見出し画像

敵はラプラス(4千文字)

敵はラプラス

v1.1

1.一本の線として描かれた世界

「もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と、それを動かす力を把握し、かつその膨大なデータを解析できるだけの知性が存在するならば、その知性にとっては、不確実なものは何一つなくなり、その目には未来も過去と同様に映るだろう」

18世紀の数学者、ピエール=シモン・ラプラスが残したこの思考実験を、20世紀初頭のロシア帝国では、人々は奇妙な呼び方で語った。フランケンシュタイン博士の怪物がいつしか博士の名で呼ばれたように、その決定論的世界観そのものを「ラプラス」と――運命を支配する冷たい知性の名として。

皇帝ニコライ2世の神聖な統治も、貴族たちの舞踏会も、遠くから忍び寄る革命の足音も、全てが変えられない運命の鎖で繋がれているように感じられた。自由意志など、寒い冬の夜にウォッカの蒸気が作る束の間の幻影に過ぎない。選択とは、すでに敷設された氷の線路を滑るように進むだけの追体験。帝国の栄華から崩壊の灰まで、森羅万象は一本の因果律の糸で織り上げられた、血と雪に染まったタペストリーだった。

ラプラスの宇宙では、時間とはただ一本の絶対的な直線――凍てついたネヴァ川の流れのように、戻ることなく前進するだけの容赦ない軌道だった。

西暦1907年。怪僧グリゴリー・ラスプーチンが祈りで皇太子アレクセイの出血を止めたという奇跡が、帝都ペテルブルクの宮廷を震撼させた年。僕の妻セツは、統合失調症の最初の兆候を見せ始めた。幻の影が彼女の瞳にちらつき、夜毎のささやきが彼女の心を蝕んでいった。まるで、ラプラスが引いたその一本の直線から、この凍てつく帝国の狂気から、君の繊細な魂だけが無情に振り落とされようとするかのように。

セツは東洋の血を引く美しい女性で、僕の研究室で出会った。彼女の笑顔は、ペテルブルクの灰色の空を一瞬だけ晴らす光だった。

僕の名はヒジュン・コウマ。東洋、日本から来た一介の学者として、この決定論の世界を、科学の論理で肯定し、受け入れていた男だ。君の病状を、精神科の論文や東洋の古い叡智で解明しようと試みた。だが、病は容赦なく悪化の一途をたどった。

西暦1916年、第一次世界大戦の泥濁とした戦場から帝国に吹き寄せる絶望の風が、ペテルブルクの街路を覆う中、彼女は自らの手でその生命線を断ち切った。僕の腕の中で、君の息が途切れ、彼女の瞳から光が消える瞬間――雪の粒子が静かに舞う部屋で、僕は世界の終わりを感じた。

その瞬間、僕の物語も、そこで終わってしまうはずだった。

2.ラプラスへの反逆と『劇場』

だが、僕はラプラスへの反逆を選んだ。

君の死後、僕は帝国の闇に落ちた。絶望の中で手にした古い書物が、僕を帝都の霧深い裏路地へと導いた。そこに潜む秘密結社「劇場」――時間そのものを舞台と見なし、意識を役者として操る者たち。彼らは精神だけを過去の肉体に移す、時間遡行の術を持っていた。

なぜ東洋から来た僕が、その儀式に選ばれたのか。彼らは言った。「あなたの魂には、線形の時間に囚われない何かがある」と。僕にはその意味が分からなかった。ただ、君を救えるなら、悪魔とでも契約する覚悟だった。

僕は精神だけを因果の凍てつくネヴァ川を遡る旅人となった。たった一行の結末――君の死――を書き換えるために、時間の結晶構造を慎重に掘り進む孤独な囚人となった。遡行の感覚は、毎回不気味なほど鮮明で、過去の肉体の記憶が精神を包み込む。だが、それでも僕は前進した―いや、過去へ遡った。

3.書き換えられた脚本

最初の遡行。君の死の前夜、1916年の冬。ペテルブルクの小さなアパート。外では雪が窓ガラスを叩き、暖炉の火が弱く揺れる部屋で、セツはベッドに横たわり、幻のささやきに耳を傾けていた。

僕は過去の自分として、彼女の傍らに座り、優しく手を握った。「セツ、明日はきっと良くなる」と囁いた。

だが、終幕を予感した君の瞳には、僕の言葉が虚しく響くだけだった。彼女の視線は遠く、僕の存在など、霧のように溶けていく。僕の励ましが、かえって彼女に「もう手遅れなのだ」という諦念を与えてしまったことに、後から気づいた。

結果は変わらなかった。彼女はやはり、その夜に死んだ。

次の遡行。重症化する直前、病が本格的に彼女を蝕み始める数ヶ月前に遡った。

僕は過去の自分として、君に新しい薬を勧めた。西欧から密輸した精神安定剤を、密かに混ぜた紅茶を差し出した。

だが、君は薬はいらないと拒んだ。彼女の穏やかな拒絶が、かえって僕の焦りを増幅させた。僕は過去の自分では決してしなかった強い口調で説得を試み、彼女との信頼を損ねた。

病の進行は、かえって早まった。

さらに遡った。発病の兆候が現れる前、君がまだ笑顔を失わない頃。僕たちはペテルブルクの公園を散歩する日々を過ごしていた。

僕は過去の自分として、彼女の心の傷を癒すために、東洋の催眠術を試みた。静かな部屋で、キャンドルの灯りを揺らし、穏やかな言葉で彼女の記憶を撫でる。「深く息を吸って、過去の影を流して」

だが、僕の技法は未熟だった。催眠の深度を誤り、君の無意識に踏み込みすぎた。彼女の心の奥底に眠る記憶――触れてはならない痛みを、不用意に掘り起こしてしまった。君は催眠から目覚めた後、数日間、悪夢に苛まれ続けた。

僕の介入が、かえって彼女の心を傷つけた。病の種を、僕自身が蒔いてしまったのだ。

僕は学んだ。過去の自分として振る舞う限り、必ずどこかで綻びが生じる。ならば、僕という役者そのものを最初から書き換えるしかない。

僕と出会う前の君に接触した。1905年のペテルブルク、君がまだ若い頃。彼女の幼い頃の孤独を聞き出し、優しい言葉で心の棘を抜いていく。

だが、僕のタイミングは常にずれた。慰めるべき瞬間に沈黙し、聞くべき時に語りすぎた。未来を知る者の焦りが、自然な出会いの流れを歪めた。君は僕を不信感で遠ざけ、やがて僕の存在そのものを拒絶した。

ならば、もっと遡る。僕自身の始まりに。

最も大胆な遡行を試みた――僕の人生の始まり、思春期の自分に精神を移し、過去の自分を完全に上書きした。セツと出会う前の若いコウマの肉体で、完璧な恋人を演じきった。

思春期のあらゆる棘を事前に抜き、心の傷を未然に癒し、君が求める理想の男性像を、丁寧に構築していく。僕たちはペテルブルクの雪景色を共に歩き、暖かな部屋で本を読み、革命の影など知らぬまま、穏やかな日々を重ねた。

君の病は、僕の絶え間ない配慮によって、発症することなく消えた。彼女は幸福のうちに、僕より先に、安らかな眠りについた。老いた僕は、彼女の墓前に花を手向け、静かに微笑んだ。

あの瞬間、僕はついに、ラプラスの脚本を書き換えることに成功したのだ。勝利の喜びが、胸を熱く満たした。

そして僕もまた、長い人生の終わりに、暖かな寝床で安らかに目を閉じた。

4.時間平面という絶望

だが、その安らぎは、一瞬で終わった。

目を開けると、僕は赤こん坊だった。

産声を上げる自分の口から、意味を持たない叫びが溢れる。だが、僕の精神は明瞭だった。老人として死んだはずの記憶が、鮮明に残っている。

そして、時間遡行の力によって拡張された僕の意識は、さらに恐るべき光景を「見て」しまった。

周囲を見渡すと、全人類が、同じように死から誕生への永遠のループを繰り返していた。老いて死ぬたび、人は赤ん坊に戻り、再び生を歩む。そして、その生の中で出会う隣人たちとの接点――その選択、その邂逅のたびに、世界線は分岐していく。

僕の視界は、時間の全体像を捉えた。

世界は一本の直線ではなかった。それは、面だった。

人類の始まり――アダムとイブという一点から、無数の世界線が放射状に拡散していく。無限の可能性が、無限の選択が、巨大な扇のように広がり、一枚の途方もない画布を形成していた。

ラプラスの直線とは、その無限の豊かさを無理やり一次元に投影した、貧相な影絵にすぎなかった。

そして僕は、気づいてしまった。

僕が時間を遡り、君を救うたびに、世界線は分裂していた。僕が救えなかった君の死が、黒い染みのように滲み出し、無限に広がっていく。

僕が創造したこの幸福な一本の線は、僕が捨て去った無数の悲劇という名の闇夜に浮かぶ、たった一つの、残酷なまでに美しい月に過ぎなかった。

君の笑顔が輝くこの世界線の裏側で、無数の彼女が血を吐き、絶叫し、孤独に消えていく姿が、次々と精神に叩きつけられた。

僕が一つの世界線で君を救うたび、十の世界線で君は死んだ。百の世界線で君は死んだ。千の、万の、億の世界線で。

僕の勝利は、幻想だった。

僕の愛は、無数の死を量産する装置に過ぎなかった。

5.神への扉

だが、それだけではなかった。

さらに恐ろしい真実が、僕の精神を蝕んだ。

僕は今、赤ん坊として、再び人生を歩み始めている。そして、僕は時間遡行の力を持っている。ということは。

僕が生きるだけで、世界線は分岐する。

僕が誰かと出会うたび、選択をするたび、息を吸うたび、世界は枝分かれしていく。僕の存在そのものが、無限の可能性を生み出す。僕の活動範囲全てに対して、無限に影響を与え、無限に世界線を増やし続ける。

君のことなど、もうどうでもよくなった。

問題は、君ではない。この宇宙の構造そのものだ。

この残酷な面を描いた神(ラプラス)を。無限の悲劇を許容するこの不条理な世界を。

許さない。

僕はもう、一人の人間を救おうとは思わない。

こうなったら、増やせるだけ世界線を増やしてやる。僕の意志で、僕の選択で、僕の絶望という色で、この面(せかい)の全てを書き換えてやる。

「劇場」の奥義は、単なる時間遡行ではなかった。それは、世界線そのものを舞台として操る力――全ての可能性を同時に支配する、神の領域への扉だった。

僕は今、その扉の前に立っている。

赤ん坊の姿で、老人の記憶を持ち、神の視界を得た存在として。

開けば、僕は神になる。全ての世界線が、等しく僕のものになる。

あるいは、全ての世界線が、等しく僕の絶望に染まる。

どちらでもいい。

ラプラスよ、お前の直線を、僕は面ごと砕いてやる。

無限の分岐を、無限の選択を、無限の可能性を。

全て、僕の手で塗り潰してやる。

続く


▼ラプラスの悪魔についてはこちら



#SF小説が好き #創作小説

この記事が参加している募集