面白い作品には、だいたい痛みがある
どうも、久我レイジです。
面白い作品には、どこかに“痛み”があると感じています。最近は脚本を書きながら、そのことを以前より強く意識するようになりました。
キャラクターを動かそうとしてもうまくいかず、セリフを書いてもどこか薄い。それっぽい展開にはなるのに、読み返すと何かが引っかかる。そんな状態に陥ることが増えています。
物語としては成立しているはずなのに、キャラクターが生きている感じがしない。この違和感は、脚本を書いている側からするとかなり怖いものです。
そういう時に足りないのは設定ではなく、その人物の中にある痛みなのではないかと考えるようになりました。
脚本でキャラクターが急に嘘っぽくなる瞬間

脚本を書いていると、キャラクターが急に嘘っぽくなる瞬間があります。作者として「この場面でこう動いてほしい」「このセリフを言ってほしい」「この展開に持っていきたい」という都合がどうしても生まれるからです。
しかし、その都合が前に出すぎると、キャラクターは人間ではなくなってしまいます。物語を進めるために怒らされ、感動させるために泣かされ、次の展開のために都合よく判断する存在になってしまう。
書いている時は順調でも、読み返すと違和感が残るのはそのためです。
特にミステリーではロジックに意識が向きすぎて、キャラクターの心が置いていかれることがあります。伏線を置き、矛盾を消し、情報を整理することはもちろん必要ですが、それだけでは物語にはなりません。
ロジックが通っているのに面白くないと感じる時、その原因のひとつは「どうしてもそこに向かってしまう理由」が弱いことにあるのだと思います。
創作論としての「痛み」は、不幸設定のことじゃない

痛みと聞くと、暗い過去やトラウマ、大きな喪失を想像するかもしれません。しかし、ここで言いたいのはもっと小さなものです。
言えなかった言葉や選べなかった道、認めてもらえなかった記憶や自分を許せない感覚。そうしたものもすべて含まれます。
本音を飲み込んだ経験や、もう少し頑張れたのではないかという後悔、誰かの期待に応えられなかった記憶など、大きな事件でなくても心に残り続けるものがあります。
そうした小さな痛みがキャラクターの行動に影を落とします。ただし、ここを誤解すると危険です。
痛みを入れれば深くなるわけではなく、不幸にすれば感動が生まれるわけでもありません。泣かせるために傷つけるような作り方は、見る側に伝わってしまいます。
「ここで泣いてほしいんだな」と思われた瞬間、物語との距離が生まれます。
痛みは飾りではなく、なぜ立ち止まるのか、なぜ進めないのかという面倒な部分にこそ物語の匂いがあると感じています。
キャラクター設定より、選べなかった過去が作品に残る

キャラクターを作る時には、年齢や性格、仕事や好みなどを設定します。しかし、それを積み重ねても生きている感じにならないことがあります。
一方で、細かいプロフィールを知らなくても心に残るキャラクターもいます。
その違いは「何を選べなかったのか」が見えるかどうかにあると思います。人は選んできたものでできていると言われますが、同時に選べなかったものにも縛られています。
言えなかったことや行けなかった場所、守れなかった誰かといった過去があるからこそ、今の選択が変わる。
同じ行動でも背景が違えば温度が変わり、そこに奥行きが生まれます。
すべてを説明する必要はありません。むしろ説明しすぎると薄くなります。
セリフで語らなくても、沈黙や小さな判断ににじませれば十分で、見る側はそこを感じ取ります。そこに余白が生まれるのだと思います。
メタバースドラマでも、結局見たいのは人間だった

現在、メタバースドラマを制作しています。バーチャル空間でアバターが演じるという形式には確かに可能性があり、現実では作れない場所や残り続ける空間など、新しい広がりがあります。
しかし、それだけでは「面白い試み」で終わってしまう危険もあります。
一度は興味を持ってもらえても、心に残らないかもしれない。結局のところ、見たいのは人間なのだと実感します。
アバターであっても、その奥にある迷いや弱さ、未練が見えた時に初めて物語になります。
撮影中、アバターが少し黙るだけで空気が変わる瞬間があり、そこに人間らしさが現れます。
『クロスロード』でも選択をテーマにしています。
分かれ道に立った時、人は何を選ぶのか。その小さな揺れに惹かれています。派手な事件よりも、その揺れを捉えられるかどうかが重要で、それができなければどれだけ新しい表現でも作品としては弱いままだと感じています。
AI時代の創作で、脚本に残すべきもの

AIによって映像や画像、音楽、文章が簡単に作れるようになりました。その進化には驚かされますし、個人では難しかった表現が現実的になっていることに便利さも感じます。
一方で、整ったものや雰囲気のあるものは作れても、それが心に残るかは別問題です。
作れることと残ることは違う。この差がこれから重要になると思います。
表面的なクオリティの差が縮まる中で残るのは、違和感や引っかかり、無視できなかった感情のようなものではないでしょうか。
どの痛みを残すか、どこを削るか、どこまで説明するか、どこから黙るか。その判断は人間が握るべき部分です。
AIに任せる範囲が増えても、物語の芯まで手放してしまうと軽くなる。
最後は自分で傷に触れるような作業が必要になると思います。その面倒さを避けると、作品から体温が失われる気がします。
面白い作品は、不幸ではなく選択を描いている

痛みのある作品が面白いと言っても、重い話を書けばいいわけではありません。不幸を並べるだけでは見る側は疲れてしまいますし、苦しい出来事を積み上げれば感動するという作り方はどこかで冷められてしまいます。
痛みを描くとは、かわいそうに見せることではなく、立ち直るかどうか、許すかどうかといった選択の過程を描くことです。
きれいに回復しなくてもいいし、前向きな答えが出なくてもいい。小さな選択の中に、その人が抱えてきたものがにじみます。
創作者自身の痛みも、作品には少しだけにじむ

こうした話は結局、自分にも返ってきます。何も痛みがなければ、ここまで物語にしがみついていないと思いますし、メタバースドラマという道を選んだことにも未練や表現欲が関係しています。
作品を作っても届かないことや、集客の難しさなど、現実は決してきれいではありません。
作れば見てもらえるわけでもなく、熱量だけで届くわけでもない中で、削られる感覚があります。
それでも、その削られた部分があるからこそ物語を書こうとしているのかもしれません。
痛みがあるだけでは足りず、弱ければ届かない。それでも何も引っかかりのない場所からは物語は書けないと感じています。
心に残る物語は、少しだけ自分の傷に触ってくる

心に残る作品は、見終わった後にすぐ言葉が出てこないことがあります。感想より先に、自分の中の何かに触れてしまうような感覚です。
同じ経験をしていなくても、別の記憶や後悔が呼び起こされ、痛みが形を変えて届く。
だからこそ物語は厄介であり、同時に面白いのだと思います。
やはり面白い作品には痛みがあります。それは作品を暗くするためではなく、そこにいる人間を生きているように見せるためのものです。
人は何かを抱えたまま選び続け、選んだ後もすべてが消えるわけではありません。
まだうまく書けない場面もありますが、逃げずに向き合いながら、物語の中の誰かの痛みに触れつつ、自分の痛みにも触れていく。
そんな作業をこれからも続けていきたいと思います。
こちらもおすすめ!
いいなと思ったら応援しよう!
いただいたチップは作品づくりの活動費に使わせていただきます。応援していただけると、とても励みになります!