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宿痾(しゅくあ)シリーズ:果てしなき流れの果の感情脳(3.7千文字)

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宿痾シリーズ:果てしなき流れの果の感情脳

v1.7

【注釈】本稿は、筆者個人による調査・読解・考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料の参照や、近年一般化しているAIを用いた情報収集・整理・ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性・完全性・最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。
この記事には、映画『復活の日』および小松左京の複数の著作に関する重大なネタバレが含まれています。未読・未見の方は、まず原作や作品に触れてからご覧になることを強く推奨します。

導入:宿痾の始まり、マックス・ヘッドルームとAE(人工実存)

私が初めてマックス・ヘッドルームをレンタルビデオで視聴したのは、1987年頃だったと記憶している。不完全な人間の情報を元にした模造キャラクターが、アメコミ的に暴走するというテーマだった。ほぼ同時期、私は小松左京の未完の長編『虚無回廊』において、衝撃的なアイデアに触れることになる。

物語の初出は雑誌『SFアドベンチャー』の1985年1月号。そこで描かれたのは、主人公・遠藤の全情報を移植されたAE(人工実存)という存在だった。奇しくも、マックス・ヘッドルームの原型であるイギリスのテレビ映画が初放送されたのも1985年である。

それ以来、私の内で問いが渦巻き始めた。本当に、人間の全ての情報を機械に移植することなどできるのだろうか。いや、ここには何かのごまかしがある気がする。いったい、誰が何をごまかしているというのか。この晴れないもやもや感は、その後の私の精神的な宿痾となった。

1. 看過できない映画の一場面:絶望の安直な単純化

映画『復活の日』(1980年)に、どうしても受け入れがたい場面がある。草刈正雄演じる主人公が、廃墟と化した教会で十字架のイエス像に「お前は何もしてくれないんだな」と吐き捨てるシーンだ。

この痛烈なセリフは、私の確認した範囲では原作に見当たらず、深作欣二監督によるオリジナルの演出であり、監督なりの小松左京解釈の一つなのだろう。しかし私は、この場面に強い違和感を覚える。なぜなら、人間が絶望的な状況と対峙する理由を「神の不在」という一点に収斂させてしまう、その安直な単純化に納得がいかないからだ。

聖書には、理不尽な苦難の只中にいる人間の信仰を問う「ヨブ記」という書物が存在する。そこでは、理解を超えた絶望的状況そのものが、神との対話の主題となっている。つまり、絶望と神の不在は、決して単純な等式では結ばれない。それをあえて「神がいなかったから絶望した」という構図で描くのは、ある種のルサンチマンではないかと感じてしまうのだ。

2. 小松左京の本質:「神なき宇宙」での知性の探求

小松左京は、そもそも「神に文句を言う」作家ではない。彼のハードSFは一貫して、科学的視点から文明の限界や宇宙スケールでの人類の無力さを描き、それでもなお思考を続ける知性の姿を追ってきた。彼の描く絶望は、科学が解き明かす冷徹な事実そのものから生まれる。

むしろ彼は、原作『果しなき流れの果に』や『結晶星団』に登場するルシファー的な存在、あるいは『神への長い道』に登場するそのオリジン的な存在を通じて、神話的秩序への反逆を知性の進化として描いてきた。小松にとって神の不在は嘆くべき事象ではなく、知性が自律し、宇宙の真理へと歩み出すための大前提なのである。

その意味で、映画の教会シーンは、小松の壮大な宇宙観を、矮小な人間的感情のレベルに引きずり下ろしてしまったように思えてならない。

3. 人間の手による救済:知性への継承が内包する脆さ

もちろん、「人間が自分達や機械だけでなんとかする」という姿勢自体は、小松左京の思想を貫くものであり、その解釈は正しい。阪神・淡路大震災を経験した晩年の彼が、遺作『虚無回廊』でAE(人工実存)に人類の探求を託そうとしたのは、その究極的な発露と言えるだろう。

しかし、だからこそ、私はそこに危うさと脆さ、あるいは儚さを感じずにはいられない。冒頭で述べた「全情報の移植はごまかしではないか」という宿痾は、この点に起因する。人間の手だけで完結する救済や継承は、本当に完全なものたりえるのだろうか。

4. シンギュラリティと「感情脳」の壁

この問いは、現代のシンギュラリティ論争へと直結する。堀江貴文氏のチャンネルが公開した動画「【AIが解説】シンギュラリティとAIの未来」で解説されている。

動画によれば、シンギュラリティとは「AIが人間の知能を超える時点」を指し、2045年に起こるという説が有名である。そのメリットとしてデータ分析の効率化や医療の進化が挙げられる一方、最大のデメリットとして「人間の役割の変化」が論じられる。AIが多くの分野で人間を超えることで、そもそも人間の役割が問われる可能性があり、AIへの依存によって「人間の独自性や創造性が失われる」ことも懸念されるという。そして動画は、「人間として何を世界に残せるのかを考えなければならない、非常に難しい時代です」と締めくくられる。

5. 「感情脳」の証左としての堀江貴文氏の発言

しかし、この一般的な議論に加え、堀江貴文氏自身のより深い洞察が、私の宿痾の核心を突くものであった。彼は別の議論の中で、AIが人間と決定的に異なる点について、極めて重要な指摘をしている。それは、AIには自律神経系や「内臓」がなく、人間の感情やモチベーションは脳単体ではなく、この内臓を含む「身体性」から生まれるという視点だ。

緊張すれば心拍数が上がるように、人間の思考や感情は常に身体からのフィードバックと共にある。AIには、この生存本能と直結した身体、つまり内臓系からの信号が存在しない。この指摘こそ、私が「感情脳」と呼ぶものの本質であり、長年抱いてきた違和感の正体を完璧に言語化するものであった。堀江氏の発言は、私の仮説にとって決定的な証左となったのである。

6. 結論:感情脳の不在と、評価の「棚上げ」

「感情脳」のAI化というアイデアに触れたとき、私の長年の宿痾はいったん一つの結論を得た。つまり、小松左京のAEに対するビジョンと希望の託し方にその観点が決定的に欠けていることこそが、最大の違和感の正体だったのだ。

百歩譲って、この感情脳AIが実装された暁には、『虚無回廊』のリアリティは増すかもしれない。しかし、その観点が不在のまま、人間の死生観を含む全てをAEに託すという姿勢に、自分が非常に違和感を感じていたことに気づいたのである。

これは小松左京個人への批判というより、彼の生きた時代の限界、あるいは一個人の限界なのだろう。しかし、人類規模で見ても、この「感情脳」という視点があまりにも語られてこなかったのではないか。

映画の安直な絶望も、未来への軽薄な楽観も、今は不要だ。必要なのは、まだ来ていないものを、来ていないまま静かに待ち、思考を続ける知性である。だからこそ私は、『虚無回廊』が描く世界に関しては、感情脳を備えたAIが現実となるその日まで、その評価をいったん「棚上げ」にすることに決めた。果てしなき流れの果で待つべき答えは、まだ我々の手の中にはないのだから。

エピローグ:見過ごされた永遠への福音

だが、論理的な評価を「棚上げ」にした上で、私には揺らぐことのない一つの確信がある。それは、そもそもAEに希望を託さずとも、人は永遠を手に入れられるという信仰だ。キリスト教の神や、イエス・キリストは決して何もしてくれないのではない。おそらく我々は、既にどれほどのものが与えられているのか、その計り知れない恩寵を見過ごしているに過ぎないのではないか。私にはそうとしか思えないのだ。

それは、人気漫画『葬送のフリーレン』が示すように、「必死に生きてきた人の行き着く先が、無であっていいはずがない」という祈りにも似た願いかもしれない。あるいは、カオス理論における「ストレンジ・アトラクター」のように、無数の混沌とした事象を引き寄せ、意味のあるパターンを形成する中心として、イエス・キリストという存在を捉えることもできるだろう。

これは単なる個人の主観に過ぎない、と切り捨てるのは容易い。しかし、noteでの一連の記事で私が試みてきたのは、まさにこの希望の仮説をアブダクションによって導き出す作業ではなかったか。それは人類全体にとっての、ささやかな、しかし確かな希望の福音であると、私は信じている。



【注記】
この物語は次の書籍へのオマージュ、リスペクト、インスパイアとして作成されました。
▼小松左京
虚無回廊

果てしなき流れの果に

結晶星団

神への長い道

復活の日

マックス・ヘッドルーム