ヒロインは預言書のなかに (後編)
■前編はこちら
けれども。
2020年、春。
世界は無音で崩れ落ちた。
ロックダウン、パンデミック、クラスター。知らない言葉で見慣れた景色が塗りつぶされ、地球という球体は音もなく封鎖された。
マッターホルンへは。
私が行くはずだった山へは。
私があの人と出会うはずだった場所へは。
行く術がなくなった。そのためだけに生きてきたというのに。
誰が、こんな不条理を是とするのか。
私は認めない。肯わない。信じない。屈しない。
心の奥で叫んだ。返せ、と。
私の人生を返せ、返せ、返せと。
誰に? 国家でも、ウイルスでもない。運命でも、時でもない。それすら超えた名のない何かへ向かって、私は祈るように呪うように爪を立て続け、怒りではなく熱でもない、もっと湿った呪詛を唱え続けた。
なぜ。
なぜ。
なぜ、なぜ、なぜ。
けれども。
2021年も、
2022年も。
飛行機は、
飛ばなかった。
22年間、誰にも見せなかった私の信仰。誰にも語らなかった私の誓い。誰にも触れさせなかった私の身体。そのすべてが、神話に棲みつく微細な虫から喰い荒らされるように崩れていった。
何もできなかった。考えることすら許されなかった。ほんのわずかな抵抗すらも許されない絶対の拒絶のなか、私は静かに52歳を迎えた。
夢は終わった。
物語は殺された。
血も流れず、死体も残さず、ただ静かに。
それでも、生きている。まだ心臓は脈打ち、胃はなにかを求め、肺は空気を吸っている。それがいちばん残酷だった。
無為に時間だけが過ぎていった、そんなある日のこと。大学時代の囲碁将棋部から、一通の封書が届いた。同期の誰かが、文化奨励章を受賞したらしい。
封筒の中には、誰が受賞したのか、何を成し遂げたのかも丁寧に書かれていたが、名前を見ても顔が浮かばなかった。記憶の名簿から、とっくに脱落した人物だった。目を細めてみたところで、思い出せるはずもない。
本来なら、居酒屋の一軒でも貸し切って、誰かが下手なスピーチをぶち上げ、適当な乾杯の音頭でグラスをぶつけ合い、下らない昔話を繰り返す――そういう場になるはずだった。
だが、そのときの街は沈黙していた。
非常事態宣言が延長され、灯りの消えた酒場に、誰も近づこうとはしなかった。
どの暖簾も、どの看板も、押し黙るように「準備中」の札を掲げていた。
酒を注ぐ手もなければ、酌を受ける肩もない。祝うことすら、憚られる空気だった。
だから、仕方なくオンライン。
「新しい時代のつながり方」だとか、「withコロナの交流」だとか、誰かが嬉々として名付けたのだろうが、実態は冷えた画面に浮かぶ顔と音声の羅列でしかなかった。
もっとも、それはそれで都合がよかった。
冷たい画面を見つめながらなら、沈めると思ったからだ。
どうでもいい連中の顔を見て、話を聞いて、どうでもいい酒を呷れば、堕ちていける。
そうした痛みでも味わわなければ、自分が生きていることすら、信じられないと思ったのだ。
そのオンライン飲み会は、ことのほか残酷だった。画面に現れたのは、かつて同じ時間を過ごした男たちの、見る影もない現在だった。額は後退し、頬は痩せこけ、歯は濁り、笑みは硬直していた。小さな矩形のなかに、それぞれの疲弊と劣化が、執拗に浮かび上がっていた。
誰もが老いていた。醜く、取り返しのつかぬほどに。けれど、その笑い方は、酒の注ぎ方は、話の節回しは、すべてあの頃のままだった。
何も変わってはいなかった。何ひとつとして育っていなかった。皆が皆、擦り減った皮だけをまとい、ただ生きながらえている姿に接し、私は心底、戦慄した。
その映像の隅に、私自身の姿もあった。他人を嘲っていた眼差しが、そのまま跳ね返ってきた。ぼやけた輪郭、抜け落ちた表情、どこにも届かぬ目線。届かぬ夢をいまだ追い続け、それに疲れ、その疲れを慰めることでしか、自分を肯定できない。そんな自分が、そこにいた。
私はついに、己が終わったことを知った。
終わって、なお動いている。
それが、いちばん醜いことだと初めて思った。
時間だけが流れた。会話の内容は残らなかった。画面のノイズと、空疎な笑い声だけが耳に残った。「そろそろ嫁に怒られるからさ」と、画面の向こうで誰かが笑った。続けざまに、ひとり、またひとりと、言い訳のような別れの言葉を残し、ログアウトしていった。
気がつけば、残っているのは私と佐々木だけだった。同期の中でもっとも囲碁が強かった男。地方の小さな大会で優勝をしたこともあるはずだ。彼もまた、歳をとった。だがその視線だけは、どこか昔のままだった。
「お前、独身だよな?」
唐突に言われた。私は応じなかった。ただ、返す言葉が見当たらなかった。
「俺もそうだ。独身同士、現実で飲まないか」
それは誘いというより、通告のようだった。私はその言葉に抗わなかった。むしろ心のどこかで、それを待っていたような気さえした。落ちるには、ちょうどいい場所がある。そんな予感が、画面の奥から静かに滲んできていた。
女子大小路。この街にぽっかり開いた異国のポケット。フィリピンパブが異様な密度で群れをなし、地元の人間すら無意識に足を逸らす、名古屋のくびれのようなエリアだ。非常事態宣言のもと、多くの街が灯を落とす中で、ここだけは熱を残していた。
本来、酒類の提供は午後7時まで。店の営業は午後8時で終わる建前だ。だがこの界隈では、建前はとうに剥がれ落ちていた。時短要請協力金など、端から当てにしていない。行政の言葉よりも、札束の重みを信じる連中が集まる場所。だからこそ、ネオンが息をしていた。
佐々木の背を追い、22時過ぎの女子大小路に足を踏み入れる。ふたりともマスクをしていた。感染対策というより、もはやそれは都市の残骸を歩く者に課された無言のドレスコードのようでもあった。
人影はまばらで、通りには何かをあきらめた者だけがたむろしていた。肩を並べるように立つ男たちが、顔の下半分を覆ったまま、タガログ語まじりの片言で声をかけてくる。
「フィリピンパブ、ドウ?」
「イチジカン、サンゼンエン」
「ミルダケOK。カワイイコ、イッパイネ」
日本語の中に巻き舌が混じり、湿った布の下からでも、彼らの口元が笑っているのがわかる。その笑顔の仮面の裏には、どこまでも深い夜が潜んでいるように思えた。
「アレ、ササキさん、キョウ、ヒトリじゃない。メズラシイネ」
一人の客引きが近づいてきて、佐々木と拳を軽く合わせた。雑な親密さ。だが今の時代、それ以上は誰も求めない。
「たまにはな。今日は友達がいるからフリーで行くわ。かわいい子のとこ、頼むよ」
佐々木の言葉に、客引きは任せろと親指を立て、くるりと背を向けた。その背中を追い、雑居ビルの階段を上っていく。
階段の照明が、ばちばちと明滅して切れそうだ。黄ばんだ壁に跳ね返るのはぬるい闇。割れたタイルが足元を軋ませ、踊り場には、意味のわからぬグラフィティ。雑誌で見たニューヨークの裏通りを安っぽく模したような紙細工のカルチャーには、異国感でも郷愁でもなく、ただ貼りついた空虚があった。
「このミセだよ」
3階の一番手前の扉の前で客引きは止まり、顎をしゃくった。場末のスナックそっくりの扉は木目調のビニールが剥がれかけており、安価なプラスチックのネームプレートに「MARIA」と雑な筆記体が記されている。
「オキャクさん、キマシター!」
客引きがマスクを顎までずらし、わざとらしく甲高い声を張り上げながら、ドアを引き開けた。その瞬間、内側から漏れてきたのは、徳永英明の『壊れかけのRadio』。いまや街のどこからも姿を消したはずのその響きが、ここではまだ息をしていた。
壊れている。この店も、自分も、カラオケを歌うあの客も、きっとみんな、どこか壊れている。ただ、それを恥じる様子は誰にもなかった。壊れたまま笑い、歌い、飲んでいる。
何が可笑しいというわけでもないのに、笑いが口をすり抜けた。抑えようとしたわけではない。ただ、自然と漏れた。笑ったのは、いつ以来だっただろう。そんなことさえ、思い出せなかった。
テーブルは5つ。客は、私たちを含めて3組。くたびれたスーツに身を包んだ中年たちが、隣の女の腰に手をまわしている。香水の匂いが強い。煙草のけむりが、くすぶった心の奥まで染み込んでくる。
「イラッシャイマセ」
ソファに腰を下ろすと、ママらしき女が現れて、おしぼりとドリンクメニューを置いていった。笑ってはいたが、マスクの隙間から覗いたその表情には、もはや愛想の骨格だけが残っていた。動作に迷いはなかったが、どこかすり減っていた。
彼女が去ると、私は黙ってメニューを指差し、ビールを頼んだ。泡の立ったグラスが運ばれ、佐々木と形ばかりの乾杯を交わす。アルコールが喉を通過したあと、私はマスクを元に戻した。
その瞬間を見計らったように、奥から女たちが現れた。一列に並ぶ。その数、およそ十名。誰ひとりとして、マスクはしていない。胸元の深く開いたドレスはどれも原色で、肌の色と対立するような艶を放っていた。
濃い化粧の下で、顔はほとんど区別がつかなかった。仮面のように仕上げられた表情は、あらかじめ個性を希釈された演者のようでもあり、舞台の幕が上がる合図のようでもあった。
その中に、一人だけ、目に温度を宿した女がいた。派手さはない。だが、頬骨の高さや輪郭の陰りに、妙に目が引かれた。二十代の後半か。濃い化粧の奥に、かすかにあどけなさが残っていた。
私は無言でその女を指差す。彼女はすぐに歩み寄り、私の隣に腰を下ろした。そして、つとめて明るく笑った。
「ワタシ、マイ。ヨロシクね。フィリピンの、シキホール、っていう島から、キマシタ」
日本語は拙いが、発音はやわらかかった。笑うと、上の前歯が少しだけのぞいた。
「ココ、ハジメテ、デスカ?」
リステリンの乾いた香り。つくられた笑顔。うわずった音楽。それらすべてが、手触りのない時間と引き換えに、この空間を成立させていた。意味はなくとも、演じること。それがこの店の正しさだった。
こんな場所に、自分がいる。数か月前まで、この身体はマッターホルンに立つはずだった。だが今、安っぽいソファに埋もれている。いや、だからこそ、ここにいるのだ。もう何も残らない。唾棄すべき自分だからこそ、ここにいる。
「そうだが」
マスクを通した声は、ひどく乾いていた。マイは一瞬、こちらをじっと見つめ、それから小さくくすっと笑った。
「フフ。アナタ、マジメな。いいオトコね」
マジメ。これまで嘲笑とともに浴びてきた言葉だ。つまらない、融通がきかない、冗談の通じない男。だが今、その言葉が、やけに丁寧に、やさしく、胸に触れてくる。
心が波打った。マッターホルンで出会うべきの女性が、ふいに脳裏をよぎった。どれほどの孤独を重ねても、どれほどの夜を耐えても、私の中にいたあの人だけは守ってきた。けれども、いま。言葉ひとつ、笑顔ひとつで、ぐらついている。
――おまえは、そんな男だったか?
心の奥から、誰かの声がした。羞恥と嫌悪が胃のあたりに鈍く溜まり、胸の奥に熱を生んだ。私は信仰としてあの影を守ってきた。あの白い山に立つはずだった彼女と頂に立つ日を、誰にも知られぬ場所で密やかに祈っていた。
それなのに。この安っぽい照明の下で、見知らぬ女の笑みに心を寄せかけている。逃げろ。引き返せ。その声は、どこか遠くで霞んでいた。なのに背中は、安いソファへと静かに沈み続けている。
「ナニ、ウタウ? 演歌スキか?」
唐突な問いだった。私は何も言わず、ただ首を横に振った。マイは目を細めて笑い、ほんの少し、胸を張った。そしてどこか誇らしげに、子どものような明るさで言った。
「じゃあ、マイが、ウタイマス」
無邪気な笑みを浮かべてそう言うと、リモコンを操作した。古いスピーカーからイントロがなだれ出す。山口百恵『曼珠沙華』だった。戸惑いが生まれた。どうしてこんなに古い曲を、異国の若い女が口にするのだろう。時間がねじれ、記憶のなかの風景がふいに立ち上がった。
マッターホルン。あの約束。あの空気。あの雪解けの光。互いの吐息が交わったあの瞬間。交わしたはずの手はどこにもない。そして私は、気づいた。この遠ざかる感覚を、私はいま楽しんでいるのだと。
歌詞は私の内部にこだまして、私の輪郭を溶かしていった。名もなく、形もなく。私はその感覚に身を浸した。抗わず、疑わず、来るべきものであったかのように。やがて歌が終わると、マイはそっと私の肩に頬を寄せてきた。
「アッタカイ」
その声は、耳元ではなく、もっと深いところ――胸腔の奥、あるいは記憶の裏側に降りてきた。まるで、どこか遠い湿った森の奥、あるいは名もない洞窟の底から這い出た呪文のように。
これは営業だ。もちろん、わかっている。その笑顔も、その距離も、その歌も、その体温も、すべては、この国で生きるために編まれた技巧にすぎない。
けれども私は、そんな作為にさえ安堵を覚えてしまっていた。沈む以外に生きる術がない私に対する最適解。むき出しの欲が、理性の小骨を丁寧に折る。じわり、じわり。血の流れはゆるやかに反転し、私の骨の奥にマイの言葉が沈殿する。
そして思う。
これでいいのだと。
部屋に戻った頃には、午前1時を回っていた。歯を磨きながら、鏡を覗く。その奥で誰かが笑った気がした刹那、ついぞ静かなスマホが震えた。浮かび上がるのはマイの名前。そういえば帰り際、「LINEオシエテ」と恥じらいながら囁かれ、抗わずにスマホを差し出したのだった。
「ワダさん、きょうはアリガトウ。アナタ、やさしいネ♡」
その言葉を、幾度となく繰り返し読んだ。胸の内に、燻るような気配が立ちのぼる。それは仄暗く、甘い匂いをまとい、心の奥底に静かな火を灯すようで、私は年甲斐もなく痛いほど勃起した。
翌朝、目覚めるより先に、手がスマホに伸びた。そこには、夜通し熱を帯びたままのメッセージと写真が残っていた。カラオケのステージを背に、マイが微笑んでいる。つい昨夜、すぐ隣にいたはずの彼女が、もう画面のなかに棲みつきはじめている。そう感じた。
その日を境に、マイからのLINEが夜ごと届くようになった。
「キョウ、ナニ、タベタ?」
「イマ、シゴト、オワッタ。ツカレター」
「イソガシイ、トキモ、ゴハン、タベナイとダメよ」
「アメ、フッテル。カゼ、キヲツケテネ」
どうということもない文面。だが、それは妙に皮膚を刺激した。ピースをするマイ、唐揚げを頬張るマイ、ベッドで眠そうに欠伸をこらえるマイ。どれもが無害で無垢で、だからこそ危うかった。
通知音が鳴るたび、部屋の空気がわずかに揺れ、光の角度が変わった。私はすぐには開かない。数分おいてから、何気ない素振りで画面を覗く。既読をつけぬよう細心の注意で指を滑らせ、静かに画面を閉じる。
返信はしなかった。自分からは決して動かない。その受け身は、自尊のつもりであり、儀式のようでもあった。
気づけば、私は週に二度、三度とMARIAへと通っていた。自分の意志で通っているのかさえ、もはや定かではない。マイがそこにいる――ただその事実だけが、私の足を導いた。
いつのまにか、この店の中で、私はマスクをしなくなっていた。入店の瞬間までは着けているのに、扉をくぐったとたん、それを外すことが自然になっていた。誰に強制されたわけでもない。ただ、この空間においては、そうすることが正しいと、どこかで知っていた。
グラスに口をつけ、冷たいビールを流し込む。空になったグラスに氷がカランと鳴り、また新しい酒が注がれる。その反復が、静かに夜を湿らせてゆく。どんな会話を交わしたのか、もう記憶には残っていない。ただ、グラス越しにゆらめくマイの輪郭だけが、毎夜、私の深層に沁み込んだ。
そんなある夜、マイがふいに囁いた。
「今度、ワタシのタンジョウビ……キテクレル?」
私は、ほとんど反射的に「わかった」と答えていた。迷いはない。いや、迷うという機能がどこかで壊れてしまったのだろうか。理由はいらない。マイの目に映るためだけに、自分の存在があるのだから。
帰り際、マイが私の背中に抱きついてきた。首に回された腕。ふわりとした体温。そして、唇がそっと私の唇に触れた。そのとき、胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした。幸せだった。
誕生日当日。MARIAの扉を開けた瞬間、熱を帯びたカラオケの音と湿った空気が肌を打った。天井から垂れ下がる金と銀のバルーン。壁という壁に、微笑を浮かべたマイのポスターが貼りつけられている。
中央のステージには、赤いドレスをまとったマイ。濃く引かれたアイライン、巻かれた髪、舞台の光に照らされた笑顔。
「ワダさ〜ん!」
手を振るその姿は、どこか仮面じみてさえ見えた。通されたのは、入口近くの壁際。薄暗いソファ席。やがてマイが隣に腰を下ろし、ささやくように言った。
「キテクレテ、アリガト。ウレシイ!」
声だけを取り出せば、いつもの彼女のままだった。けれど視線は、店の中央に据えられたシャンパンタワーに向いていた。高さを競うように組まれたグラス。一本25,000円の祝祭タワー。その隣にマイが立つことを、店全体が祈るように見つめている。
「このあと、シャンパンタワーあるから、おねがいネ」
そう囁くマイの声の奥に、柔らかい糸のようなものが見えた気がした。静かに心を縛りつける蜘蛛の糸。と、その時。ママが声を上げた。私に届くような絶妙な大きさで。
「マイちゃん、あっちのお客さん、もう一本シャンパン入れてくれるって」
振り返ると、黒光りするスーツに身を包んだ男がいた。ぴたりと整えられた七三分け。袖口からはダイヤが埋め込まれた時計が店の光を反射していた。彼は無表情のまま、マイをじっと見つめている。心を明け渡してしまった者の瞳だった。
マイは「ゴメンネ」と微笑みながら、ためらう素振りも見せずに男の隣へと移っていった。細い腕を絡め、肩を寄せ、耳元で甘く囁く。その仕草は、さきほどまで私の隣にいた彼女とは似ても似つかず、もっと滑らかで、もっと深く艶めいていた。それこそが、本当の姿であるかのように。
やがて照明が落ち、スポットライトが彼女の身体をなぞる。蝋燭の火に息を吹きかけるマイ。その吐息が宙に溶け、空気の密度をわずかに変えた気がした。グラスの塔に泡が注がれる。
歓声、拍手、きらびやかな笑顔。それらすべての中心に、彼女はいた。いくつもの笑顔を振りまき、投げキスを繰り返す。店内の誰もがその笑顔を自分のものだと思っていた。
そのときだ。彼女が、どこか遠い目をしながら呟いた。バサラ、バサラ、マリギナ。そう聞こえた。意味はわからなかった。ただその音の響きが、なぜか耳の奥に棘のように残った。祝いの言葉なのか、祈りなのか、彼女の底から湧いてくるような音だった。
帰り支度をはじめたとき、マイがふいに駆け寄ってきた。「アリガトウ、ワダさん。今日のこと、ワスレナイネ」。そう言って、彼女は私の頬にそっと口づけた。
その晩の唇は、冷たくも温かくもなかった。どこか湿り気を帯びた影のようなものだけが、肌に残った。私は、微笑んで頷いた。けれど、その瞬間にはとっくに、理解していた。
私は、特別ではなかった。
それでも、特別でありたかった。
帰り道、身体の奥に微かなズレを感じた。背骨のひとつが、歪んだような感覚。骨の間に小さな異物が挟まるような、ほんの微細な違和感だった。
喉が異様に渇くようになったのは、その頃からだ。いくら水を飲んでも乾きは癒えず、夜中に何度も目が覚める。喉の奥に砂を詰められたような息苦しさ。肌の色がほんのわずかに白んできた気がする。爪の先、耳たぶ、白目の隅。血の巡りが悪くなっているのが、鏡越しにもはっきりとわかる。
飲みすぎだろうか。それとも……いや、それがどうしたというのだ。この身体が少しずつ削れていくとしても、彼女の記憶のどこかに私の影が残るのなら。その代償は、むしろ甘やかな祝福だった。
また今日も、マイからLINEが届く。いつもの儀式に従って、私はLINEを開く。
「ワダさん、いそがしい?」
何と返すべきか、わからなかった。指はスマホの上でずっと動かずにいる。私が逡巡にしている間に次のメッセージ流れてきた。
「ワダさんにしか、できないソウダンあるよ。いつでもいいから、オミセ、きて」
ワダさんにしか。その言葉が、胸の奥をノックした。わかっている。私が特別なわけなどないことは。しかし、この一文を読み返すたび、心が少しだけ前のめりになった。その日に、私はMARIAに足を運んだ。
店の扉を開けると、マイの顔には笑みがなかった。声にもまったく力がない。
「ママが、たおれた。心臓、わるい。手術、しないと。デモ、お金、ナイ」
ぽつりとつぶやくと、マイは目を伏せた。シキホール島に住む彼女の母親が、心臓の手術を受けなければいけないのだという。病名は濁されたままだったが、マイは「呼吸がうまくできない」と呟き、訥々と言葉を繋いだ。
ママ、マンババランなの。
マンババラン、わかるか?
シャーマン。マジュツシ。
でもね、ママは、なおす人じゃない。
のろう人。
ワタシの島、マジュツの島ってよばれてる。
島には、夜になると祈る人がいる。
葉っぱで身体をこすって、油に呪文かけて、
黒い鶏の首を、コキンって折る音がする。
うちのママ、すごく強かった。
村の人、みんなママの目を見なかった。
道で会っても、うつむいて、何も言わない。
パパもね、ママの声がすると、すぐ黙った。
7歳のとき、朝起きたらパパ、いなかった。
どこ行ったか、だれも知らない。
ママ、あの人、弱かったって、それだけ。
ママの仕事、子どものころ、よく見た。
村の男が、ママにウソついた。
お金借りて、返さなかった。
でもその人、バランガイのエラい人だったから、
だれも文句言えなかった。
夜、ママ、変な匂いがする部屋で目つぶってた。
黒いニワトリ持って、首をねじった。
血が、じわってバナナの葉に広がった。
そしてママは、言ったの。
Sinti ka balara…
Aran ka nunawa…
Daligin, daligin, makuna’a…
Sabalin na munti…
Gawari el tahu…
Isra, isra… matakin wala…
次の日、その男、口から泡出して倒れた。
目が、真っ白だった。
すぐに動かなくなって、みんな黙った。
村の人、ワタシの家に近づかなくなった。
ママが怒ったら、なにされるか、わからないから。
でも、そんなママ、心配してた。
いつか、ワタシも、呪いを受けると思う。
いつか、その力、ワタシにはねかえる。
年を取って、チカラが弱くなったら、
そのとき、きっと呪いを受ける。
心臓が止まる。
ワタシには、わかる。
ママの病気、本当にアブナイ。
だからワダさん、タスケテクダサイ。
耳の奥で、何かが外れる音を聞いた。金属の爪が落ちるような音だ。同時に、胸の奥に、冷たい水が流し込まれる。心臓の裏側が、じわじわとしびれていく。指先が、自分の意志とは違う動きをしている。皮膚の内側を、誰かが這っている。
この女が愛おしい。
そのとき私は、自分の声をハッキリ聞いたのだ。
「いくら、必要なの?」
郵便局の窓口で見知らぬ客に話すような、冷静な声で私が尋ねる。
「100マン……」
マイはためらいがちに口を開き、刹那、私の身体が体温を上げた。私の内側で、何かが頷いた。それは理性ではなかった。もはや思考でもなかった。ただ、100万円の使い道としては悪くないと思った。正しいかどうかなんて、どうでもよかった。
「わかった」
そう告げて、翌日の午後3時、中区役所の1階ロビーでマイと落ち合った。フィリピン専門の地下ルートを通して金を送るためだ。
2人で、武平町通りを南に下る。2本目の角を左に折れ、ボートレースのチケットショップを横目に、くすんだ雑居ビルへ入る。狭い階段を降りると、目的の場所があった。
窓のない、低い天井の小部屋。壁にはフィリピン国旗が飾られている。貼り付いたように無表情な男が、何も言わずに手を差し出す。私は、男のてのひらに封筒を置いた。まるで儀式の始まりのように。
男は封を切り、無造作に札束を取り出すと、紙幣カウンターにざあっと通した。熱も、言葉も、感情も、そこにはない。しまいに男がひとつだけうなずき、手書きの紙切れをマイに渡した。こうして送金は終わった。
地下銀行を出たあと、私たちは自然と並んで歩きはじめた。「お茶でもどう?」と口にしかけたとき、マイが先に私の手を取った。軽く、けれど迷いのない力だった。
武平通りの坂を、南へ。コメダの看板が見えてきたあたりで、彼女はふいに歩調を早めた。私を振り返りもせず、まっすぐ前を見て、引っ張るように進んでいく。次の交差点、信号の先にラブホテルの看板が浮かび上がっていた。
私はマイを見た。
マイは私を見た。
その一瞬、世界がまるごと彼女の瞳の中に吸い込まれる。
私自身の輪郭も、その瞳に溶けて消えていく。
100万円で買った、ひとときの幸福。それが愛だったのか、それも営業のうちなのか、確かめる術はどこにもない。確かめたくもない。私にとっての唯一の真実は、マイの言葉と、マイが放った甘い体温だけ。それ以上は何もいらない。
ふわふわとした帰り道、私のスマホが震える。
「ワダさん、ホントにやさしい。アリガトウ。ダイスキ♡」
ありがとう、マイ。
私は、幸せだ。
マイが笑う。
「ワダさん、やさしいね」
その笑みが、網膜の裏側に焼きついて離れない。
マイが指先で私の手に触れる。
「今日も、アリガトウ」
たったそれだけで、胸が満たされる。
マイのことを考えると、世界が柔らかく溶ける。
空しさも、老いも、過去も、未来も、すべてが。
私はスマホを取り出し、マイに向けて文章を綴った。
熱を帯びつつ、それでいて異様に冷静な指先で。
マイと話す時間こそが、私の人生の光だ。
マッターホルンの夢が、マイに出会わせてくれた。
どうか、私のことを忘れないでください。
私はこれから一生、マイだけを見ています。
私のすべてを捧げて、マイに尽くします。
マイも私だけを、見ていてくれますか?
いつもなら、書き終えたあとで送信をためらうところだった。けれどもその夜の私は、ただ自然に、送信ボタンを押していた。まるで決められた手順をなぞるように。心は妙に静かだった。胸の奥に、甘やかな満ち足りた感覚があったからだ。
返事が届いたのは、日付が変わる直前のことだった。スマートフォンが小さく震え、私は画面を開いた。そこには、たった一行の文字があった。
「ダイジョウブだよ。ママがいったとおりにしたから」
そこで、打ち捨てられた部屋から拾った手記は途切れていた。
破られたページがあるわけでもなく、ただぷつりと終わっていた。それ以上はどうめくっても、手を触れた痕跡すらなかった。なのに俺は、ページを閉じることができなかった。
自分の呼吸の音がやけに大きく聞こえる。胸のあたりが妙に重い。あの寂しい部屋のなかで手帳を見つけた瞬間の、ぞっとする感覚が皮膚の裏から這いのぼる。
そういえば最近、胃の鈍い痛みが続いている。昨日から身体が重く、酒も残る。背中に張りついたような違和感がとれない。気のせいだと思っていたが、もう言い訳は効かないということだろう。
手記を読みこむのに没頭してきて、背を預けっぱなしの椅子がきしんだ。その音に、ようやく現実が戻ってくる。「誰か」の薄暗い部屋、机の上に転がる湯呑み。残り香のように漂う女の笑顔。
そのとき、俺のスマホが震えた。
無意識に手を伸ばし、画面を覗く。
送信元の浅黒い顔が、じっと、こっちを見ている。
耳元に彼女の言葉が浮かんできたので、俺は首を振る。
ためらいはない。
指を少し動かし、ブロックを選ぶ。
でも、わかっている。
もう戻れない。
それはすでに、始まっているのだ。

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