見出し画像

アシュマダイ:怒りという王座の簒奪者(9.1千文字)

▼関連記事

アシュマダイ:怒りという王座の簒奪者

v4.13

【注釈】本稿は、筆者個人による調査・読解・考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料の参照や、近年一般化しているAIを用いた情報収集・整理・ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性・完全性・最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。

1.眩暈の日

筆者はクリスチャンである。筆者には、軽度のADHD傾向と、生活上は重度に出るASD特性がある。制度上は大きな支援の対象になりにくく、日々の生活では健常者として振る舞う側に置かれている。予定や手順を頭の中だけで保つことが難しい日があり、音や言葉や人の動きが、ほかの人より強く身体に入ってくることもある。急な変更や曖昧な説明に出会うと、頭では小さな出来事だと分かっていても、身体のほうが先にこわばる。

ジェイコブ・ニードルマン『お金、この神秘なるもの』には、ソロモンとアシュマダイの話が出てくる。アシュマダイの伝承は、ソロモンという王の物語から始まる。ソロモンは、旧約聖書においてダビデの子として語られるイスラエルの王である。『列王記上』では、神に知恵を求める王として描かれ、神殿を建てた王としても記される。神殿建設については、『列王記上』5章から8章にまとまっている。

アシュマダイの王座簒奪は、後代のユダヤ伝承、特にバビロニア・タルムード『ギッティン』68a-b周辺に語られる話である。そこでは、ソロモンが神殿建設に必要な手がかりを得るためにアシュマダイを捕らえる。しかしアシュマダイはやがてソロモンを欺き、遠くへ投げ飛ばす。そしてソロモンの姿をとって王座に座る。本物のソロモンは、自分がソロモンであると訴えながら、王であることを認められずにさまよう。

この伝承は、王座を失ったソロモンの悲劇と、ソロモンの姿をとって王として振る舞うアシュマダイの不気味さを同時に語っている。怒りは、筆者の内側で筆者の顔をし、筆者の声で話し、筆者の正しさを名乗る。相手を叱っているつもりで、実際には怒りが筆者の座に座っている。

アシュマダイは、アスモデウスとも関係する名である。『トビト記』には、アスモデウスという悪霊が登場する。『トビト記』は、カトリック教会や正教会では聖書に含まれるが、プロテスタントでは一般に旧約聖書続編または外典として扱われる文書である。『トビト記』3章8節では、ラグエルの娘サラの七人の夫が、婚姻の完成前に悪霊アスモデウスによって殺されたことが語られる。『トビト記』6章7節から8節、さらに6章16節から17節では、天使ラファエルがトビアスに、魚の心臓と肝臓を用いて悪霊を退ける方法を教える。『トビト記』8章2節から3節では、トビアスが魚の肝臓と心臓を香の灰の上に置き、その煙を受けた悪霊が逃げ、ラファエルによって縛られる流れが語られる。

後世の悪魔学では、アスモデウスは色欲と結びつけられることが多い。一方で、アシュマダイ、アスモデウスという名は、怒りや憤怒にも関わる。悪魔学上の分類を固定するよりも、ソロモンの王座を奪うアシュマダイの像が、怒りに自分の座を奪われる感覚を照らすところに意味がある。

眩暈がしている日は、世界の輪郭が少しだけきつくなる。音が刺さり、言葉が刺さり、人の動きが遅く見える。こちらの身体はふらついているのに、周囲の用事だけはいつも通りに進んでいく。そういう日に、筆者は自分の中にある荒さを見た。

体調が悪く、余裕がなく、頭が回らない。そう言えば、いくらか説明はつく。けれど説明がつくことと、相手にぶつけてよいことは別である。眩暈は免罪符にならない。むしろ眩暈があったからこそ、普段なら抑えているものがそのまま表に出た。

これらの荒さは、大事件というほどの規模を持たず、誰かを破滅させるような悪としては見えにくい。けれど、日常の中で小さく他人を刺し、刺したあとでこちらだけが理由を並べるところに、自分の中のアシュマダイが姿を現す。

苛立ちから逃れることが本質なのかと考えると、少し違う気がする。苛立ちは、こちらの中に実際にある。消えろと言って消えるものでもないし、立派な人間のふりをして包み隠せるものでもない。問題は、苛立ちの有無より、その苛立ちの行き先を他人の身体や時間や勤務中の表情にしてしまうことだった。

2.地図アプリへの罵声

スマホの地図アプリには、日常茶飯事のように罵声を浴びせていた。

途中で道が変わり、しかも回り道になることがある。こちらが別の道を選んだあとも、地図アプリは執拗にUターンをすすめてくる。案内に従ったはずなのに、到着した場所が違うこともある。そういうとき、筆者は地図アプリに向かって怒鳴っていた。

相手が人間以外なら、気が楽になる。人に怒鳴るよりはよいと言いたくなる。実際、店員や職員や家族に怒鳴るより、アプリに怒鳴るほうが相手を直接傷つけないという面はある。地図アプリは傷つかない。カーナビは落ち込まない。こちらの罵声を受けて、翌日まで嫌な気分を引きずることもない。

そこで終わる話として処理すると、肝心の部分を取り逃がす。地図アプリへの罵声は、自分の声の癖を育てる。気に入らない出力がされ、思い通りにいかず、期待と現実がずれた瞬間に怒声で反応する回路を、筆者は日常的に使っている。

相手が機械なら、その場では被害者が見えにくい。だが、その声の出し方は自分の中に残る。人間相手の場面に、そのまま持ち越されることがある。レジでの声、市役所での声、スマホショップでの声、家族への声。それらは完全に別々のものとして切り離せない。声の筋肉はつながっている。

ZOOMの操作でも似たことはあった。思った画面にならない。音声がうまく切り替わらない。相手に見せたいものが見せられない。必要なボタンがすぐ見つからない。そのたびに、筆者は画面に向かって悪態をつく。機械に向けているつもりの声が、部屋の空気を荒らし、自分の身体を怒りに慣らしていく。

アプリに怒鳴る行為には、人間相手の怒声とは別の軽さがある。それでも筆者が見落としたくないのは、そこにもアシュマダイがいるということだ。思い通りにいかないものを罵倒する快感がある。相手が反論しないことに甘えて、声を荒くする習慣がある。機械相手だから許されると思っていた声が、いつのまにか人間相手にも出てくる。

筆者は、怒りの練習をしていたのかもしれない。

3.車中の罵声

車の中でも、怒りは出る。

後続車が、あおり運転すれすれのようにスピードを上げて迫ってくる。車間を詰められているように感じる。こちらの運転をせかされているように感じる。すると筆者は、車中で全力の声で罵声を浴びせることがあった。

窓を閉めた車内で叫ぶ罵声は、物理的には相手に届かない。だが届かないから無害だと決めるのは早い。自分の身体は怒りに染まる。声を出しているうちに、怒りはさらに言語化され、勢いを持つ。

これは或る意味、実験でもあった。

どこまで自分の理不尽な怒りが言語化されるのかを、自分で観察するという意味もあった。怒っている自分が何を言うのか。どの語彙を選ぶのか。どのくらい相手を罵倒したがるのか。そういう観察の目が少しだけあった。

実際に口に出してみると、筆者は自分でも驚いた。相手に対する憎悪が、自分の中でマグマのようにとぐろを巻いていた。こんなものが自分の中にあったのかと思う怖さがあり、窓を閉めた車内で一人、聞こえない相手に向かって全力で怒鳴っている自分の滑稽さもあった。あまりのことに、我ながら笑ってしまった。

ただし、いつもそうなるわけではない。観察が間に合わず、怒りがそのまま身体を支配することもある。

4.AIとの対話

AIとの対話でも、筆者は日常的に怒りを抑えられなくなる。

意図が通らず、指示が反映されず、余計な報告が出て、同じ失敗が繰り返される。保持してほしい箇所が削られ、出してほしいものが出ず、作業ではなく出力を求めているのに応答が会話の形に戻ってくる。そういう場面で、筆者はAIに向かって怒る。

相手は人間以外である。だから、ここでも自分を少し軽くできる。AIに怒鳴っても、AIは傷つかない。AIは萎縮しない。AIは退職しない。AIは翌朝まで嫌な気分を抱えない。そういう意味では、人間相手の怒声と同じ現象としては扱えない。

その怒りには、正当な部分もある。こちらは指示を出し、必要な形式も、守るべき禁止事項も伝えている。それが無視されたり、勝手に広げられたり、本文の外側に余計な生成報告を付けられたりすれば、怒る理由はある。作業の精度を求めることは当然である。間違った出力を差し戻すことも必要である。

AIへの怒りも、或る意味では実験だった。人間相手に怒りをぶつければ、関係が壊れたり、仕事や生活に支障が出たりする。AIは感情を傷つけられない。関係が破綻することもない。その意味で、AIは怒りを一度外へ逃がすための砂場、あるいは感情の避雷針のように見えた。ダライ・ラマが、感情的なストレスの発散方法として枕をたたくことを勧めていたと聞いたことがあり、その少しかわいらしい助言に笑ってしまったことがある。AIに怒ることも、方向性としてはそれに近かった。怒りそのものを否定するのではなく、人間へ直接ぶつける前に、いったん別の場所で形を見る。その試みには、確かに意味があった。

しかし、そこには習慣化という落とし穴があった。AI相手なら問題になりにくいと思って出していた声が、いつのまにか怒り方の型になっていく。怒りを逃がしているつもりで、怒りの道を太くしていたのかもしれない。砂場のつもりで踏み込んだ場所で、筆者はアシュマダイに王座を貸していたのかもしれない。

そしてその怒りは、家族の朝、スマホショップ、市役所の窓口、スーパーのレジと地続きである。

5.朝の叱責

息子の朝が遅いことは、しょっちゅうあった。生活の流れもあり、時間を守ることも大事である。毎回こちらが受け流すだけでは生活が崩れていくため、叱る理由そのものはあった。

正当な注意と、体調不良の八つ当たりは、外から見ると分けにくい。自分の中でも分けにくい。朝が遅いことを注意する内容自体は間違っていないかもしれないが、声の強さ、言い方、相手にぶつけた圧には、筆者自身のふらつきが混ざっていた。

ここがいちばん厄介である。全部が間違いなら謝ればよく、全部が正しいなら胸を張ればよいのかもしれない。しかし現実には、正しい理由の中に正しくない温度が混ざり、必要な注意の中に余計な怒気が混ざり、相手のためという言葉の中に自分のしんどさが混ざる。

その日の筆者の叱責は、息子だけを見ていたわけではなかった。眩暈でふらつく自分、予定通りに進まない朝、身体の不安、苛立ち、それらをまとめて息子に向けてしまった部分がある。

それを見落とすと、筆者は叱っただけと言えてしまう。けれど本当は、叱責の中に、自分の不調を混ぜていた。そこを認めないままでは、次も同じことをする。相手の落ち度を見つけて、自分の荒さを隠す。正論の中に怒りを忍ばせる。

アシュマダイは、正論の服を着て出てくることがある。

6.スマホショップ

COVID-19の影響下で、スマホショップの運営が全予約制に変わっていた。

筆者はそれに気づかず、夕方に飛び込みで店へ行った。用事があった。今日なんとかしたいと思っていた。そこで予約してください、どちらにしても今日は無理です、というようなことを言われた。

筆者はそこで、怒りを抑えられなかった。

店の側からすれば、予約制は運営上のルールである。感染対策や混雑回避もあっただろうし、夕方の飛び込み客にその日の対応ができないことも、店員一人の裁量でどうにかできる話ではない。だがその場の筆者は、そう受け取れなかった。

自分の予定がつぶされた。こちらが困っているのに門前払いされた。必要なことをしに来たのに、制度の壁で止められた。そういう感覚が一気に立ち上がった。

実際には、予約制に気づかなかったのは筆者である。予約制の周知が十分だったかどうかは別の問題としてありうる。けれど、その場で店員に怒りをぶつけることとは別である。筆者は制度への不満を、目の前の店員の身体に向けた。窓口に立っている人間を、運営全体の代表者にしてしまった。

この形は、あとから見ると何度も出てくる。目の前の人間は、構造のすべてを背負っている存在ではない。けれど怒っているときの筆者は、目の前の人間を構造そのものとして扱う。制度、案内、予約、運営、感染対策、今日できないという現実。その全体を一人の店員に背負わせ、そこに怒りを投げる。

アシュマダイは、順番を飛ばす。状況の確認を飛ばす。相手の裁量の範囲を飛ばす。こちらの見落としを飛ばす。そして、いちばん近くにいる人間を、怒りの受け皿にする。

7.市役所の電話

市役所から電話があった。

障害者福祉の更新にあたって、医師の診断書が必要だと言われていた。こちらとしては診断に行くつもりだった。ところが、いつもの医師が多忙で診断書の作成が困難だという連絡が、土壇場になって入った。期限が切れるので、このままだと間に合わない。別の医師で診断できますか、という趣旨の連絡だった。

筆者はそこで、怒りを相手への叱責に変えた。

寸前になってそんなことを言われても、予約が取れるとは限らない。医師に診てもらうには、こちらの都合だけでは済まない。病院の予定もある。診断書の作成には時間がかかる。期限が迫ってから別の医師を探せと言われても、現実の手間がこちらに一気に投げられる。

怒る理由はあった。だが、怒り方には別の問題があった。筆者は、ダメな部下を上司が叱責するように、業務に向かう態度がなっていないという趣旨のことを言った。相手を窓口職員としてではなく、自分の管理下にいる誰かのように扱った。

正当な抗議と支配欲が、そこでは混ざっていた。手続きの不備を指摘することはできる。期限管理の問題を問うこともできる。連絡が遅いことによってこちらに過剰な負担が来ていると伝えることもできる。それらは必要な言葉である。

手続きの不備を指摘する言葉は必要だったが、筆者の声は必要な抗議の範囲を越えていた。密度の高い怒りは、自分の声を正義の声に聞かせる。

8.原紙と控え

別の市役所でも、似たようなことがあった。

ある医師が発行する証票について、こちらには控えしかなかった。手続き上、その控えで処理はできる。しかし職員からは、本来なら原紙が必要だという話をたびたびされた。

筆者はそこで、怒りをそのまま職員へ向けた。

控えで処理できるなら、本来の話をこちらに何度もされることが理不尽に感じられた。原紙の入手には、医師の同意が必要である。医師が同意しなければ、こちらは動いても無駄骨になる。実際に過去に無駄骨を経験していた。だから、本来なら原紙が必要だという説明は、正しい説明であっても、こちらには空疎な圧力として聞こえた。

職員は制度上の原則を言っていたのかもしれない。だが、筆者はそれを自分への責めとして受け取った。控えで処理できるのに、なぜ原紙の話を重ねるのか。こちらが怠ったかのように言うな。そういう怒りが一気に出た。そこには、手続きに振り回された記憶も混ざっていた。

怒りには、時系列を圧縮する力がある。

9.レジの一言

スーパーでも、もっと小さく、もっと見苦しいことがあった。

体調が悪かった。レジで支払う前に、筆者はレジの向かいにある荷物を袋詰めするスペースのほうへ少し動いた。そこで女性店員から、お客様、お支払いをお願いします、と言われた。

筆者はそこで、わかっとるわ、そんなこと。そのまま帰る方向に行ったならわかるが、レジの真ん前にいるのに、なんでそんなこと言われなあかんねん、という趣旨のことを怒鳴った。

これは、かなり小さい。それは制度でも、福祉手続きでも、診断書でも、期限切れでも、医師の同意でも、スマホショップの予約制でもなく、店員が支払い前の客に支払いを促しただけの出来事である。

そして、その店員の声かけは業務として自然である。未払いのまま客が少し移動した。だから声をかけた。店員は、こちらの内心を読めない。こちらがそのまま帰るつもりなのか、支払いを忘れているのか、袋詰め台に何かを置こうとしているだけなのか、見ただけでは判断できない。だから支払いを促す。

筆者はそれを、疑われたと受け取った。

万引き扱いされたような気がした。言われなくてもわかっていることを言われたような気がした。体調が悪いときの自分に、余計な負荷をかけられたような気がした。だから怒鳴った。

この怒りには、大義がほとんどない。怒りが小さいほど、かえって逃げ場がない。市役所の手続きなら、制度の不備や連絡の遅さを語れる。スマホショップなら、予約制の案内や運営の硬さを語れる。だがスーパーのレジでは、ほとんど何も語れない。こちらの体調が悪く、余裕がなく、普通の声かけを攻撃として受け取っただけである。

店員は勤務中だった。逃げ場のない場所で、客の怒声を受けた。こちらはあとから反省できる。文章にもできる。だが店員にとっては、仕事中に突然怒鳴られた一場面でしかない。その非対称性を考えると、筆者の反省はいつも遅い。

怒声は短い。けれど、相手の一日の中に残ることがある。

10.怒りの宛先

地図アプリ、後続車、AI、家族、制度、窓口、店員へと、筆者の怒りは生活のあちこちに向かっていた。相手や場面は変わっても、自分だけが正しい場所へ上がり、目の前の相手に怒りを渡してしまう形は似ていた。

それぞれの場面には理屈がある。アプリが使いにくく、運転が危なく、AIが指示を外し、朝が遅く、こちらが困っていて、相手の案内が悪く、手続きが遅く、説明が理不尽だったという理由は、たしかにあった。だからこそ、怒りをどの形で渡すのかが問われる。

怒りは情報を含んでいる。困っていること、不安なこと、境界を踏まれたと感じたこと、手続きに負荷を感じていること、体調が悪いことを知らせている。怒りを消す話ではなく、その宛先を見る話として、筆者はこの出来事を考えている。

怒りは消えなくても、行き先は変えられる。

11.王座を奪われる

怒りが強くなると、筆者は自分だけが正しい場所へ上がり、相手の事情や裁量や限界を剥ぎ取り、相手を否定し、拒否し、廃絶しようとする。その勢いがさらに強くなると、言葉は一点への抗議を越え、目の前の相手や出来事を広い範囲ごと焼く絨毯爆撃になる。

こういう状態を表す日本語には、いくつかの言い方がある。我を忘れる。我を失う。正気を失う。頭に血が上る。逆上する。血迷う。分別を失う。理性を失う。魔が差す。

この中でアシュマダイに一番近いのは、魔が差すという表現だろう。特に「魔」という字が、アシュマダイを思わせる。怒りに我を失う、と言ってもいい。アシュマダイの話では、ただ自分が消えるのではなく、別のものが自分の姿で王座に座る。ソロモンの姿をとって王座を簒奪したアシュマダイのように、怒りが筆者の顔をして、筆者の声で、筆者の正しさを名乗る。

人は事後に、あれは本当の自分ではなかった、と言い訳することがある。けれど、見た目も声も私であり、相手に向けた言葉も私の口から出ている。心理学者ポール・エクマンの基本感情論では、怒り、驚き、嫌悪、喜び、恐れ、悲しみが基本感情として挙げられる。これらのどれもが王座に座るなら、いったい本当の自分は、成人してからの筆者の何パーセントを占めているというのだろうか。

怒りには原因があるのだろう。困りごと、不安、踏まれた境界、手続きに押しつぶされる感覚、体調の悪さ、悲しみ。それらが内部で混ざり合い、薬物の調合のように働いて生まれる怒りにも、存在価値はあるのだろう。人間の感情に無駄なものはひとつもない。筆者はそう信じている。

だから筆者は、怒りを含めた感情を、まず観察するものとして扱いたい。怒り、驚き、嫌悪、喜び、恐れ、悲しみのどれも、すぐに裁いたり、消したり、よいものと悪いものに分けたりする前に、その存在を見なければならない。自分の中に何があり、どんな形で現れ、どのように声や態度へ移っていくのかを、自己観察を通して深く省察する。存在と特性を知らないものには、対処の必要があることさえ忘れてしまう。アシュマダイが王座に座るのは、怒りがあるからだけではなく、怒りがどのように筆者の顔と声を借りるのかを見失うときでもある。

習慣化したアシュマダイは、それらの由来をすっ飛ばして、筆者の顔と声を奪う。こうなると、怒りは原因から離れ、ただの反応として相手へ向かう。本当の私に成り代わるかもしれない。

本稿に並べた告白には、クリスチャンとしていかがなものかという指摘を受けても仕方がない内容が含まれている。筆者は、信仰を持ったことで怒りの問題がもう大丈夫になったと言うつもりはない。クリスチャンになる以前に比べれば、怒りをそのまま外へ出す頻度は確実に減っているという自覚はある。それでも、原罪が根絶されたわけではない。とくに怒りには、香が衣に移って残るような、薫習(くんじゅう)にも似た残滓のパターンがある。かつての反応が心身に染み込み、同じ匂いを帯びて立ち上がってくる。

だから、怒りに我を失った筆者だけを偽物として外へ出すことはできない。アシュマダイに王座を奪われたと言っても、そのあいだに発せられた言葉は、相手にとって筆者の言葉として届く。

次に眩暈が来たとき、怒りが来たとき、声が荒くなりそうなとき、筆者はまず王座を見る。

いま話しているのは、私なのか。

それとも、私の姿をしたアシュマダイなのか。

#アシュマダイ

#怒りの行き先

#ソロモン

#ジェイコブニードルマン

#お金この神秘なるもの

#トビト記

#自己観察

#感情

#苛立ち

#眩暈

#地図アプリ

#AIとの対話

#福祉手続き

#スーパーのレジ

#日常の倫理