同日公開の映画を2本をハシゴしたら、「退屈の正体」が見えてきた
映画『マスターズ・オブ・ユニバース』と『モータルコンバット/ネクストラウンド』の感想・考察。同じ日に公開された二本の大作アクションを、一日でハシゴしてしまった一観客の記録である。豪華な映像と過剰な刺激。その果てで私が出会ったのは、思いもよらぬ「退屈の正体」であった。観終えたあと、映画そのものについて考え込みたくなる。そんな体験を求めるあなたへ。
事件は二〇二六年六月五日、金曜日に起こった
この日、映画『マスターズ・オブ・ユニバース』と『モータルコンバット/ネクストラウンド』という二本の映画が、示し合わせたように同日公開されたのである。どちらもメインビジュアル一見するだけで、香ばしいB級のにおいがプンプンと漂っていた。
普通の人間なら、どちらか一本を選ぶ。あるいは賢明にも、どちらも選ばない。しかし私は思ってしまったのだ。「毒を食らわば皿までじゃ」と。かくして私は勇んで劇場へ向かい、一日に二度、暗闇の中へ身を投じた。
結果から言おう。私は二度沈んだ。
一本目で沈み、二本目でさらに深く沈んだ。しかも妙なことに、二本の沈み方はまるで違ったのである。片方は豪華な映像に囲まれてゆるやかに沈み、もう片方は過剰な刺激を浴びながら急速に沈んだ。帰り道、私は怒っても泣いてもいなかった。ただ一つの問いだけが、頭の中をぐるぐると回っていた。
——退屈な映画とは、いったい何なのか。
嗚呼、せっかくの金曜日に、私は何という宿題を持ち帰ってしまったのか。本記事は、その宿題に対する一観客の答案である。
※『マスターズ・オブ・ユニバース』は、複雑な物語を求めず、明るい冒険活劇を家族で安心して楽しみたい人にオススメ。
『モータルコンバット/ネクストラウンド』は、物語よりも格闘ゲームの世界の再現を、過激なアトラクションとして浴びたい人にオススメです。
▼ここからはネタバレを含みます。未見の方はご注意を▼
是非、映画はあらすじも予告編も観ずに、 作品の情報を知らないまま、映画館で鑑賞してほしい。
■作品データ
タイトル:マスターズ・オブ・ユニバース
原題:Masters of the Universe
監督:トラヴィス・ナイト
出演:ニコラス・ガリツィン、カミラ・メンデス、ジャレッド・レト、イドリス・エルバ ほか
上映時間:141分
制作国:アメリカ
日本公開:2026年6月5日
配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント
■作品データ
タイトル:モータルコンバット/ネクストラウンド
原題:Mortal Kombat II
監督:サイモン・マッコイド
出演:カール・アーバン、真田広之、浅野忠信、ルイス・タン ほか
上映時間:116分(R15+)
制作国:アメリカ
日本公開:2026年6月5日
配給:東和ピクチャーズ、東宝
毒を食らわば皿まで
まず、二本の骨格を簡潔に記しておく。
『マスターズ・オブ・ユニバース』は、惑星エターニアの王子アダムの物語だ。彼は戦火を逃れ、、、 かくかくしかじか。。。
『モータルコンバット/ネクストラウンド』は、世界的人気格闘ゲームを原作とするシリーズの続編だ。人間界と魔界が世界の命運を賭けて戦う大会「モータルコンバット」。人間界はすでに九敗を喫し、、、 かくかくしかじか。。。
簡潔にまとめると、王道の成長譚と、終末を賭けた決戦。素材だけ見れば、退屈する要素はどこにもない。それなのに私は二度沈んだ。なぜか。一本ずつ検証していこう。
40年越しの雪辱戦は、なぜ退屈だったのか
『マスターズ・オブ・ユニバース』には、語るべき前史がある。
原作は、アメリカの玩具メーカーのマテル社が1981に生んだアクションフィギュアだ。80年代にはアニメも大ヒットし、1987年にはドルフ・ラングレン主演で実写映画化もされた。ところがこの87年版、製作会社の資金難で予算を削られ、舞台の大半が現代アメリカの郊外になるという有様で、興行的にも失敗。続編の企画も立ち消えた。
以来、約40年。映画『バービー』の世界的大ヒットで映画事業に弾みをつけたマテル社が、満を持して送り込んだ雪辱戦が本作なのである。監督は『バンブルビー』で世界中の映画ファンの心を掴んだトラヴィス・ナイト。玩具原作の映画に血を通わせた実績のある男だ。私が勇んで劇場へ向かった理由の半分は、正直この監督への期待であった。
そして実際、画面には試行錯誤の跡が見える。
80年代の玩具が持っていたケレン味や世界観を残しつつ、価値観の違いやコンプライアンスに敏感な現代と、どう折り合いを付けるか。筋肉と剣の世界を、今の観客にどう差し出すか。その苦心は伝わってくる。本作が表向き掲げる教訓も明確だ。すなわち、「アダムの善良な性質こそが、彼の真の強さの源である」。
ところが、である。
観ながら私は、どうにも落ち着かなかった。映画は、アダムが世界を救ったあとでさえ、彼の善良さという側面を軽視し続けているように見えてたまらないのだ。「善良さこそ力」と伝えながら、画面が称えているのは結局、筋肉と大味な演技、CGの物量なのである。それが狙いだ、という読み方もできるのかもしれない。だが少なくとも私の目には、テーマと演出が別々の方向を向いた映画に見えた。
そして、そのCGである。
本作の映像は、間違いなく豪華だ。豪華なのだが、豪華になればなるほど、私の心は冷えていった。CGの物量で画面を埋め尽くす作りは、近年のMCU作品でさんざん見てきたものだ。そしてMCUと同じく、どうにもこうにも面白く思えない。質感を欠いた豪華さは、観客を物語の当事者にする代わりに、腕を組んだ見物人の席へと追いやってしまうのである。
剣と魔法のファンタジーとしても、展開はありきたりで、予測可能だ。子どもも安心して楽しめる、退屈な成長譚。それが私の偽らざる結論である。
IMAXで画面は広がり、私の心は狭まった
さて二本目、『モータルコンバット/ネクストラウンド』である。
IMAXシアターで観た。これが運の尽きであった。
冒頭、正直に言えば「カッコいい」と思ったのだ。R15+ 指定に恥じぬゴア描写が、景気よく炸裂する。よし、こちらはこちらで振り切れている。そう期待した私の感情は、しかしものの15分で麻痺していった。
理由は単純である。ずっと「またこれか」なのだ。
どこかで観たことのあるようなゴア描写が、手を替え品を替え、しかし本質的には同じ調子で延々と続く。刺激は強いのに、新しさがない。過剰なのに、驚きがない。人間の感情とは不思議なもので、どれほど強い刺激も、反復されればただの背景音になってしまうのである。
追い打ちをかけたのが、IMAXの使い方だ。本編の途中、画面のサイズが超中途半端に変わる。しかも、何のために使い分けているのか、私にはさっぱり理解できなかった。せっかくの大画面は、没入を深める装置ではなく、「いま画角が変わったな」と我に返らせる装置として機能していた。
物語の側も、私を助けてはくれなかった。登場人物たちの背景が次々と薄っぺらく語られるのだが、その設定も世界観も無茶苦茶で、コメディとして笑わせたいのか、悲劇として泣かせたいのか、トーンがまるで定まらない。世界の終末という重大なテーマを扱っているにもかかわらず、緊迫感は驚くほど欠けている。
けばけばしい映像、粗雑な編集、詰め込みすぎたメインキャラクター。戦闘は予測可能で、強そうな顔をした人物が一発で倒される。嗚呼、これぞB級。私には届かない作品であった。
二種類の退屈、ひとつの正体
ここで宿題に戻ろう。退屈な映画とは何か。
興味深いのは、二本の退屈の手触りが、まるで違ったことである。『マスターズ・オブ・ザ・ユニバース』は、豪華で、安全で、予測可能であるがゆえの退屈。いわば「物量の退屈」だ。『モータルコンバット/ネクストラウンド』は、刺激が過剰で、反復され、感覚が麻痺するがゆえの退屈。いわば「過剰の退屈」だ。
足りなくても退屈、やり過ぎても退屈。ならば退屈の正体は、物量や刺激の量とは別の場所にあるはずである。
私の答案はこうだ。退屈の正体とは、感情移入の不在である。
『マスターズ』で、私はアダムを応援できなかった。映画全体が彼の善良さを軽視しているように見えたからだ。『モータルコンバット』で、私は戦士たちの生死に手に汗を握れなかった。トーンの定まらぬ人物描写が、彼らを血の通った人間ではなく、一発で退場する駒に以上の見せ方をしていなかったからだ(多分、元のゲームがそういう作りなんだろうと思われる)。
感情移入さえあれば、チープな画面でも観客は身を乗り出す。あの 87年版『マスターズ』にすら、いまだに愛するファンがいるのが何よりの証拠だ。逆に感情移入がなければ、どれだけCGを積み上げ、どれだけ血しぶきを飛ばしても、観客は腕を組んだ見物人のままである。
CGも、ゴアも、IMAXも、悪ではない。それらは感情移入を増幅する装置にはなれる。だが、感情移入を生み出す装置にはなれないのである。
それでも、この二本が刺さる人はいる
さて、ここまで散々に書いてきたが、公平を期して擁護も記しておきたい。
『マスターズ・オブ・ユニバース』は、裏を返せば「安心して観られる映画」である。適度な悲惨さと、明るい冒険活劇として手堅くまとまっている。子どもと一緒に観る夏の一本としては、時間つぶしとして成立する気がする。80年代に玩具やアニメに触れた世代なら、画面の端々に懐かしさを拾う楽しみもあるだろう。ドルフ・ラングレンの訳がわからない助言も。
『モータルコンバット/ネクストラウンド』は、原作ゲームのファンにとっては御馳走であるはずだ。私が「またこれか」と感じたゴア描写も、ゲームの必殺技の再現として観れば、一発ごとに歓声ものなのかもしれない。物語に感情移入を求めず、アトラクションとして刺激を浴びる。そういう鑑賞態度となら、この映画は十分に成立する(と思う)。
そうそう、IMAXシアターでの鑑賞だったせいか、すべての音が大きく、無駄に壮大なBGMを聞けているだけで結構満足感はあったことは忘れてはいけない。
つまり、評価が割れる一線はここだ。
物語への感情移入を、映画に求めるか、求めないか。自分の感性に触れる内容かどうか…
色々と数多くを求める(私のような)観客にとっては、
二本はどちらも退屈である。
求めない観客にとって、二本はそれぞれ別の楽しみを差し出してくれる。
退屈な映画を観た日の効用
帰り道、私は怒っていなかった。「金返せ」とも思わなかった。
ただ、「退屈な映画とは何か」をぐるぐると考えながら歩いていた。そして気付けば、面白い映画を観た日よりも長く、映画について考えていたのである。
退屈な映画は、時に雄弁だ。面白い映画は「映画とは何か」を考えさせる暇を与えてくれないが、退屈な映画は、上映中からたっぷりと考える時間をくれる。二本あわせて四時間あまり。私は人生の4時間を失った代わりに、「感情移入の不在こそが退屈の正体である」という答案を持ち帰った。
割に合ったかどうかは、分からない。分からないが、毒を食らわば皿まで。皿まで食らった者にしか書けない答案というものも、世の中にはあるのだ。
そして私は、次の金曜日もきっと劇場にいる。懲りない一観客の宿命である。
