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ヒロインは預言書のなかに (前編)

名古屋市中川区。中川運河に沿って建つ、くたびれたアパートの2階。湿気を吸って膨らんだ木製の玄関扉に「行政処分・残置物撤去」と朱文字で書かれた紙が貼られている。目を落とすとノブのまわりだけが手垢で黒ずみ、木肌が薄く擦り減っていた。

取っ手を引く。ゆっくりと軋んだ音を立て、廊下側に扉が開く。その瞬間、色褪せたカーテンが風に煽られはためいた。部屋には埃を被ったままのテレビ、縁の欠けたマグカップ。干からびた玄関脇の流しには、うっすらと膜を張った湯呑みが一つ転がっていた。

十数年、この仕事を続けている。見慣れた光景だ。やることも同じ。ただ手を動かす。考えることはない。ただ黙々とゴミに変わった生活を袋に詰めていく。畳が軋む音と自分の呼吸だけを聞きながら。

ふと、本棚の脇に目がとまった。ビニールカバーに包まれた黒い手帳が、わずかに傾いて差し込まれている。何気なく手に取る。カバーの内側に一枚の写真。初老の男と若い女。ふたりは肩を寄せ、こちらに笑いかけていた。

なぜかわからないが読まなければならないと直感した。手帳をそっと腹にしまい込み、素知らぬ顔で片づけを再開する。

その夜。
自室の手元灯の下、乾いたページを開いた。
そこには淡々とした筆跡による手記のような文章が、びっしりと綴られていた。



私の名前は、和田宜伸。最初の大阪万博が開催された前の年、愛知県の知立市で生まれ育った。田んぼの風が教室の窓を通り抜けるような公立の中学に通い、隣町の進学校である刈谷高等学校に進み、大学は一浪して三重大学の経済学部に入り、囲碁将棋部に所属した。

昔から地味で真面目で、面白みに欠ける性格だった。親や教師の言うことはきちんと聞く。掃除当番や係活動も手を抜かない。華やかさや派手さとは縁がなく、目立たないが遅れない。口数は少ないが約束は守る。そんなタイプだ。


就職活動は、日本が湾岸戦争への対応に揺れるなかで迎えた。テレビから流れる映像はどこか現実味を欠き、遠くの出来事のように眺めていた。

バブル崩壊の予兆もあった。株価はじりじりと下落。地価の値崩れも囁かれていたし、不動産業界では資産の目減りが現実のものとなりつつあった。

しかし街には、まだバブルの残り香が漂っていた。電車の吊り広告では依然として高級マンションが踊り、雑誌を開けばタレントが笑顔でシャンパンを開けていた。夢の時代はまだ終わらない。いや、終わってほしくない。誰もがそう思っていた。

そんな中、私が就職先として選んだのは、当時はまだ郵政省の直轄機関だった郵便局だ。特別な意味はない。ただ何も起こらなさそうな場所に、自分の未来を置きたかった。他の勤め先を考えることなく、人事院の国家公務員Ⅲ種試験郵政事務Bを受け、公務員となった。



新卒で配属されたのは、岡崎市戸崎町にある岡崎郵便局だ。市最大の拠点だけあって日々の業務量は膨大なので、毎朝7時に局へ入った。

まずは郵便区分機の前に立ち、宛名の文字にかすかに宿る人の気配を読み取りながら、ひたすら仕分け。人と話すよりも手紙と向き合う時間のほうが長かったが、それがちょうどよかった。数字と順番。明快なルールがある世界に安心を感じた。

その後、いくつかの局を異動した。西尾、安城と、小さな町をめぐるようにして勤務先が変わった。どこにいっても真面目に、黙々と任された仕事をこなした。

ときおり局長に褒められることもあった。そのようなときでも誇らしさより先に、迷惑をかけなかったという安堵が胸をよぎった。社会人になっても、私の性格は変わらなかった。

そのうちに保険商品の案内も任されるようになった。多くの職員が及び腰になる分野だ。数字に追われたり、見知らぬ人の懐に入っていく業務は敬遠されていた。

しかし私はなぜか営業が苦ではなかった。もちろん得意ではない。そもそも私は大きな声で押すことも、駆け引きもできない。できるのは、目の前の相手に必要なことを丁寧に伝え、無理のない提案をすることだけだ。

すると私の真面目さが、相手の安心に繋がるのだろうか。「あんたが言うなら入っておこうか」と言ってくださる方が、少しずつ増えていった。



28歳の秋、蒲郡局の配属になった。海は近いが潮の匂いは届かない、鉄骨づくりの古びた局だ。どこへ行っても仕事は同じ。見慣れた制服に袖を通し、見慣れぬ町で、いつものような朝を始めた。

この町が、私の人生を別の方角へ傾けていくとは、そのときは思いもしなかった。

蒲郡局に入った翌年の2月に長野オリンピックが開催された。局のスピーカーから流れるラジオではスキージャンプ団体の金メダルが何度も話題になっており、同僚たちは「ふなき〜!」と声を張り上げ、笑い合っていた。

私だけ、その熱狂の輪の外にいた。いつもように淡々と手を動かし、数字を追い、帳簿を閉じる。窓口で交わす言葉は必要最低限の温度しか持たず、笑顔もほんの一瞬だけ空中に浮いては消えていく。幸せでも、苦痛でもない。そんな音のない日々がほどよかった。



そんなある午後のこと。顔なじみの老婦人が一通の封筒をそっと窓口に置いた。駅前の呉服店を切り盛りする、気品のある女性だ。

「和田さんに、お見合いの話を持ってきたの」

老婦人の穏やかな口調に、耳を疑った。見合いなど自分には縁のない話だと思っていた。驚いたまま動けない私に、彼女は微笑みながら続けた。

「あんたみたいに真面目な人、いまどきいないのよ。うちのお客さまの親戚に、真面目な人を探してる方がいてね。そこのお嬢さんが、また別嬪さんなの。ねぇ一度、会ってみない?」

まずは見てみてよ、という声にせかされて封を切ると、中からカラフルな写真が滑り出た。それを見た瞬間、喉の奥で小さく息を呑んだ。

やわらかく波打つ栗色の髪。春の風をまとうようなピンクのワンピース。目鼻立ちははっきりとしているのに、どこか涼やかで、きつさのない表情。こんな素敵な女性が私につり合うとは到底思えなかった。

「彼女、佳純さんと言ってね、金城学院を出て、いまはお父さんのお店を手伝ってらっしゃるの。ちいさなカフェが併設する絵本屋さんって言ってたかしら。ちゃんとしてる方よ。しっかり者で、華もある。会わないのは、もったいないわよ」

婦人の熱のこもった声に、私はただ曖昧にうなずくしかなかった。自分は結婚には向かない。ずっとそう思い込んでいた。誰かと暮らすより一人でいるほうが楽だし、合っている。

しかも金城と言えば、このあたりでは有名なミッション系お嬢様学校だ。そんな相手と結婚をしたら、自分は卑屈に生きねばならなくなる、そんな気がしてとても乗り気にならなかった。

けれども老婦人は、次の日も、その次の日も、変わらぬ調子で声をかけてきた。毎回断るのが億劫になった私は、会えばこの煩わしさから開放されると、老婦人の申し出を受けることにした。

華やかなお嬢様が、私などを気に入るはずがない。どうせ一度きりの顔合わせだ。そう思いながら私は、決められた日時に、名古屋城を望むキャッスルホテルのロビーで静かに時刻を待っていた。

ぽっ、と清廉なクチナシの花が開くようにその人の姿はあった。佳純さんはシャネルのロゴのついた小さなバッグを手に、ゆっくりと近づいてきた。写真よりもずっと綺麗だった。大きな瞳に一瞬で吸い込まれそうになった。挨拶を交わしただけで、私はもう、彼女に惹かれていた。

老婦人の後押しもあり、連絡先を交換し、次には食事をする約束を交わした。彼女が私を気に入ってくれたかどうかはわからない。周りへの気遣いの可能性も高いだろう。それでも私は嬉しかった。彼女が次も私に会ってくれる、そう考えただけで有頂天になった。

二度目のデートは、八事にあるフレンチレストラン、Restaurant Kamikuraだった。落ち着いた照明の下で、佳純さんはワインを口に運びながら映画の話を持ちかけた。

高級すぎる店に緊張しきりだった私は話を合わせるだけで精一杯だったが、彼女は「和田さんって、安心する」と笑ってくれた。そんなことを言われたのは人生で初めてだった。嬉しかった。とても嬉しかった。この人を幸せしたいと、思った。

三度目は、老舗料亭・八勝館だった。庭を望む個室に通され、障子越しに差し込む夕方の光の中、彼女は終始、穏やかに笑っていた。隣にいるだけで、胸の奥に静かな火が灯るような感覚があった。

けれど同時に、こんな素敵な人と本当に並んで生きていけるのだろうかという不安が、ゆるやかに湧き上がっていた。なにか思惑があって、彼女は私に近づいてきたのではないかと疑心暗鬼になった。

その迷いが消えたのは、五回目のデートの帰り道のことだった。別れ際、彼女のほうからそっと唇を寄せてくれたのだ。「これ以上は初夜まではしないのよ」と少し照れながら言った彼女の横顔に、私は誠実な人柄を見た気がした。

手をつなぎ、キスをして、微笑み合う。私の人生にこんな幸福な時間がやってくるとは、考えもしなかった。奇跡と言っていいだろう。

その後も私たちの交際は静かに進み、自然な流れで結婚の約束を交わした。彼女の両親も、「和田くんは安心できる」と笑顔で迎えてくれた。

自分の人生が陽の当たる場所に出たような心地がした。彼女とならこの先も、季節の移ろいに寄り添いながら、ゆっくりと歩いていける。私にはその自信がある。私の奇跡は、命を持ち息吹を始めたのだ。


披露宴はあの日の面影を残すキャッスルホテル。新婚旅行は彼女が希望したハワイ・ハレクラニと進んでいった。

タラップを降り、リムジンで辿り着いたワイキキの華やかさに目を丸くした。白い外壁に良く刈り込まれた緑の芝生。どこまでも続く青い海。くっきりとした常夏の景色の中で、彼女はまるで少女のようにはしゃいでいた。

チェックインして部屋に向かうと、クイーンサイズベッドの上にはハイビスカスの花びらが散らされており、私は、いよいよ今夜かと、緊張で喉がからからになった。

まずは散歩に出ようと、ワイキキビーチを手をつないで歩いた。アラモアナセンターでは両手いっぱいの買い物袋を運んであげて、夜はディナークルーズに出てカクテルを傾けた。

彼女は使い捨てカメラを3つも持参していて、初日で一本を撮り終えた。フィルムをかちりと巻き上げたカメラを大事そうにバッグの奥にしまう仕草が、たまらなく愛おしかった。

その夜。彼女は「初めての海外のお風呂!」と笑ってバスルームに消え、しばらくのちに真っ白なバスローブひとつの姿で戻ってきた。洗いざらしの長い髪からは、外国のホテルの香りがする。

私は、干からびた喉を鳴らしながら、細い肩口におずおずと腕を回した。彼女は一瞬びくりとしてから首を横に振り、「今日は疲れちゃった」とつぶやいた。そうだね、とうなだれるしかなかった。

その翌日も、また次の日も同じだった。私は笑って、うんいいよと答えたが、心の奥にある氷の粒は少しずつ増えていった。

そして訪れた最終日の夜、意を決して彼女を強く抱き寄せた。彼女は私の腕の中で震えていて、華奢な感触に熱くなった。しかし、そのとき。

「やっぱり、ごめんなさい」

彼女は私の腕をそっと払いのけ、目を伏せたままか細い声を絞り出した。何がどうごめんなさいなのか聞けなかった。薄暗い部屋の中、ただ彼女の吐息だけが聞こえた。

「私ね、このために覚悟して来ました。うち、お父さんは絶対に言わないけど、実はお店の経営が大変で、だからちゃんとした人と、たとえば貴方みたいな人と一緒になるのが家のためにもなるし、一番いいだろうって考えて、和田さんと一緒になりました」

言葉のひとつひとつが、背中から刺さってくるようだった。彼女は私を見ず、ベッドの端に腰かけ、床に視線を落として続けた。

「でも、やっぱり無理って……。和田さんが悪いんじゃない。優しいし、真面目だし、絶対に私を裏切ったりしないってわかってる。でも、ごめんなさい。あなたが私の中に入ってくるって想像したら、どうしても、どうしても、無理で……。一度抱かれてしまえば全部うまくいくとも思っていました。でも、ごめんなさい。」

何も、言えなかった。彼女はそっと立ち上がり、私に背を向けた。窓に掛かるレースのカーテンを細い指先で握りながら、凍ったように漏らした。

「抱かれたらきっと、私は自分を終わらせたくなる」

空気の抜けるような音が、私の胸の奥で鳴った。おしまいだった。同じ部屋に寝ることもできず、ロビーのソファで朝を迎えた。帰りの機内でも言葉を交わさなかった。空港に着くと、彼女はそのまま実家へと消えていった。

二日後、茶封筒に入った離婚届がポストに届いた。
中には、記入済みの離婚届が入っていた。



離婚届を出した日の夜、あの言葉をなかったことにしたいとの一心で、岐阜駅裏にある金津園に向かった。

ソープランドだ。それも最高級と紹介されている一軒だ。私は多くを期待し、想像よりも古いビルの自動ドアを抜け、想像よりも若い女の中に3度射精をした。

何の喜びもなかった。むしろ射精のたび、自分の中から何かが剥がれていくような感覚だけが残った。結局、なにもなかったのだ。私には、なにもないのだ。

二人で住むために借りた名古屋のマンションには戻れなかった。夜の岐阜駅前を彷徨い、安ホテルの明かりに吸い寄せられるようにして一部屋を借りた。


湿気で壁紙もたわんだ1階のロビー。色褪せた造花の鉢の横に小さなカラーボックスが置かれていた。中には週刊誌と数冊の漫画。その背表紙のひとつに、ふと目が留まった。『黄昏流星群』、弘兼憲史とある。よく知らないが、いくつか巻数が揃っていた。

やるせない夜にはちょうどいい気がして、試しに1巻を手に取って部屋へ戻った。ベッドの枕元の灯りだけをつけて、背をもたれさせながら静かにページをめくる。第1話のタイトルは『不惑の星』。

大手銀行支店長の盛本芳春、52歳。30年間勤めてきた彼はさらに上を目指していたが、ある日突然、常務に呼ばれて出向を命じられてしまう。自分は銀行にとって必要ない人間だったのでは、と落胆する芳春。帰路の電車の中で華やかなスイス旅行の広告に目が留まり、1週間の休みを取ってマッターホルンへのひとり旅に出ることに。そこで出会った美しい女性、目黒誠子の謎めいた魅力に惹かれた芳春は、再会を求めて数奇な運命をたどり、安定した半生からは思いもよらぬ激動に飲み込まれていく……。

読み進める手が止まらなかった。自分の郵便局員という職業は、主人公の銀行員ともそう遠くない。顧客と向き合い、数字を扱い、誠実を求められる世界だ。

たったそれだけの類似点で物語の主人公と自分が重なる気がしてきて、むさぼるように読んだ。そして物語が終わる頃には、私の心の内側にひとつの輪郭が静かに、けれど確かに立ち上がっていた。

名古屋に戻るとすぐ、駅前の本屋で『黄昏流星群 不惑の星』を購入し、以来、何度も読んだ。展開がすべて頭に入った後も、読んだ。誰が次に何を言うかをすべて暗記してからも、読んだ。

読みながら、自分がそこに組み込まれていることを何度でも確かめた。主人公のように絶望し、主人公のように旅立ち、主人公のように再会する。それ以外の展開が、もはや想像できなくなっていた。

やがて現実世界に肉体を持つ女たちが気持ち悪くなった。肌の温度や、息の匂いや、笑い声や、そうした表徴すべてが、「あの人ではない」という決定的な欠落としてすぐにわかってしまった。

これは違う。これも違う。私の女はマッターホルンにいる。私とだけ出会うように設計されている。それ以外を抱いたら、私の人生が汚れてしまう。魂の座標がズレてしまう。

もしも誰かと一度でも寝たら、あの人は私を見つけられなくなるだろう。どんなに遠くからでも届くはずだったサインが、ノイズでかき消される。もう二度と、会えなくなる。そんなことが私の人生に起きてはいけない。それは罪であり、罰である。

だから私は、何年も誰も抱いていない。この身体は、あの人のためだけにとってある。これは誓いだ。信仰だ。誰にも理解されなくていい。

物語はもう、物語ではない。私の設計図だ。自分がどこへ行き、誰と出会い、何を始めるのか。そのすべてが、先に描かれていた。

その確信を胸に、私は保険営業への異動を申し出た。真面目ですね、挑戦的ですね、そんな声が聞こえてきた。違う。私はただ与えられた役をまっとうしているだけだ。台本はもうすでにある。私はそのとおりに動いている。脚本通りに、忠実に。


38歳で郵政民営化が起こり、職員の多くは日本郵政を選んだ。物語を持たない人間にとっては妥当な選択だろう。だが、私は違う。私は、かんぽ生命を選ぶ。「彼」は銀行員だ。ならば私も同じ側でなければならない。ささやかな一致にこそ、宿命は潜むからだ。

所属先の名前は変わっても、私の日々は変わらない。朝は、始業時刻の20分前に必ず出勤する。制服の襟元を指先で整え、誰よりも早く給湯室のポットを満たす。おはようございますと声をかけられれば、にこりと笑って一礼する。

昼食は、いつも決まってコンビニ弁当で、決して温め直すことはない。黙って箸を割り、淡々と口に運ぶ。箸袋は折り目に沿って丁寧にたたみ、食べ終えた弁当のプラスチック容器とともに小袋に入れて持ち帰える。

誰かと雑談をすることは少ないが、呼ばれれば決して断らない。世間話のなかでスイスという言葉が出ると、あの人を想って心臓がはねる。そのことには誰も気づかない。気づかせることなどするものか。

定時になると、自席を拭いて退勤する。帰りがけに正面玄関の掲示板の前で数十秒立ち止まり、内容に変化がないことを確認し、頭を下げて外へ出る。

夜になると『不惑の星』を読み返す。ベッドの上で灯りを落とし、ページの中の彼女に手を伸ばして自慰をする。そして週に一度、旅行代理店でツアーのパンフレットを手に取る。買い物はない。ただ、それを背広の胸に抱いて帰るのが、私の巡礼だった。

保険営業成績の表彰は、何度も受けた。そのたびに私は少し笑った。そうだろうと思った。きっと次は出向だ。そしてその先に、マッターホルン。


45歳を過ぎてからは、身体を鍛えはじめた。健康のためではない。偶然の出会いに備えるためだし、スイスの空気の薄さに対応するためだ。

49歳の秋。『黄昏流星群』がテレビドラマになると知ったとき、胸の奥に、音のない波紋が広がった。喜びではない。驚きでもない。戸惑いだ。

あの物語は私だけのものだ。私のための静謐な世界が、他人の手で塗り替えられる。私だけが知っていた夢に、無数のまなざしが触れる。そのことに、どこか穢されるような感覚を覚えた。

見たい、でも見たくない。
それでも私は10月13日の午後10時、部屋を整えてテレビの前に座っていた。

そこで黒木瞳と出会った。目黒誠子役として出演していた彼女のことを、それまで私は知らなかった。だが最初にその声を聞いた瞬間、私は確信した。マッターホルンで私を待っているのは、彼女だと。

その後は毎週、息を詰めて画面を見つめた。彼女が微笑むたび、胸の奥にひとしずくの熱が落ちた。もちろん苦しみではない。けれども幸福とも少し違う。名前のつけられない感情が、静かに身体の中に沈殿していった。

もう疑う余地はなかった。あれは誰かではない。彼女は、私のなかにいた人だ。私は知っている。その横顔を。その歩幅を。ふと黙るときの呼吸のかたちまで。

ドラマを観ているあいだの私は画面の向こう側にいて、彼女と並んで歩き、ひとつの皿を分け合い、何も言わずに同じ景色を見ていた。


あと3年。
あと3年で、52歳になる。
そして私はマッターホルンに向かう。

彼女はそこにいる。そうでなければ、私の人生そのものが誤りだ。私は物語の続きを生きている。疑ったことは一度もない。彼女はもう少し先で待っている。そのとき私は、こう言うのだ。

「やっと、会えました」

準備は――もうできている。

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