チャカとクワイと肯定で:第1話(8.9千文字)
チャカとクワイと肯定で:第1話
v1.5
1 はじめに
本記事/本稿はフィクションであり、実在の人物・団体・権利とは一切関係がありません。たとえ、記述の中に実在のものと同じ名前が出てくることがあっても、それらはすべて作者のインナースペース的投影、あるいは別の世界線の出来事、あるいはこの世界線であったとしても作者専属の守護霊の発言として表現されたものです。つまり、すべての文章には(と作者専属の守護霊が言っている)が省略されているものとします。したがって、断じて、現実の人物・団体・権利を侵害するものではなく、断じて、誹謗中傷や名誉毀損を意図するものでもなく、断じて、読者の心の平穏を乱すものでもなく、断じて、宇宙の調和を揺るがすものでもありません。よって、本コンテンツの無断複製・転載は固くお断りするとともに、そして当然に、作者は自由に内容を変更できるものとします。
2 始まりの校庭
ボクの名前は、桑居 啓(くわい けい)。
本名ではない。親友のチャカが名付けたペンネームだ。チャカもニックネームだ。チャカ・カーンのファンでも、拳銃(チャカ)好きでもない。ちっちゃなころからいつも多動で「チャカチャカ」うるさかったから、同級生から自然にそう呼ばれるようになった。
ある日、中学の校庭で、チャカがこういった。
「ほなペンネームは、桑居啓にしよ。『燃えよ!カンフー』の主人公が、クワイ・チャン・ケインやん。『くわいけい』は、桑田二郎の桑、居場所の居、神の啓示の啓や。ほら、エドガー・アラン・ポーは江戸川乱歩、ロード・ダンセイニは団精二みたいなやつ。きっと有名になったら、ちゃん付けされるから、『クワイちゃん、クワイちゃん』て呼ばれるでぇ。」
ボクは気に入ったが、ふと疑問を口にした。
「でも、それってパクリとちゃうん?」
江戸川乱歩や団精二の手法をそのままなぞるのが、創作としてどうなのかと思ったのだ。エドガー・アラン・ポーは探偵小説とSFと怪奇幻想文学を同時に発明した男で、江戸川乱歩はその名の音をそのまま日本語に横滑りさせた。ロード・ダンセイニはアイルランドの幻想文学の巨匠で、実名をエドワード・ジョン・モートン・ドラックス・プランケット第18代ダンセイニ男爵という、名前だけで一篇の詩になるような人物だった。「団精二」というのは「ダンセイニ」の音を漢字に当てたペンネームで、その正体は博物学者・作家として『帝都物語』を著し、のちに風水ブームの立役者の一人ともなった荒俣宏だった。当時のボクは、そんなことはつゆぞ知らなかった。
「パクリとかいうな。そんなんいうたら、この世の中で、パクリでないもんが、どれだけあるねん、ちゅう話や。」
チャカとボクは、性格は正反対だったが、思考回路はそっくりだった。だからその意見には同感だった。これは学術的には間テクスト性(インターテクスチュアリティ)と呼ばれていて、ジュリア・クリステヴァが命名してロラン・バルトが深化させた概念で、要するにすべてのテクストは他のテクストを参照し引用し変形することで成立するという話なのだが、チャカはそんなことを知らずに同じ結論に達していた。知らずに達した結論のほうが、たいてい正しい。
「まあ、いうてみたら、リスペクトや。もし、リスペクトならきれいごととか偽善が香りがするんなら、あいだをとってリスペクリでどうや?」
「それって『あいだ』なんや。」まあ、今風でいうとオマージュということになるんだろうけれど、当時のボクはアニメージュしか知らなかった。
「長いからもう『ペクリ』でいいわ。ぺくるって活用できるし、五段活用な。」
3 ペクリの系譜とカンフーの亡霊
クワイ・チャン・ケインとは、海外ドラマ「燃えよ!カンフー」の主人公だ。コーカサス系と中国系の混血として少林寺に入門し、高僧の域に達しながらも、盲目の師匠を殺された復讐のはずみで王宮の要人を手にかけてしまい、その罪を逃れてはるばる中国からアメリカに渡ってきた。
舞台設定は完全に西部劇なのに、超能力のごとき神秘的な力の持ち主である少林寺の僧が、あまり強そうに見えないスローモーなアクションで毎回巻き込まれるアメリカンな逆境をさらりとやりすごしていく、なんともエキセントリックな物語だ。各エピソードには少林寺での回想シーンが挿入され、少年ケインが師匠から智慧を授かる場面と流浪の現在が交互に語りかけてくる。禅の問答が西部の砂漠に溶け込むあの独特の浮遊感は、テレビ史においても稀有なものだった。深夜放送にもかかわらず家族に隠れてこっそり視聴するほど心酔していたボクの様子を、チャカはよく知っていた。
ちなみに、この番組とブルース・リーの関係はしばしば語られるが、創案者を彼本人と断定するのは難しい。先に生まれた子が後から名付けられるという、奇妙な因果の逆転がここにある。
後の浦沢直樹のコミック「20世紀少年」のオッチョは、クワイ・チャン・ケインを強く連想させる。ケインは子供のころから盲目の師匠に「コオロギ」と呼ばれていたのに対して、オッチョはおっさんになってから師匠につけられたあだ名が「アリンコ」。まあちょいダサいけれど、作者の気持ちは分かる気がする。だって重なる部分があるから。「20世紀少年」は、「ともだち」と名乗る謎の宗教的独裁者が世界を支配する未来と、1970年前後の日本の子供たちの日常が交互に語られる長大な漫画で、子供の無垢な想像力が歴史を動かすというロマンティシズムとホラーが奇妙に同居した傑作だ。「武術の達人・放浪者・師弟関係・昆虫の愛称」というモチーフが組み合わさるあの構造が、偶然の産物だとはとても思えない。
存外その後、「燃えよ!カンフー」のDVDを大人買いして見直してみたところ、なんと「アリンコ」に相当する呼び名は、兄弟子がケインを揶揄する際に使ったものだと判明した。浦沢さん、どういうこと?
それからもうひとつ。英語版の愛称はそもそもコオロギではなかった。GRASSHOPPERだ。つまりバッタだ。映像をよく確認したら、バッタである。邦訳スタッフが侘び寂びの精神でコオロギと訳したのか、虫の格を落としたのか、あるいは秋の夜長の情緒を優先したのか。真相は不明だが、そういう翻訳の裂け目に、文化というものは棲息している。
クワイ・チャン役のデビッド・キャラダインは、その後「サイレント・フルート」、「ランナウェイ/Thunder and Lightning (1977)」、「ウディ・ガスリー/わが心のふるさと」と地道に主演を重ねたが、作を追うごとに怪人の色合いを濃くしていった。「サイレント・フルート」はブルース・リー、ジェームズ・コバーン、スターリング・シリファントらによる構想をキャラダインが演じるという作品で、リーの霊がキャラダインに乗り移ったかのような逆説的な構造を持っている。「キル・ビル」に至っては、クワイ・チャンが堕落したような殺し屋という設定だ。DVDのファンを囲むディナーでキャラダインは「おれはクワイ・チャンとは違う」と強調したそうだが、その言葉は否定の形をした呪縛として機能した。そして最期はバンコクのホテルで遺体となって発見された。もしかして、このペンネームって縁起悪いの?(知らんけど)。
その頃ボクは、小説家志望で、当時珍しいSFファンで、大学ノートに小説を書いて、複数メンバーで回覧する「第十惑星」という会に所属していた。「本屋に行くとSFマガジンがいっつもSMマガジンの横に並んでて勘違いされてはずいわ」というのが鉄板ネタだった。ちなみに当時「第十惑星」は、共産主義や学生運動、過激な思想集団の萌芽ではないかと中学校の職員室で問題になり、教員が監視していたらしい。んな大袈裟な。
ところで、なぜこの場面が中学の校庭かというと、このお話のタイトルが「チャカとクワイと肯定で」であり、ポール・サイモンの「僕とフリオと校庭で」をペクったからだ。1972年のソロ・デビュー・アルバムに収録されたこの曲は、軽快なラテン・リズムに乗せて「僕とフリオ」が「何か」をやらかしたことだけが語られ、何をやったのかは一切明かされない。サイモン自身は「何をやったのか自分でもわからない」と答えたそうで、その解釈の余地こそが歌の生命だという方法論が、校庭という場所を永遠に謎めかせている。この文章の肯定は、そういう意味も含めてという意味での肯定だ。というのは嘘で、単なる校庭だと面白くないので、「父と子と聖霊」や「テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ」、「肯定、否定、中和」といった三位一体として、この原稿が機能してくれることを祈念祈願して、その第一原理たる肯定という名をタイトルに冠したのだ。アーメン。
4 半自伝的小説
「ほんで桑居先生に、たってのお願いがあるねん。」
「ええ?ちょっとまって。今何歳?」
「ちょうど50歳くらいの設定になった。いまかわった。そんなんどうでもええねん。おれの伝記を書いてほしいねん。半自伝的小説ってやつな。」
「いや、ボクがライターの時点で、自伝とはいわへんし。それより50歳に、そんな偉い人になってましたっけ。」
「偉い人にはなってない。なりたくもない。子供のために書きたいねん。」
「遺言とか?」
「違う違う。勝手に晩年みたいにいうなや。いつの頃からか、うちの娘に昔話をすると『もうその話100回聞いたから』って、いわれるようになってん。まあ、もうその話は聞きたくない、っていうサインやって言うのは分かってんねん。でも人ってなかなか変わられへんやろ。せやから一回だけ小説にしておいて、その話がしたくなったら、はい、ここ見てねって言えるようになったら、多少事態が改善するかなっと思ってん。」
「おそらく娘さんはもう二度とその小説は見たくないと思うけどね。」
「例えばの話やんか。」
チャカは小学生のころ勉強が苦手だった。まあボクもだけど。いつもウルトラマン、スペクトルマン、仮面ライダー的な特撮テレビに夢中で、テレビマガジン、テレビランドの蒐集家だった。
「いうたら算数は要領がわかればできるけど、国語も社会も漢字の羅列や。模様てゆか、図形てゆか、しかも吐きそうなくらい退屈やん。おまけに勉強できる奴が偉そうにする。そこいくと、ウルトラマンとか仮面ライダーって、誰も知らんやん。だから誰も偉そうにできなくて平等やん。そういうジャンルの方が気が楽やっちゅう話やんか。」
チャカは小説にはあまり興味がなく、バンドをやっていた。ジャンルは「プログレッシブ・ロック」、略して「プログレ」だった。英語圏では「prog rock」、日本語では今も「プログレ」のほうが通りがいい。チャカのお姉さんが、洋楽好きで、幼いころから部屋の中にはブラス・ロックが鳴り響いていたらしい。ブラス・ロックとはホーンセクションを組み込んだロックのスタイルで、1968年から1972年にかけてシカゴとニューヨークを中心に隆盛した。シカゴはロバート・ラムのキーボードとジェームズ・パンコウのトロンボーンが一体となった音でロックとジャズを同時に体現し、デビュー二枚組アルバム一枚でロック・バンドが「組曲」を演奏できることを証明してしまったグループだ。ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズはデビッド・クレイトン=トーマスがヴォーカルに加わって黄金期を迎え、「スピニング・ホイール」はジャズ・スタンダードのアレンジ感覚でロックを再構築した。一発屋の烙印を押されながらもビル・チェイスの鋭角的なトランペットが強烈だったチェイスというバンドは、その後飛行機事故によって幕を閉じるという悲劇的な結末を辿っている。そんなブラス・ロックを含めて「ニュー・ロック」というキャッチフレーズが書いてあったり、なぜか自由の女神のイラストがデザインされたポスターが部屋に貼ってあって、それがチャカの印象に残っているらしい。
「典型的な60年代の音楽やったわ。自由の女神は、まあ、アメリカン・ロックの象徴ってゆとこかな?ウッドストックのサンタナとか、フィルモア・イーストのオールマン・ブラザーズ・バンドとか、なんか、お香と干し草の匂いが漂ってくるような、泥臭い感じのレコードが多かったわ。あんまし、ブリティッシュ系やなかったな、しいていうなら、グラム・ロックがあったかな。でも、T-レックスのメタル・グルーていうシングル盤聞いたら、最初から最期まで『めるぐるぅ、いぃじちゅぅ』の繰り返しで、正直なところ、なんじゃこりゃぁ?やったわ。」
T・レックスのマーク・ボランが1972年にリリースした「Metal Guru」は、反復の強いフレーズを核にして成立していて、歌詞という概念を揺さぶる曲だ。ボランはインタビューで「電気の神への賛歌」と説明したが、その説明もまた意味の外側にある。グラム・ロックとは意味の解体と視覚的誇張によってロックをスタイルに変換したムーブメントで、デビッド・ボウイのジギー・スターダストもブライアン・フェリーのロキシー・ミュージックも、内容より表面を優先する美学において一致していた。チャカの耳がそこで「なんじゃこりゃぁ」と止まったのは、正直な反応だったと思う。
「で、なんでプログレなん?」
「そういう泥臭いバンドの中から、ムーグ・シンセサイザー使ってた、エドガー・ウインター・グループとか、グラムの中でも、デビッド・ボウイ、ロキシー・ミュージックなんかの曲には、やっぱり、サックスの音とかは鳴ってんねんけど、そういうシンセとかを使って、ややあか抜けたサウンドに仕上がってるバンドがちょこちょこでてきて、あとちょっと違うけどアース・ウィンド・アンド・ファイアーも、今風のシンセサウンドにプラスして、ホーン・セクションも充実してるよな。きっと、そっち系の音色が幼少の記憶に残ってたからやと思うわ。」
「ほんで?」
「まあ、最初はただのリスナーやってん。テレビの歌謡番組も観てたけど、いつも、天地真理、小柳ルミ子、南沙織の三人娘やし、ロックを聞けるんは、FMラジオの音楽番組くらいで、太っ腹にもアルバム全曲かけてしまうという、田中正美のビート・オン・プラザていう番組と、もう名前忘れたけど、川村ひさし名義で活動していた、愛称“デデ”こと、のちの川村龍一がDJやってた。カム・オン・ポップスやったっけ。なんかTV番組のポップス・イン・ピクチャーとか、小林克也とかとごっちゃになってるわ。まあ、その手の番組とかを、もっぱらラジオカセットレコーダ、つまりラジカセで録音する毎日やってん。当時は、それをエアー・チェックっていうてたわ。」
「レコード買わんかったん?」
「どんな曲が入ってるんか、聞いてみなわからんのに、ジャケットだけ見て、レコードなんか、こわくてよう買われへんし。まあ、お金もそんなになかったけど。」
「でも、レコード紹介してる雑誌とか調べたりせえへんの?」
「おれ、小学校のときは漢字あんまり読まれへんかってん。雑誌とか、そういうの嫌いやったから、音が好きになったんやと思うわ。」
「あ、そっか。ごめん。」
実はボクも中学まで漢字が読めなかったから、チャカの気持ちはよく分かった。
「いや、そんなんざらや。ほんで、エアー・チェックばっかりしとったら、いつしか、カセット・テープが増えていきよんねん。せやから、ちょっと聞いては、好みと違う奴はすぐ消して、別の曲録音して、その繰り返しでだんだん自分の趣味が決まっていったていうか。たとえば、マンガとか読みながら、聞いたてたら、BGMっぽい曲ばっかり好きになって、このアルバムは『サイボーグ009』で002が落下するシーンとよくマッチするなぁとか、この居心地の悪い未解決感は、まるで『キカイダー』みたいなぁとか、この世界遺産のような曲調は『ギルガメッシュ』とぴったりや、とかな。」
「マンガは読むんかい!しかも石森ばっかりやし。」
石ノ森章太郎(1938-1998)は「サイボーグ009」、「仮面ライダー」、「キカイダー」と、途切れることなく傑作を量産しながら、どの作品にも孤独と機械と人間性の境界をめぐる深い問いを刻み込んでいた作家だ。「ギルガメッシュ」は1976年のSF漫画で、古代メソポタミアの叙事詩から着想を得た宇宙的規模の悲劇を描いている。それをBGMと同期させるチャカの感性は、彼のプログレ的な受容の仕方と本質的につながっている気がした。
「うん、マンガやったら読めるし、たしかに、プログレとSFは、共通点があるかもしれんわ。」
「プログレって、どんなバンドがあるん?」
「最初に好きになったのは『キャメル』ていうバンド。アルバム・ジャケットに、洋モクのキャメルのロゴとラクダの絵を使ってる。『ムーンマッドネス』では、砂漠の蜃気楼に浮かぶ宮殿とか、アラビアンナイトの物語みたいなムードのファンタジックな曲のオンパレード。あと、ポール・ギャリコの同名の小説をモチーフにした組曲『スノー・グース』も架空のサウンドトラック仕立てで、しかも交響楽団と共演で、よう出来てたわ。次に驚いたんが、ピンクフロイドの『原子心母』。ほんで、そうこうしてるうちに自分でアルバムつくったとしたら、どんなタイトルとジャケットになるか空想し始めた。そっちの方が楽しくなってきた。ほんま、楽器も触ったことないのにわろけるで。」
キャメルはアンドリュー・ラティマーを中心に1971年に結成されたイギリスのプログレッシブ・ロック・バンドで、「ムーンマッドネス」(1976)はアラビアン・ナイト的な幻想と精緻なアンサンブルが溶け合った代表作だ。「スノー・グース」(1975)はポール・ギャリコの同名の中編小説を原作とした組曲で、ロンドン交響楽団との共演によりロックとクラシックの境界を溶かした。ギャリコは「ハリス夫人、パリへ行く」や「雪のひとひら」でも知られる作家で、その詩的な散文スタイルとキャメルの叙情性はよく似ている。ピンク・フロイドの「原子心母」(1970)はタイトル曲だけで23分以上を占める大作で、ロン・ギーシンが編曲したオーケストラとの協演が圧巻だった。のちにロジャー・ウォーターズは「原子心母は失敗作だ」と切り捨てたが、そういう種類の失敗はたいていの成功より価値がある。
チャカが「自分でアルバムを作ったとしたら」という空想に転じたとき、彼はすでにリスナーではなくなっていた。音楽を聴くことと音楽を作ることの境界線は、アルバム・ジャケットの空想から崩れ始める。それはつまり、物語を読むことと物語を書くことの境界線が、ノートの余白の落書きから崩れ始めるのと、まったく同じことだった。
「ところで、この話はどういう位置づけになるの。」
ボクは、ちょっと冷静になって聞いた。
「せやな、ここまでペダンティックに、サブカル談義で進んでみたけど、ここから、ちょっと勝手が違うことになるねん。
最初は、この調子で、自分の趣味について、二人の会話形式で、紹介しようかと思っててん。だから、noteの記事でも、最初のほうの記事になるはずやってん。」
「あーね。たしかに、noteの記事が先行したから、この記事の内容も、他のnote記事と若干被ってるよね。」
「せやねん、燃えよ!カンフーのくだりは、がっつり別の記事に書いてしもたし、書き尽くしたといってもいいくらいやん。」
https://note.com/kuwaikei/n/n148b1e96f64b
「ははは、縁起わるいことまでがっつり書いてるな。」
「あと、note書き始めたときの、書きたい記事トップ3は、
『宇宙とか太陽とかが扇風機みたいなもんやな』っていう話と、
https://note.com/kuwaikei/n/n4fe4fe87264d
『敵はラプラス』ていう題名とワンイシューだけ構想してた話と、
https://note.com/kuwaikei/n/nc682b40caf4e
https://note.com/kuwaikei/n/ne25fe170e0ac
『組曲:劇場』ていう題名しかなかった話くらいやってん。
https://note.com/kuwaikei/n/na6afa679edba
すでに全部AIが完成してくれてるねん。」
「劇場は先週終わったね。未完やけど。」
「まあ、成仏したら、それでいいねん。
あと、それ以外に、ずぅっと『自分辞書』っていうのを創ろう!と思い立っては、いざ創り始めると、何の辞書やったっけ?ていう無限ループにもよくなっててんけど、note記事書き始めてから、記事の中でよく使うキーワードの整理がしたい、というのがやりたいことの一つだったことを思い出したというか、ループの出口にようやくたどり着いて、それもほぼやってしもた感があるねん。
まあ、そういう意味では、note記事全般で、当初の目的の、『その話もう100回聞いたわ』対策はほぼ完成してるといっても、華厳の滝やねん。」
「なるほど。たしかに、チャカはSF読まへんっていう設定くずれてるし」
「まあ、それは、自分の影響でと途中から好きになったとかいう設定でええやん。それはそれとして、そういういきさつやから、この物語は、第二話以降からは、他の記事の紹介とか、メイキングとか、ウラ話的な位置づけにしようと思うねん。
まあ、メタ・フィクション風にいうとやな、千夜一夜物語でいうところのシェヘラザードとシャハリヤール王の位置づけやん。とはいえ、この記事自体としては、ここまでで十分成仏してんねんけどね。」
いったい、どっちがシェヘラザードで、どっちがシャハリヤール王か、ちょっと気になったが、スルーしよっと。
「じゃあ、あとは流れで、ということで。」
「うん、第二話に続くかどうかは、貞子ではない。」
(つづく)
のか?
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