての基礎も、コンピューターの実務経験も乏しいまま、話す力と奇妙な熱量だけで採用されたようなものだった。周囲から見れば、どう扱えばよいのか判断しにくい新人だったに違いない。

やる気だけはあった。

低姿勢という仮面も、グルジェフの外的考慮を見よう見まねでやっていた。外的考慮とは、相手の立場や状態を考慮し、自分の感情や都合だけを押し出さない態度として理解しておけばよい。筆者はそれを深く体得していたわけではない。ただ、社会の中で生き延びるための姿勢として、見よう見まねで使っていた。

しばらくの間は、それでなんとかなった。

ブラインドタッチや、MS-DOSの起動ディスクくらいは作れるようになった。けれど、プログラムをやらせてくれと言うと、外回りに行けと言われる。ジレンマだった。

それでも、オビバチェリなら外回りも平気でこなせる、という短絡で乗り切った。

面接では、当時の筆者が自分の世界観を一時間しゃべり続けた。そこで語ったのは、コンピューターの知識よりも、グルジェフから始まる自分なりの世界観だった。

すると、「君、営業に向いてるから採用ね」と言われた。結果として、その場では採用が決まった。思考は現実化したのである。

グルジェフによる「短絡」がなければ、筆者はその会社の門を叩かなかったと思う。ワープロも触れない、プログラムも知らない、社会人としての常識も怪しい人間が、マイコン屋さんに入るなど、普通に考えれば無謀だった。

けれど、その無謀さが、筆者を生活の側へ押し出した。

筆者にとって重要だったのは、そこで示されたものが生活の引き受け方そのものだったことである。家長であれ、生活を担え、労働によって支えよという命令として、それは入ってきた。筆者はそこで、生き方の重心を、観念ではなく生活の側へ置き直した。

この時の筆者は、たしかに短絡していたのだと思う。その短絡には、誤謬を含みながらも、人生を次の局面へ押し出す力があった。筆者を責任の側へ、労働の側へ、家族を抱える側へと押し出す推進力でもあった。短絡は人を愚かにするだけでなく、ときに人生を無理やり次の局面へ運んでしまう。

この短絡は、見下しや怒りとして働いた短絡とは別の顔を持っていた。未熟な理解から出発していても、生活を引き受ける方向へ筆者を押し出したからである。

今にして思えば、筆者は最初から「演奏」そのものよりも、「構造」や「切り替え」や「接続」に惹かれていたのかもしれない。タイプライターやリズムマシンに感じていた機械的な手応え、パターンの配置、論理の流れ。そうした機械的な快楽が、就職という跳躍に、思いがけずそのまま転用された。

11. 家族と仕事

入ったはいいが、苦労はする。

社会常識に乏しい人間が、口が達者という理由で採用されたのだから。パソコンも触れない。プログラムも知らない。

それでも、低姿勢の仮面とやる気でしばらくは乗り切った。

私生活にも、重い出来事が続いた。

長男には自閉症の診断につながる特性があり、長女が保育所に通うころ、妻は心労の末に自ら命を絶った。

それでも乗り切る。鉄の心臓だからである。

この言い方は、強がりでもある。実際には、苦しいことは苦しかった。悩みもあった。けれど、そこから抜け出そうとする青春ドラマのような一個人の苦悩に、自分を閉じ込めたくはなかった。

グルジェフを読んだ機械は、そこでもグルジェフ風に作動した。

できるとか、できないとかではない。オビバチェリとして、外回りも、育児も、仕事も、生活も、なんとかやる。

そういう短絡で乗り切った。

よい短絡だったのか、悪い短絡だったのか。たぶん、両方だった。

「良き家長」という言葉が本当に試される場所は、生活が崩れかけ、責任だけが残り、なお逃げられない場面である。筆者にとってこの時期の実践は、理解を飾ることではなく、生活を引き受け続けるための試行錯誤だった。

ここで筆者の前に現れたのは、思想の正しさを超えて、崩れかける生活のただ中で、それでも担うべきものを担えるのかという、あまりにも具体的で地上的な問いだった。

12. ソサエティ

そして、2006年2月、44歳になって、ふと思った。

今なら、グルジェフ・ソサエティに入れるのではないか。

グルジェフ・ソサエティとは、グルジェフの教えを学ぶための組織やグループの系譜を指す言葉として、ここでは用いている。筆者にとってそれは、ウスペンスキーやJ.G.ベネットといった名のある人物たちにつながる、どこか遠く、敷居の高い世界のように見えていた。

なぜそれまで入っていなかったのか。

妻が健在なころの筆者には、重要なことほど先送りにしてしまう癖があった。妻の手前、狂信者と思われたくなかったというのもあった。2000年の妻の死後は、育児で余裕がなかった。自分もいつ死ぬかもしれないということで、後回しにしていたことを先にやろうとは思った。そのときは英語だったり、アラビア語だったり、ヘブライ語だったり、別のことをしていた。

そして、最大の理由は、門前払いをくらうのが怖かったことだった。

ウスペンスキーやベネットの名前とつながる系譜のグループだと、筆者は受け取っていた。きわめて高度な修行者の集団だと思っていた。未だ君には資格がない、と言われたらいやだった。

門前払いを恐れていたが、人生に疲れたころ、そろそろいいかなと思って入ってみた。

すると、想像していたような選ばれた人々の集団ではなかった。

筆者が勝手に想像していたような、遠く輝く修行者の集まりではなかった。むしろ、社会の中心から少し外れた場所にいるような人たちが多かった。そこにクワイ・チャン・ケインはいなかったが、それなりに良い意味で異世界だった。

入る前、筆者はmixiにグルジェフ・コミュニティを作ったりしていた。入って早々、師匠から「理解していないことを書くことについてどう思うか?」と問われた。『奇蹟を求めて』の関係箇所を指さされた。

その問いを受けて、筆者は自分の理解の浅さを認めざるをえなかった。

筆者は師の指導に従い、それまでの自己流の活動をやめ、すぐにmixiのコミュニティは閉会した。

この出来事は、小さなことのようでいて、筆者にとっては大きかった。理解していないことを書くことについてどう思うか、と問われたとき、自分がまた同じことをしていたのだと感じた。グルジェフを知ったつもりになり、その名を使って場を作り、自分の理解を外へ出していた。

師の指導に従い、自己流の活動をやめることは、筆者にとって、初めて本当に外側から制止される経験でもあった。

13. 反応の部屋

それから15年くらい、結構真面目に取り組んでいたと思う。

けれど、仲間が一人去り、さらに二人が場から離れていった。

人が場から離れていくことと、生活の側で起きる出来事とが重なり、筆者の中でワークへの信頼は少しずつ揺らいでいった。

娘は精神的に不調をきたし、社会生活から一時的に離れた。その状況が少し落ち着いたころ、息子の事件をきっかけに、警察の家宅捜索を受けることになった。さらに、筆者の人生を大きく揺るがす出来事が重なった。

その観察を話したとき、メンバーから返ってきたのは、「私にもそういう時期があったけど」というような、相手の苦しみに寄り添うよりも、自分の経験で上書きする反応だった。

その瞬間、長く保っていた緊張の糸が切れた。

同じころ、自分がスマートフォンショップの店員に対して、理不尽な怒りをぶつけてしまったこともショックだった。

15年、グルジェフ・ワークをしていると思っていた。けれど、何も変わっていなかった。

刺激が来れば怒る。反射で相手を攻撃する。自分はまだ、機械のままだった。

そのとき痛感したのは、自分がまだ同じ反応の部屋から出ていなかったということだった。

反応の部屋の中にいる人間は、自分が反応しているとは思わない。正当な怒りだと思う。筋の通った抗議だと思う。相手が悪いから自分はこう言っているのだと思う。

けれど、あとから見ると、それはほとんど自動反応だった。

15年のワークで、筆者はその部屋の見取り図を少しは描けるようになったのかもしれない。けれど、外に出ていたわけではなかった。

見取り図を持ったまま、同じ部屋で怒っていた。

自己責任論で言えば、グルジェフ・ソサエティに責任はない。筆者が変わらなかったのは、筆者の問題である。

けれど、その自己責任論にも疲れていた。

何でもかんでも自分の責任として引き受ければ、それで何かが見えるのか。そういう疲れもあった。

この個人的な幻滅は、やがて別の疑念へとつながっていった。

14. 舞台裏

ウスペンスキーは『奇蹟を求めて』を書いた。その後、グルジェフから泥棒と言われた、という話をどこかで読んだ記憶がある。出典をここで正確に確認できているわけではないので、これは筆者の記憶として書いておく。

一方で、その『奇蹟を求めて』は、グルジェフ思想を知るための基本文献のように扱われてきた。

筆者には、この扱いのねじれが引っかかった。

『奇蹟を求めて』に書かれている奇蹟を、筆者はかなり乱暴に言えば、テレパシー的な交感の問題として読んでいた。

ウスペンスキーはいろいろな経験を経て、グルジェフを尊敬し、弟子になり、最後にテレパシーのような体験をする。その後、自分のすべきことはここにはないと自覚して、グループを離脱する。そして最後には、泥棒と言われたという話が伝わっているように、少なくとも筆者の記憶には残っている。

筆者はそこで、もしテレパシーがあるなら、その後もどこかで会話できるのではないかと考えてしまった。

筆者はそこに、何か裏があるように感じてしまった。

この「裏」とは、出来事の表面には出てこない別の意味や、役割や、沈黙の合図のようなものを読み取りたくなる、筆者自身の癖のことである。陰謀を断定する意図はない。

この癖は、宗教や神秘思想を読むときにしばしば現れる。表に書かれた言葉がある。けれど、その背後に、別の層があるように見える。公的な関係がある。けれど、その奥に、師と弟子の秘められた合意があるように思えてしまう。

哲学者Immanuel Kantは、少なくとも有名な嘘論において、善意による嘘であっても認めない厳格な立場を取ったとされる。Kantは、18世紀ドイツの哲学者で、理性、道徳、認識の限界について大きな影響を与えた人物である。本段で関係するのは、嘘をついてはならないという道徳法則をめぐる、彼の厳格な議論である。

そこには筆者も同意する。

だから、おそらくウスペンスキーもグルジェフも、単純な意味では嘘をついていないのだと思う。

けれど、奥義の世界では、嘘ではないが、副次的には嘘の要素を含む言葉がある。

たとえば『マハーバーラタ』には、アシュヴァタマンの場面がある。『マハーバーラタ』は古代インドの大叙事詩で、王族同士の争いを描きながら、神話、倫理、宗教、哲学を含み込んだ巨大な物語である。

その中で、クリシュナは、ユディシティラをそそのかす。アシュヴァタマンという名前を象につけ、その象を殺す。そして「アシュヴァタマンは死んだ」と叫べ、と。

息子のアシュヴァタマンを生きがいにしていたドローナは、それを聞けばショックで動けなくなる。その隙にドローナは討たれることになる。

ユディシティラは、属性として嘘を言えない人物である。そこが面白い。

けれど彼は、副次的な嘘をつく。

「アシュヴァタマンは死んだ」

小さい声で「象の」と言えば、形式上は嘘ではない。けれど、ドローナが聞いた意味では、息子のアシュヴァタマンが死んだことになる。

そこには、嘘ではないが、相手を誤認させる言葉がある。

古き良き『マハーバーラタ』の中に、そういうエピソードが含まれている。

だから筆者は、ウスペンスキーとグルジェフの間にも、何らかの嘘と本当があったのではないかと思った。

Robert Frippが入った学校IACEの創設者、J.G.ベネットについてもそうである。

筆者の記憶では、ベネットがウスペンスキーに「私はユダになりたい」と語ったという話があった。筆者にはその言葉が妙に引っかかった。

ユダとは、新約聖書においてイエスを引き渡した弟子、イスカリオテのユダである。ユダが祭司長たちにイエスを引き渡す相談をする場面は、マタイによる福音書26章14節から16節、またルカによる福音書22章3節から6節に記されている。最後の晩餐で裏切りが語られる場面は、ヨハネによる福音書13章21節から30節に詳しい。ユダが後悔し、銀貨を返し、死に至る場面は、マタイによる福音書27章3節から5節にある。また、初期共同体がユダの死と使徒職の欠員を語る場面は、使徒言行録1章16節から20節に見られる。

一般には、ユダは裏切り者の代名詞である。けれど、神秘思想や象徴的読解の文脈では、ユダをもっとも重い役割を担った弟子として読む見方が現れることがある。この読みは、聖書本文の標準的な読みと区別して考える必要がある。

筆者の象徴的読解の中では、ユダは、もっとも重い役割を担った弟子として見えていた。裏切り者という汚名を引き受ける役割として読むなら、ベネットの「私はユダになりたい」という記憶上の言葉は、最高の弟子でありたいという願いとしても読めてしまう。

さらに筆者の記憶では、ベネットの覚悟に対して、ウスペンスキーが自分にはそこまでの役割を引き受ける覚悟はない、という趣旨の反応を示したという話もあったように思う。ただし、この記憶も出典を確認できているわけではない。筆者の記憶に残ったのは、その発言の真偽以上に、師弟関係における役割、離脱、汚名、沈黙の構造を、そこへ読み取ってしまった自分自身の反応だった。

この記憶は、筆者の中で妙に残り続けた。

けれど、実際に裏切り者の汚名を着たのは、ウスペンスキーだったようにも見える。

こういうところに、筆者は舞台裏を感じてしまう。

断言したいわけではないが、筆者の思考はどうしてもその方向へ引き寄せられてしまう。

テレパシーが行き交うような世界であるなら、表に見える離脱や断絶や罵倒だけが、すべてではないのではないか。表向きには切れているように見える関係の背後に、別のやり取りや別の役割があるのではないか。

そう考えてしまうこと自体が、筆者の宿痾だった。

筆者の前に現れていたのは、彼らの関係の真相以上に、見えない構造をそこへ読み取りたくなってしまう自分自身の癖だった。筆者はそこにもまた、役割、離脱、汚名、沈黙の構造を読み取りたくなってしまう。その読み取りには、妄想として片づけきれない面もある。見えない構造へ仮説を飛ばすという意味では、アブダクション的な思考でもある。アブダクションは、十分な証拠がない段階で、見えない構造を仮に置いてみることで理解の入口を開く。短絡上等の世界である。

だが、その仮説を「見抜いた」と思い込み、難解さを理解したつもりになった瞬間、それもまた短絡になる。世界が難解であるとき、人は単純な答えに飛びつく場合もあれば、複雑な舞台裏を想像する場合もある。その仮説が固定されると、短絡はバッファとなり、防衛機制となり、妄想的な自己正当化にもなる。

これは、筆者自身の仮説的読解であり、連想であり、疑念である。舞台裏を読み取りたくなる短絡の一例として置いている。

15. Ωとα

グルジェフは、筆者に世界の難解さを説明する言葉をくれた。

人間は機械である。

世界は偶然性の法則に支配されている。

その言葉によって、中学の討論会も、高校の仮面も、大人への違和感も、同級生への違和感も、一旦つながった。

その言葉を手にした筆者もまた、機械として短絡していた。

人間は機械であると知って、世界の真理を全部わかったつもりになった。自己観察をしているつもりで、他人を見下した。オビバチェリを目指すと言って会社員になった。会社員になってからも、外的考慮を見よう見まねで使い、低姿勢の仮面をかぶった。

15年ワークをしたつもりになり、それでもスマートフォンショップで理不尽な怒りをぶつけた。

そこで起きたことを、筆者はいま、覚醒というより、グルジェフを読んだ筆者という機械が、グルジェフ風に作動し始めた出来事として見ている。

その作動は、他人を見下す方向にも、無謀な転職へ飛び込む方向にも、オビバチェリを目指す方向にも、グルジェフィアンへの疑念にも向かった。

筆者は、何も変わっていなかった。

少なくとも、反応の部屋から出てはいなかった。部屋の見取り図を描き、壁の名前を覚え、そこに閉じ込められている自分を観察しているつもりになっていただけだった。

ここで、宿痾シリーズはΩ、つまり終わりを迎える。

ここまでの短絡には、複数の顔があった。中学討論会で言葉を失った短絡。高校で攻撃的な仮面を身につけた短絡。グルジェフを読んで他人を見下した短絡。新聞配達店からマイコン屋さんへ飛び込んだ短絡。舞台裏を読み取りたくなった短絡。意識の下層で先に反応が立ち上がり、あとから理由をつける潜在意識的な短絡。自分は理解した、自分は自由になった、自分はできると思い込む自己欺瞞としての短絡。それぞれの短絡は別の顔を持つ。怒りとして人を傷つける短絡もあれば、生活へ踏み出すための乱暴な推進力になる短絡もある。見えない構造へ仮説を飛ばす短絡もある。自分をだましてでも動かなければならない短絡もある。

短絡は、バッファのように矛盾をやわらげ、防衛機制のように恥や恐怖を遠ざけ、マーヤーのように現実を覆い、無明のように見えなさを作る。さらに、キリスト教で原罪として語られる人間の歪みとも響き合う。そこには、悪として切り捨てるだけでは捉えきれない働きもあった。短絡は、人間が現実を直接には受け取れず、それでも生きるために作り出す仮の回路でもある。筆者にとって決定的だったのは、短絡したことそのものより、その短絡を自由や理解や覚醒と取り違えたことだった。

世界は難解である。人はその難解さに耐えられず、短絡する。筆者もまた、その外にはいなかった。短絡は恥であり、同時に、ときには人を次の場所へ押し出す乱暴なエンジンでもあった。

エンジンだけでは外へ出られない。

グルジェフは、筆者に反応の部屋を見せた。しかし、その部屋から筆者を連れ出す鍵までは渡さなかった。そこから本当に抜け出すために、筆者はやがてクリスチャンになる。

その話は、次の機会に譲る。

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