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安倍晴明と蘆屋道満の『史実上における』関係性〜④〜


ないです。


こんばんは。KUMANOです。

ど頭から結論を持ってきてしまいましたが
念の為もう一度申し上げます。

ありません。


強いていうなら、ワンチャンどっかですれ違った可能性は無きにしもあらず。

ですが、
伝説の中のように、直接顔を合わせて壮大な呪術合戦を行ったとか、晴明の奥さんと結託して晴明をぶち殺したとか、道長くんを呪詛ろうとして、晴明が見事それを阻止しただとか。

「陽を司る表の陰陽師、安倍晴明」
「陰を司る裏の陰陽師、蘆屋道満」

なんて、かっこいい肩書きや伝説は、全てフィクショーンです。

あるのは

何にも関与していないのに、いつの間にかヨイショされまくって「あれ、私またなんかやっちゃいました?」的なノリの「安倍晴明」さん。

悪逆非道どころか、ただとばっちりを食らっただけの可哀想な人。
それが「道満」です

じゃあ果たしてその根拠は。というところで

ではまず、蘆屋道満という謎の陰陽師について、分かっている事を改めてまとめていきますね。

※便宜上、「僧道満」と「蘆屋道満」は、同一人物として扱っております。
ただ、本当に同一人物かについては分かりません。
上記をご了承の上、下記へどうぞ。


「陽の安倍晴明」と「陰の蘆屋道満」

まずは「安倍晴明物語」と「ホキ内伝」
こちらに出てくる道満は、典型的な悪役です。

ストーリーを簡単にご紹介すると、

陰陽師となり、平安京で活躍している晴明の噂を聞きつけた播磨国(現在の兵庫県)で活動していた道満法師

「晴明??俺様の方がスゲェに決まってんだろ。よっしゃボッコボコにして恥かかせたろ!」

と思いたち、京にいる晴明にカチコミをかけます。
結果、道満は惨敗。そりゃあもうボッコボコにされます。

小石を鳥に変化させただけの道満と、龍を呼んで大雨を降らせた晴明では、圧倒的な能力差があることは火を見るより明らかっすよね。。。

その後も道満は
「次の勝負で負けた方は、勝った方の弟子に入る!」
と自らフラグを立たせます。

そして箱の中を当てるゲーム、射覆せきふでなんとか巻き返しを図りますが、こちらもあえなく惨敗。
結果道満は、晴明の弟子になります。

ですが道満はその後、晴明が3年間の海外出張に行っている間、晴明の奥さんである梨花と不倫。更にその梨花と結託し、帰国したタイミングで突然イカサマ勝負をけしかけ、負けてしまった晴明の首を落とします。

バッドエンド…かと思いきや、晴明が出張先で知り合った仙人が

「晴明が危機に陥っている気がする!!助けなきゃ!」

と素早く察知し、わざわざ救援に京までやってきます。
そして晴明が埋葬された墓を暴き、なんと死者蘇生の法を使用し、蘇らせます。(何者だこのジジイ…)

蘇った晴明と仙人が、道満と梨花のもとへ行き、二人の首を落として成敗しましたとさ。めでたし!

どうしようもないう○んこクズ野郎ですね。

もう一つご紹介します。
「宇治拾遺物語」では、ある日道長くんが、愛犬を連れて寺に向かったところ、愛犬が道長の裾を加えて境内に入らせないようにしました。
いつもはこんな行動をしない犬を見て不審に思った道長は、

「こりゃなんかあるな」

と直感し、すぐに晴明を呼んで占わせます。すると

「土の中に呪物になった二枚の土器かわらけ埋められている。知らずに踏んでいたら死んでいたかもしれない」

そういって晴明は、特定の場所の土を掘り起こさせました。
そしたら本当に土器かわらけが2枚埋められていました。
晴明は犯人を特定すべく、一枚の紙を取り出して、それを鳥に変化させ犯人の居場所を探りました。そして鳥がたどり着いた先にいたのが「道満法師」でした。

道満は、道長くんの政敵である、とある貴族に依頼されて道長くんを呪殺しようとした。と供述し、その後道満は播磨国に追放されましたとさ。

こちらの道満は、「貴族から依頼をされたから呪詛っただけ」の人です。

あとは、こちらは出典が分からないので、本当にあるのかどうかは不明ですが…。

道長くんの呪殺に失敗した道満が播磨に流されたあと、なぜか後を追ってきた晴明と、橋の上で互いの式神を駆使した最後の呪術合戦を繰り広げた。

という話があるそうです。
もし出典となる古文書を知っている人がいたら教えてください。


以上、

基本的には「正義」の晴明の対となる存在、「悪役」の道満として語られています

(※江戸中期に作成された人形浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑」では、人と妖狐の間に生まれた安倍童子の聡明さに感服して、「晴明」と名付ける良い人としても描かれています。が、いい人としての道満は非常に稀)

はえ〜
道満ってそんな悪いやつなんか〜

と、思うかもしれませんが、
先に申し上げた通り、
これらの話は全てフィクションです。

ではなぜ、フィクションであると断定できるのか。

一つづつ、根拠を語っていきますね。



宮廷社会を震撼させた、呪詛事件簿の記録

始まりは寛弘6年(1009年)、晴明が亡くなられた4年後に、事件が起こります。

・一条天皇の中宮であり、道長の娘でもある彰子しょうし
・同天皇の第二皇子、敦成あつひら親王
・左大臣、藤原道長

上記3名を狙った、呪詛事件が発生しました。
この事件は、当時の宮廷社会に大きな衝撃をもたらしたのでしょう。

惟宗允亮これむねのただすけという、法律の専門家が、罪人の罪状などをまとめて、朝廷の最高機関である太政官だじょうかんに提出する資料があるのですが、同人が編纂した歴史書政事要略せいじようりゃくの中に、その資料の全文が記されているのです。

その名も

僧円能等そうえんのうらを勘問せる日記」

です。
勘問とは、当時の警察である、検非違使けびいしによる事情聴取のことです。

政事要略せいじようりゃく」によると、検非違使けびいしによって捕縛された容疑者は下記3名。

・僧円能
・僧円能の弟子、妙延みょうえん
・僧円能に仕えていた童子 物部糸丸もののべのいとまる

政事要略せいじようりゃく」には、彼らに事情聴取を行った際の応答が全て記録されています。

以下、内容を超簡略化して、会話形式でお送りいたします。



僧円能等そうえんのうらを勘問せる日記」


検非違使(以下検)呪符じゅふを使って、彰子様、敦成あつひら親王殿下、左大臣様を呪ったよな?? 嘘偽りなく全部吐けオラ」

僧円能(以下円)「はい。私は『宣旨せんじ』と呼ばれていた女性の依頼で、その3人を呪いました。間違い無いです」

「なんで呪ったのか、その動機を嘘偽りなく全部吐けオラ」

「あの3名がいる限り、伊周これちか様は永遠に出世できない。だから呪い殺しちゃおう。という考えに至ったそうです」

「この話をお前に持ちかけたのは、『宣旨せんじ』と呼ばれていた女一人か?」

「いいえ、最初に持ちかけてきたのは、源方理みなもとのかたまさという男性です。その後改めて、宣旨せんじから正式に依頼が来ました。私は呪符を2枚作成し、1枚は宣旨に、もう1枚は方理かたまさ殿に渡そうとしたが、不在だったので方理かたまさ殿の奥さんに渡しました。ついでに報酬をがっぽりいただきました」

「オメーの他に、呪詛のことを知っている陰陽師はいるのか」

「分かりません。ただ、元々宣旨せんじの家には僧道満そうどうまんという陰陽法師が出入りしています。道満だったら、もしかしたら、呪符について、何か聞いているかもしれません。知らんけど」

〜長いので省略〜
この間に宣旨と呼ばれる女性と源方理みなもとのかたまさについての余罪追求、また弟子妙延への事情聴取が続きます
〜長いので省略〜

「童子糸丸。お前は主人である円能が、呪詛をしたことを知っていたのか? 嘘偽りなく話しなさい」

糸丸「呪詛のことは知りませんでした。宣旨と呼ばれていた女性から、禊祓の依頼を受けた、というのを円能から聞いたのと、報酬をめっちゃもらって帰ってきていたのを、見たことがあるだけです」



貴族からの依頼次第で他者を呪い殺す『法師陰陽師』

かなり簡略化した内容でしたが、いかがでしたでしょう。
ここで一つ。補足をしておきます。

上記記録の中で検非違使からの事情聴取を受けている「僧円能」という男は、法師陰陽師ほうしおんみょうじまたは『陰陽法師おんようほうし』と、俗に呼ばれております。

彼らは普段、『私度僧しどそう(国家の許諾を受けずに勝手に出家したエセ坊主のこと)』として活動し、民間や一部の貴族の依頼に応じて、占いや祭祀といった陰陽師の仕事も行っておりました。

晴明や保憲のように、陰陽寮に所属している正式な陰陽師でもないので、
彼らの存在を簡単に紹介するならば、

勝手に出家して僧侶になった挙句、勝手に陰陽師をも名乗る不届者集団です。

なんでそんな不届者集団が出てきたのか?。についてですが、

それは当時の貴族社会における、
「穢れの複雑化」に伴う「陰陽師の需要拡大」が主な原因とされています。



色々とめんどくさかった平安貴族の常識

9世紀中頃、保憲や晴明の活動が活発化してきた頃、平安京では
「穢れ」という概念が、かなり複雑化していました。

以前、「方位の禁」についてまとめた記事を出したことがありましたが、↓詳細は下記記事を参照

当時の平安貴族は、その日どこに出かけるかにも、細心の注意を払わなければなりませんでした。

誤った方角へ出かければ、災難に出くわしてしまうかもしれない。ワンチャンこの世とおさらばしてしまう危険性だってある。

貴族たちはそんな失態を犯さないために、
まず朝起きたら、陰陽寮の暦博士が作成したカレンダーを確認し、その日の吉凶を確認。行っても問題ない方角と、行ったらダメな方角を見極めていました。

そして万が一、どうしても凶方となる方角へ行かざるを得ない場合は、あらかじめ陰陽師に依頼して禊祓を行うか、方違かたたがえ」と呼ばれる危機回避法を使用して出かけておりました。

だるっ。

と、思うかもしれませんが、当時の平安貴族にとっては、カレンダーを毎日確認し、吉凶を厳格に守り、状況によっては陰陽師を雇って禊祓をさせること。
これらも全て「貴族のステータス」であると認識されていたのです。

現代でいうところの「港区のタワマンの高層階に住めれば勝ち組」みたいなものでしょうか。知らんけど。

「え? お主「方違かたたがえ」する余裕もないの?? 今日の吉凶もご存知でない?? 禊祓をする余裕も陰陽師雇えるお金もないの?? え、ダッサwwww」

…みたいなマウント合戦が貴族間で行われていたかもしれない。知らんけど。


ですが、当時の貴族たち全員が、平等に正規の陰陽師たちを雇えるえわけではありませんでした。

道長くん、実資といった、朝廷の重役を歴任した。所謂公卿という位置付けにいた上級貴族は、懐が暖かかったので、晴明や光栄といった人気No.1の陰陽師を雇うだけのお金は死ぬほど持っていたと思います。

ですがそれ以下、中級貴族や下級貴族はどうでしょうか。
一応「貴族」とは銘打っているけれども、その格差には天と地ほどあります。

同じタワマンでも、高層階に住む層と下層階に住む層に貧富の差があるように、

役職を持たない一般平社員が、一回のセッションにつき10万円以上するお偉いさん御用達な大人気占い師を指名できると思いますか??

そんな正規の陰陽師たちを雇えない人たちのために、活動していたのが法師陰陽師ほうしおんみょうじ』です。

当時2.30名しかいなかった正規の陰陽師に対し、『法師陰陽師ほうしおんみょうじ』たちは100名は超えていたのではないかと言われています。相当稼げていたのでしょうね。無限に湧いてくるインプレゾンビみたいっスね。

ただ実際結構稼いでいたそうで、円能のように弟子や童子がいたり、中には牛車ぎっしゃを所有していた成金法師陰陽師ほうしおんみょうじもいたようです(小右記)

では、なぜそんな奴らを野放しにしていたのか??
取り締まらなかったのか。

勝手に陰陽師の名前を使っていたのが当時違法だったのかは分かりませんが、少なくとも勝手に出家していたことに関してはガッツリ違法です。

(当時は、お坊さんになるのにも国家の許可が必要でした。お坊さんになれれば税が免除されるため、私度僧は納税の義務を逃れたいがために、次々と出家していたのです。私度僧になるのにもそれぞれ理由はあったとは思いますが、、、現代だったらとんでもない脱税卑怯者詐欺集団ですね)

野放しにされていた理由としては、当時の警察だった検非違使は、あくまで平安京の治安維持であり、法師陰陽師ほうしおんみょうじの主な活動拠点は播磨国、現在の兵庫県だったことから、検非違使の活動範囲に限界があったのではないかと考えられます。

そしてもう一つ。

『正規の陰陽師にはできない「呪詛依頼」が法師陰陽師ほうしおんみょうじにはできたから』

こちらが最も大きな要因ではないかと思われます。



他者を呪詛ることは決してしなかった安倍晴明他朝廷陰陽師

なんとなく晴明は「依頼次第では他者も呪詛ることも可」
みたいな、どこか冷徹な雰囲気を纏わせていますが、

史実上において、晴明が他者を呪詛った。という記録はありません

むしろ正規の陰陽師たちにとって、「他者を呪詛る」ことは重罪に当たるので、自分から進んで、わざわざ職を失うような、危ない橋は渡らなかったのでは無いかと考えられます。

晴明も仕事を人一倍頑張った結果、ようやく従四位下まで昇進できたので、一回呪詛っただけで良くても官位剥奪、最悪物理的に首が飛ぶような愚行は絶対にしなかったものと思われます。

対して、法師陰陽師は恐らく多くが一般庶民。加えて全員違法な手段で出家した姑息な卑怯者エセ坊主集団です。

例え彼らの罪が明るみに出ようとも、替えはいくらでもいた。
だから貴族たちは法師陰陽師たちを使い捨てのように雇っていたのでは無いかと思われます。



僧円能等そうえんのうらを勘問せる日記」
で摘発された事件も、おそらく当時では氷山の一角。
貴族同士による呪詛合戦は、往々にして発生していたのでは無いかと考えています。

平安中期だけでも摘発された呪詛事件は10件以上。

道長くん呪われすぎ問題

上記表は平安中期に発生した呪詛事件を、簡潔な表にまとめたものです。
道長くんが標的になった数、実に五件。

恨み買いすぎでしょ……。

ただ面白い、というか興味深いのが、道長くんが誰それを呪詛った。という記録が無いことなんですよね。

記録に残らないよう揉み消していただけの可能性もありますが、
何事も公平に見る実資の日記にも、道長が呪詛ったという記録が残っていないことから、道長自身が誰かを呪詛ることはしなかったのかもしれないですね。

道長くんが重用していた陰陽師は、晴明をはじめとした、正規な陰陽師の中でも特に高位な地位にいた人物ばかりだったので、

道長くんが「アイツを呪詛って」と依頼したとしても「絶対ヤダ」と突っぱねられてた可能性も十分ありそうですね。

「政事要略」の中にいる『僧道満』という人物

さて、「僧円能等そうえんのうらを勘問せる日記」にて名前が出てきた「僧道満」

なお、史実の中で「道満」という単語が出てくるのはここだけです。
あれだけ伝説の中では晴明とわちゃわちゃやっていたのに、記録上に出てくるのはこの歴史書の中でのみ、です。

意外っすよね。

そして「僧道満」は、呪詛事件の首謀者の一人である女性貴族の家に出入りしていた。と円能が供述しています。

なぜ数ある伝説の中で、晴明と相対する陰陽師が「円能」ではなく「道満」なのか……。

これも不思議ですよね。

それにしても円能とかいうやつ。これみよがしに道満の存在をチラつかせている辺り、完全に道満を道連れにしようとしていますね…笑

悪逆非道どころか、ただとばっちりを食らっただけの可哀想な人、「僧道満」

彼が実在していたのは間違いないようです。

では、一体「道満」とは何者なのか。どんな人だったのか。について探っていきます




蘆屋道満の足跡

まず彼を祀ったお寺というのが、現在の兵庫県加古川市に現在もあります。
「正岸寺」というお寺さんになります。

陰陽師・安倍晴明に教えを受け、彼に並ぶ力を持つと称せられた蘆屋道満が誕生したといわれる場所に建つ寺院です。道満は幼い頃から占術を学んで頭角を現し、後に式神を連れ修行を重ねたといわれています。僧侶・医者でもあったといわれ、地域の人々のために尽力。 境内には道満を祭るお堂と碑があります。

加古川観光協会HPより引用

お医者さんの顔も持っていた。とも言われているようです。
また、こちらのお寺さんにある道満の位牌に天徳二年(958年)生誕との記述もあるようです。(こちらはwiki情報)

とすると、「僧円能等そうえんのうらを勘問せる日記」が発覚した寛弘6年(1009年)の時点で道満は50歳、くらい……?計算間違ってたらさーせん

延喜21年(921年)生まれの晴明とは30歳以上離れていることになるんですかね。
若くてイケメンの晴明に対して、道満はおじいちゃんってイメージが強いですけど、実際は逆だったみたいですね。

以上、わずかな情報ではありますが、実際の道満は地域の人々のために力を尽くした善良な人だったみたいです。

実際、宣旨と呼ばれていた女性は、元々家に出入りしていた(お抱えの陰陽師として雇っていた?)道満ではなく、知り合いの貴族に雇われていた円能をわざわざ起用しているので、宣旨からの呪詛依頼を、道満が断っていた可能性も有り得ますよね。善良な人であるが故に。

そう考えると、蘆屋道満=悪逆非道な奴

というイメージは大きく変わるのではないでしょうか??



様々な記録を切り貼りして出来上がった「安倍晴明」VS「蘆屋道満」伝説

ここまでで、安倍晴明と蘆屋道満に直接的な関係はあった可能性はなかったとする可能性が高い。ことがわかったかと思います。

では、伝説全てが一から創作された物語だったのか。

と言われると、実はそうでもなかったりします。

厳密に言うと、

元ネタとなる記録や説話があり、そこから登場人物を晴明と道満に変えて脚色した。

のが今日に伝わっている「安倍晴明」VS「蘆屋道満」伝説。です。

じゃあ例えばどんな話か。というと、
先にも紹介しました「安倍晴明物語」

こちらで晴明と道満が、箱の中身を当てるゲーム「射覆せきふ」をして、晴明が道満を打ち負かした。と言うお話ですが、こちらは恐らく

「今昔物語集」の巻24、第17話に、
「安倍晴明と賀茂保憲。覆物おおいものを占う」

と言う話が残されています。ここでいう覆物おおいものとは、「射覆せきふ」と同じ意味になります。ただし、内容自体は失われており、惜しくも題名だけが伝わっています。

「今昔物語集」も説話集なので、その信憑性はなんとも言えません。ですが、保憲の父である忠行は、かつて醍醐天皇の御前で射覆せきふを披露し、見事当てた。という話が残っているので、その弟子である晴明と保憲が何らかの形で射覆せきふを披露させられた。

と言うのは十分に考えられると思います。

つまり晴明VS道満の射覆せきふ対決。
その元ネタは、晴明&保憲の射覆せきふ対決(対決したかどうかは不明)であると推測されます。

では次、「宇治拾遺物語」から

道長がお寺に参拝しようとした時、道長の飼い犬が境内に入ろうと阻止したのを不審がった道長が晴明に占わせたら、2枚の呪物が土の中から出てきて、その実行犯が道満だった。

と言うお話。こちらの元ネタは

僧円能等そうえんのうらを勘問せる日記」
と、
寛仁2年(1018年)に発生した、藤原道長呪詛案件。
こちら二つの事件をがっちゃんこして創作されたのが「宇治拾遺物語」では無いかと思われます。

水色に色付けした項目です

理由ですが、まず、道長を呪詛る際に使用された呪物。
「宇治拾遺物語」では土器かわらけが2枚。地面に埋められてた。
とありますが、
僧円能等そうえんのうらを勘問せる日記」では、呪符を2枚作成していた。とあります。

また依頼人ですが、
「宇治拾遺物語」では、道長の政敵の一人であった藤原顕光ふじわらのあきみつという貴族です。

そして寛仁2年(1018年)に発生した藤原道長呪詛事件。
こちらの依頼人も藤原顕光ふじわらのあきみつです。

なおこの藤原顕光ふじわらのあきみつという男は、道長の従兄弟であり、道長の采配があって左大臣という高位に上り詰められたにも関わらず、晩年には死ぬほど道長を嫌っていた。道長ガチアンチです。


以上のように、
安倍晴明と蘆屋道満が直接顔を合わせて対決したことは無かったけど、その元ネタとなる話は実際にあった。というのがわかるかと思います。

終わりに

以上、約9,000字にわたって、蘆屋道満を含めた法師陰陽師と貴族社会における呪詛事情などにおいて、長々と語ってみましたが、どうでしょうか。

貴族たちの様々な記録。陰陽師たちの様々な記録を集約してコネコネしてガッチャンコして出来上がったのが、
現在の「陽の安倍晴明」と「陰の蘆屋道満」の姿。
なのでは無いかと思われます。

そして蘆屋道満という謎の男の素顔と解像度が、少しでも上がっていただればいいなぁと思います。

次回は、これまでの記事を振り返りながら、
「なぜ安倍晴明は1000年間、最も有名な陰陽師として語られることができたのか」の総括に入ります。


以下参考文献

↑の書籍に「僧円能等そうえんのうらを勘問せる日記」の全文が書き下し、現代語訳の両方で引用されております。おすすめです。

↑の資料では、まぜか法師陰陽師「円能」が「」と記載されています。正しくは「円能です」。

↑こちらの本に、道満が祀られているお寺についての説明があります。

平安中期に発生した呪詛事件を簡潔な表にまとめたのは↑の書籍から抜粋しています。いうて一部なので、他にも色々な貴族たちの仁義なき呪詛合戦の記録がまとめられているのでオススメ


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