映画『プラダを着た悪魔2』が「とりあえず作った」に見えた理由
年間400本観る映画好きが、ネタバレ全開で正直に解剖する
映画『プラダを着た悪魔2』の感想・考察。20年ぶりの続編に「とりあえず作った」という物足りなさを抱いた、年間400本観る映画好きが、前作との比較・演出論・テーマ分析から、その正体に迫る。続編に肩透かしを食らった人、映画の"見せ方"が気になる人へ。前作・今作のネタバレを含みます。
20年である。前作『プラダを着た悪魔』が世に出てから、かくも長い歳月が流れた。その続編が2026年5月、ついに劇場へやってきた。私は期待を抱えて席についた。嗚呼、しかし——観終えた胸に残ったのは、感動でも興奮でもなく、「とりあえず作りました」という、妙にそっけない手触りだったのである。
正直に言う。物足りなかった。どこがどう物足りなかったのかを、映画好きとして腑分けしていきたい。
※この映画は、卓越した映画演出を求めず、前作『プラダを着た悪魔』が好きで、あの登場人物たちにまた会いたい。と感じる人にオススメです。
▼ここからはネタバレを含みます。未見の方はご注意を▼
是非、映画はあらすじも予告編も観ずに、
作品の情報を知らないまま、映画館で鑑賞してほしい。
■作品データ
タイトル:プラダを着た悪魔2
原題:The Devil Wears Prada 2
監督:デビッド・フランケル
出演:メリル・ストリープ、アン・ハサウェイ、エミリー・ブラント、スタンリー・トゥッチ
上映時間:119分
制作国:アメリカ
日本公開:2026年5月1日(金)
配給:ディズニー
「お金持ちが世界を牛耳る」——正しいが、新しくない
今作のミランダは、ファッション誌「ランウェイ」の存続危機に立たされる。報道記者になっていたアンディが特集エディターとして呼び戻され、いまやラグジュアリーブランドの幹部となった元同僚エミリーが、雑誌存続の鍵を握る。そして起死回生の一手は、富豪に雑誌を買収させること——。
出版不況、電子化の波、資本による文化の買収。社会問題を巧みに織り込み、現実味はある。けれど、だ。結局この物語が言うのは「お金持ちがこの世を牛耳る」という、世のことわりそのものなのである。綺麗にまとまってはいる。が、ことわり通りであるがゆえに、驚きがない。ご都合主義の連打、お金持ちの気まぐれに翻弄されるサラリーマン金太郎のごとき構造。挙げ句、AIで作ったような画像をわざわざ人間が描くハリウッドの混乱まで透ける。鑑賞後、「で?」と途方に暮れた。
『トップガン マーヴェリック』になり損ねた
20年後の続編は、敬意と更新のあいだを渡る綱渡りだ。それを鮮やかに跳んでみせた稀有な例が映画『トップガン マーヴェリック』だった。本作はまさに「ファッション界のマーヴェリック」と売り出され——その惹句が自らハードルを上げてしまった。興行成績は良い。だが作品の質を高めきれず、自滅した節がある。
加えて20年の歳月は、ミランダを丸くした。ハラスメントへの意識がうなぎ上りの昨今、かつての絶対的な「悪魔」も「悪魔もどきの人間」へと変わり始めていた。悪魔が人間味を帯びれば、磁力は緩む。中心の対立がほどけた物語は、どうしたって締まりを欠くのである。
それでも、擁護できる読みもある
本作は初日から記録的なヒットを飛ばし、満足して劇場を出た観客も少なくない。捨てがたい擁護が一つある。2006年だったからこそ、前作は業界の「夢」を売れた。けれど出版が電子化に飲まれた2026年の今、その夢はもう無邪気には描けない。だからあえて夢を手放し、誰が本当に権力を握るのか——富豪と、ラグジュアリー資本——を正面から見据えた。そう読むこともできる。
だとすれば、私の感じた「面白みのなさ」は、世界を現実に合わせて更新した代償なのかもしれない。「逃げ」と見るか「誠実さ」と見るか。本作の評価は、ちょうどこの一線で割れる。
「見せ方」が、すべてを決める
年間400本以上を観てきた人間として断言する。映画は「見せ方」がすべてを決める。何を映すか、ではない。どう映すか、どこで切るか、何を映さないか、である。
前作のラストを思い出してほしい。ハイヒールが映り、その意味を理解した、まさにその瞬間にエンドロールが流れ出す。観客の胸に「スカッ」とした到達感を刻んで去る、見事な幕切れだった。私は今作にも、あれを超えるカットを探していた。そして見つからず、落胆した。
けれど、はたと気づく。今作は端から、あれを超える気などなかったのではないか。狙いは「映画的な緻密な演出」ではなく、「皆の好きなあの人たちが、また揃って出てくる」——そういうファンサービスだったのでは、と。前作は演出で見せつけ、今作は同窓会の温度で包む。そう思えば、腑に落ちる。
前作は「語らず、見せた」
実は前作も、本質は同じテーマだった。資本とファッション産業の権力構造。けれど前作はそれを、「セルリアン色のセーター」を巡るミランダの一席や、業界に魅入られては抗うアンディの成長譚に、そっと溶かして見せた。テーマをキャラクターの血肉として描いたのだ。
ところが今作は、同じ主題を「買収プロット」として卓上に並べてしまう。説明された主題は、もはやテーマではなく、あらすじになる。私が覚えた既視感と説教臭さの正体は、たぶんこれだ。物語が世のことわりをなぞるだけになり、登場人物までが、そのことわりの駒に見えてしまったのである。
「とりあえず作った」の正体
前作には、誰もが一発で思い出せる画があった。例えば冒頭、冴えない私服のアンディと対比して映る、ライフスタイルの違う同性たちの朝支度。クライマックスのパリ。そして先のハイヒール。今作には、それに匹敵するシーンがほしかった。
ファンサービスを選んだこと自体は、良いと思う。それに徹したぶん画が平板になるのは、仕方ないのかもしれない。監督は前作と同じデヴィッド・フランケル、脚本も続投で、つくりは手堅い。だが手堅さが裏目に出ると、過不足はないのに印象に残らない凡作になる。「とりあえず作りました」の正体は、キャストの魅力不足ではない。映画史を踏まえた、映像芸術としての見せ方の不足である。
ミランダという「最悪の上司で、最高の師匠」
それでも、何度も膝を打った場面がある。ミランダは、自分が部下を「育てていた」などとは、これっぽっちも思っていない。けれどアンディやエミリーのほうは、「(方法はどうあれ)育てられた」と、知っている。
ミランダは最悪の上司で、しかし最高の師匠だった。この二つは矛盾せず、同時に成立する。ここが本作の、いちばん静かな核心だと私は思う。
結論——テーマは普遍的、演出は凡庸
批評の物差しを当てれば、本作は前作に届いていない。ご都合主義も、構造の既視感も、演出の地味さも、すべて事実だ。テーマの選択は擁護できる。だが、20年待った私の期待には届かなかった。
とはいえ、旧友に再会したような懐かしさは、確かに画面のどこかに漂っていた。20年とは、かくも残酷で、かくも甘い。その甘さに免じて、星をひとつだけ多めに置いておこう。だが、前作を超えたとは、どうしても言えないのである。
