「財源がない」の正体──その一言で政策を止めていいのか
世の中おかしい Vol.15
「それで、財源はどうするのか」
高市政権は8月5日、来年4月から2年間、飲食料品の消費税率を8%から1%へ引き下げる方針を閣議決定した。これに対し、自民党内からも反対の声が上がった。
石破茂前首相は8月3日、「安定した財源が消費税だということが一番大事なポイントだ。安定した財源は見つかっていない」と述べ、「まだ財源は見つかっていない以上、検討は続けるべきだ」と主張した。
同じ会議で、小渕優子議員も「大変な懸念を持っておりましたし、今でももっています」と述べ、「少子化も高齢化も社会保障のお金もこれからどんどん増えるという中にあって、こんな議論していいのか」と反対した。さらに、「ツケは次の世代に回ってくる」とも語っている。
日本経済新聞も7月30日の社説で、消費税減税を「未来への責任放棄」と批判した。消費税を社会保障の「貴重な財源」と位置づけ、「減税ではなく、社会保障の財源を確保するために消費税率を引き上げる改革こそが必要」と主張している。さらに物価高対策については、「弊害が大きい減税はやめ、給付金に一本化したほうがすっきりする」とした。
朝日、毎日、時事通信など、ほかの主要メディアでも、財源を問題視する報道が相次いでいる。
8月3日の自民党税調などの合同会議では、賛成64人に対し、反対は9人だった。反対派の多くが挙げた理由の一つが「財源」だった。
減税の話になると、こうして必ず「財源」が問われる。
不思議だ。給付金を配るときには、減税のときほど「その財源はどこにあるのか」という声が前面には出てこない。

「財源」という言葉の使われ方には違いがある。
最初から取らない(減税)か、いったん取ってから配る(給付)か。 本来、この二つはどちらも「国民の手元にお金を残す」という意味では同じ効果を持つ。
もちろん給付であっても「国債発行=借金だ」という批判はゼロではない。しかし、減税の話になると議論のハードルは一段と跳ね上がる。「一度下げたら政治的に元へ戻せない」「制度変更のコストがかかる」といった政治的リスクや運用の手間が過剰に強調され、あたかも制度的に不可能な選択肢であるかのように扱われる。
どちらも国民の負担を和らげる手段であるにもかかわらず、なぜ減税ばかりが途端に「財源がない」の一言で選択肢から外そうとするのだろう。
家計と国は、本当に同じなのか
家計には、使えるお金の上限がある。毎月50万円の収入しかなければ、毎月100万円を使い続けることはできない。だから「国も収入以上に使えば、いつか立ち行かなくなる」という説明は、分かりやすい。
ただ、日本政府と私たちの家計は同じではない。日本政府は円で支出し、国債を発行し、日本銀行を含む金融制度の中で経済を運営している。少なくとも、税金が財布に入ってこなければ一円も使えないということではない。
だからといって、国はいくら借金しても構わないわけではない。
しかし、国の支出を家計の財布と同じものとして考えてしまえば、見えなくなるものがある。
税金は、政策を買うためだけのお金なのか
前の記事でも触れたが、税金にはいくつかの役割がある。
国や自治体の歳入になることはもちろんだが、それだけではない。所得の多い人により多く負担してもらう再分配の役割もあれば、たばこや酒などに課税して消費を抑える働きもある。
また、景気が過熱しているときには民間からお金を吸収して需要を抑え、反対に景気が弱いときに負担を増やせば、消費や投資をさらに冷やす可能性もある。
つまり税とは、単なる集金システムではなく、冷え切った経済を温め、熱狂を冷ます「温度調整ノブ」の役割もある。
しかし「財源」と耳にした瞬間、私たちの頭には大きな金庫が浮かんでしまう。
そこに貯まった現金の分しか買えない。
——そんな固定観念に、いつの間にか縛られてはいないだろうか。
5兆円減税するなら、5兆円の増税が必要なのか
食料品の消費税を8%から1%に引き下げた場合、1年間に想定されている減税額は約5兆円だという。
そうすると、「5兆円税収が減るのだから、5兆円の恒久財源を示さなければならない」という声が出てくる。
計算としては、正しいように見えるが、経済は帳簿の中だけで動いているわけではない。
減税によって家計に残るお金が増えれば、その影響は消費や投資、企業の売上や給与へと広がっていく。
その動きを見ずに「5兆円が消えた」とだけ考えるのは、あまりに短絡的だ。
コロナ禍の2020年度、日本政府は大規模な経済対策を行い、新規国債発行額は108.6兆円に達した。その後、それまで約500兆円で横ばいを続けてきた名目GDPは600兆円を超え、税収も過去最高を更新した。

名目GDPと税収はともに増加した。
支出の効果だけでこの税収増を説明しきれるわけではないが、少なくとも「国債を大量に発行すれば、経済が立ち行かなくなる」と単純には言えない。
だから、5兆円減税すれば5兆円の税収がそのまま失われ、別の5兆円で穴埋めしなければならない、と考えるのは全体を見ていない。

その後の消費・所得・企業利益への波及も考える必要がある。
減税後の波及の大きさによって、最終的な税収への影響も変わる。
その上、令和7年度の決算を見ると、税収は補正後予算を3兆5,246億円上回り、使い残した予算(不用額)は2兆993億円あった。
合わせれば5.6兆円を超え、食品減税に必要とされる約5兆円を上回る。
実際には国債の発行による収入である「公債金」が3兆円減額され、最終的に残った純剰余金は、約2兆6,000億円となった。
世耕弘成議員は、この3兆円の減額について、国会で審議・議決した国債発行額を、決算段階で財務省が国会の議決を経ずに減らしたものだと指摘している。世耕氏は「国会で全く議論していない」と問題視し、「消費税の財源は、こういうところにも眠っている」と主張した。
つまり、「5兆円の財源が存在しなかった」のではない。
ここで指摘したいのは、「だから家計簿的に足りている」という単純な話ではない。「財源」を持ち出す人達が主張する「家計簿的な枠組み」に照らしてさえ、実際には「財源がなかった」のではなく、「増えた収入や余った予算をどう使うかという選択肢があったにもかかわらず、議論から排除されていた」という事実だ。
問題は、増えた歳入を何に使うかという選択だったのではないか。

さらに2026年度も、当初予算ベースで歳入は前年度より約6兆円増える見込みだ。外貨資産などを管理する「外国為替資金特別会計(外為特会)」や日銀納付金など、税金以外から国に入るお金「税外収入」もある。
もう一つ、減税と給付では「財源」の扱われ方が違う。
国民の負担を広く軽くするなら、最初から取らない方法と、いったん取ってから配る方法がある。
給付には対象を絞れる利点があるが、そのためには制度設計や審査、振り込みなどの事務も必要になる。
一律に負担を軽くすることが目的なら、最初から取らないほうが分かりやすく、余計なコストも少ない。
それでも減税は「失われる財源」として扱われ、給付は「新たな支出」として認められる。どうして減税だけが「財源が失われる」と扱われるのか。
税収は、最初から決まっているわけではない
「財源がない」という判断の根拠になっている将来の税収は、そもそもどこまで確かな数字なのかを確認したい。
政府が将来の税収を見積もる際に使う数字の一つに「税収弾性値」がある。これは、名目GDPが1%増えたときに、税収が何%増えるかを見る数字で、財務省は長く1.1を使い、現在は1.2としている。

経済成長から見込まれる税収増は大きく変わる。
2014年度予算では1976年度から1985年度までの10年間を使って1.1としていたものが、後には1976年度から2019年度までの44年間を根拠とするようになった。
過去10年間の平均を根拠としていたはずの数値が、なぜか44年間の平均を根拠とするように変わっていたのだ。
2025年、柳ヶ瀬裕文参議院議員(当時)が2010年度から2019年度までの10年間で計算した場合を質問すると、財務省は3.23になることを認めた。
1.1と3.23では、経済成長によって見込まれる税収がまるで違う。
これほど前提によって変わる数字を使いながら、減税による5兆円だけを確定した「穴」として扱うのには疑問が残る。
柳ヶ瀬議員は、1.1では「経済成長しても大して税収は増えないというロジック」になると批判している。
経済学者の高橋洋一氏も、減税の効果を見るには、減税がGDPをどれだけ押し上げるかと、その成長が税収にどれだけつながるかを合わせて見る必要があると指摘している。6兆円の減税、減税乗数3、税収弾性値3という仮定による試算では、税収増が約6兆円になるとの計算例も示した。
重要なのは、減税額だけをそのまま「失われる税収」として見るのではなく、その後の経済の動きまで含めて考える必要があるという点だ。
では、今使っているお金は全部必要なのか
新しい政策に「財源を示せ」と求めるなら、すでに使っているお金にも同じ厳しさが必要だろう。
実際、令和7年度だけでも2兆993億円の不用額が出ている。予算を組んだ時点では必要だとされたお金が、実際には使われなかったということだ。
税金も社会保険料も、結局は国民が負担している。
一度始めた事業だから翌年も続ける、予算がついているから使い切る、補助金制度があるから配る。そんな形で支出が固定化してはいないだろうか。
本来なら、政策の目的がまだ存在するのか、その方法が最も効率的なのか、別の制度と重複していないのか、投入した費用に見合う成果が出ているのかを、何度でも見直す必要がある。
財源を考えるというのは、新しい税金を探すことだけではない。
今使っているお金を、もう一度組み直すことも財源論のはずだ。

既存支出の見直しや歳入全体も選択肢になる。
「支援」という名前だけで判断してはいけない
子育て支援、NPOへの補助金、外国人を対象に含む支援、国際交流、多文化共生、女性支援、地方創生。どれも、名前だけを見れば反対しにくい。
ただ、目的が正しいことと、その事業の中身まで正しいことは別だ。
実際、最近は公金の使い方に疑問がつく事例も表面化している。
会計検査院の令和6年度決算検査報告では、不適切と指摘されたものの、まだ返還や改善が終わっていない案件が316件、約89.8億円残っている。
これはNPO全体が問題だという話ではない。公益性を掲げる活動だからこそ、どの事業にいくら使い、どんな成果が出たのかを確認する必要がある。
必要なものは残し、効果が薄いものは見直し、似た事業はまとめる。
「財源を探す」とは、新しい負担を増やすことだけではなく、今ある支出の優先順位を組み直すことでもある。
社会保険料が増えるのは、高齢化だけなのか
もう一つ、私が気になっているのが社会保険料だ。
会社員の給与にかかる主な社会保険料を労使合計で見ると、30年前に約25%だった社会保険料は、現在では30%前後になっている。

この30年で約25%から30%前後まで上昇した。
社会保障費が増え続ける理由として、まず挙げられるのが高齢化だ。高齢者が増えれば、年金や医療、介護に必要なお金も増える。医療技術の進歩によって、高価な治療や薬が増えることもある。
ただ、その実態は巨額の数字だけでは見えにくい。
私自身、毎年の健診のたびに血圧の薬が一種類ずつ増えていく経験の中で、ふと手元の処方箋を見つめて首をひねることがある。
この一錠は、本当に必要なのか。
個人の経験だけで医療制度全体を語ることはできない。それでも、高齢化だけでなく、一人当たりの医療費がどう変化しているのかも見なければ、社会保障費が増える理由は分からない。
社会保障には、年金や高齢者医療だけでなく、介護、子育て、障害福祉、各種給付など多くの制度がある。
何が、どれだけ増えたのか。高齢化による増加と、それ以外の増加を分けて見なければ、本当の姿は分からない。
必要だから集めたのか、集まったから使ったのか
社会保険料が足りないから保険料を上げる。社会保障の財源が必要だから消費税を上げる。私たちは長いあいだ、そう説明されてきた。
必要な支出が先にあり、それを賄うために負担を増やしたという順番だ。
だが、そこに逆の力は働いていないのだろうか。
使える財源が増えたことで、制度や支出の範囲が広がった面はないのか。
必要だから負担を増やしたのか。それとも、負担を増やしたことで支出する範囲まで広がったのか。
ここは一度、数字で確かめる必要がある。
国の限界は、財源の数字だけではない
「財源がない」ということだけで、政策の可否を決めるべきではないだろう。 しかし、予算さえつければ、何でも実現できるわけでもない。
政策を形にするために本当に必要なのは、帳簿上の数字だけではなく、現場で働く人、モノ、技術、設備といった、現実の資源である。
どれほど予算をつけても、建設会社や作業員、資材が足りなければ道路はつくれない。介護施設を増やしても働く人がいなければサービスは提供できないし、工場を建てても技術者や電力が不足していれば生産は増えない。
そして、政府が予算をつけても、それだけで人やモノ、サービスが湧いて出てくるわけではない。欲しいという需要だけが増え、供給できる量が変わらなければ、世の中のモノが取り合いになって価格が上がる。
国にとっての限界は、財源の数字だけではなく、こうした現実の供給能力にある。 だからこそ、支出を増やせば何でも解決するわけではない。
そのお金によって供給能力が増えるのか、それとも需要だけを増やして物価を押し上げるのかを見る必要がある。
ただし、ここで一つ区別しておきたいのは、「何が原因で物価が上がっているのか」という点だ。
もし経済が過熱して誰もがモノを買いあさり、供給が追いつかずに物価が上がる「需要増のインフレ」であれば、減税でさらに買い気を煽ることは火に油を注ぐことになる。
しかし、現在の食料品の値上がりは、円安や原材料費・輸送費の高騰によるものであり、供給側の生産能力が足りないというよりは、海外からの輸入コストが上がった結果、生活必需品の価格が押し上げられている状態だ。
この局面での食品減税は、贅沢品の消費を煽る「需要刺激」ではなく、高騰した生活必需品に対する「購買力の低下を補う防波堤」として機能する。
お米やパンといった毎日の食品は、減税されたからといって食べる量が2倍・3倍に増えるわけではない。少なくとも、食品減税だけで需要が急増し、供給能力を大きく上回ると考える必要はほとんどない。
むしろ本当に問題となる供給能力の制約は、「物流の人手不足」や「農業・食品加工現場の労働力不足・エネルギーコスト」そのものだ。
減税で家計の負担を和らげつつ、集めた税金や予算をいかに「食料の安定的供給(国内生産基盤や流通インフラの強化)」に振り向けるかという、供給側の整備とセットで論じる必要があるのではないだろうか。
「財源は?」の、その先へ
「財源はどうするのか」
この言葉は、あまりにも便利に使われすぎている。
ここまで調べてきて、私が最後にたどり着いたのは、もっと単純な疑問だった。
財源は、本当になかったのだろうか。
令和7年度だけを見ても、税収は3兆5,246億円上振れし、使い残した予算(不用額)は2兆993億円あった。合わせれば5.6兆円を超える。
問題は、「財源があったか、なかったか」だけではない。 増えた収入を何に使うのか。余った予算をどう扱うのか。その優先順位を誰が決めるのか。
そこにこそ、政治の選択がある。それなのに、減税の話になると「財源がない」という言葉だけが先に出てくる。
私には、「財源がない」という言葉が、政策を選ばないための言い訳として使われているようにしか見えない。
そして、もう一つ気になる批判がある。
今回の食品の消費税減税は、最初から2年間限定とされている。それにもかかわらず、「2年後に税率を元へ戻すのは大増税だ」と批判する声がある。
だが、2年後に元へ戻すことが問題だと思うなら、反対すべきなのは今の減税ではなく、「2年後に戻す」という判断そのものではないだろうか。
減税に慎重な立場からすれば、「一度下げた税金を2年後に戻そうとしても、政治的に引き上げられなくなるのではないか」「結果として将来の財政が立ち行かなくなるのではないか」という懸念があるのもわかる。
しかし、後で戻すのが大変だからといって、今必要な減税すら選択肢から外してしまうのは、議論の放棄ではないだろうか。
減税には「財源がない」と反対し、決まれば今度は「2年後に大増税になる」と批判する。これでは、結局どちらへ動いても反対できてしまう。
さらに負担そのものを問題にするなら、食品だけでなく消費税全体の引き下げまで議論すべきだと思う。
本当に財源はなかったのか。減税は続けられないのか。
後から戻すリスクも含めて、どうコントロールするのか。
そこまで確かめてから判断したい。
私の理解に誤りがあれば、ぜひご指摘いただきたい。
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