日米が交わる “光と熱気” の現場で—ホノルルマラソン NIKE Promotion(2008)
仕事場の記憶 Vol.10
このシリーズは、私が長年立ち続けてきた“現場”の記憶です。
変化の激しい時代の中で、自分がこれまでどんな現場に立ち、どんな熱狂を作ってきた人間なのか。その足跡を具体的に残すために、この「仕事場の記憶」を綴っています。
光と音の温度、人の表情、空気の重さ、言葉では残らないものを記録しています。
ホノルルマラソンと日本人
1973年に第1回が開催されたホノルルマラソン。
当初のエントリー数は
わずか162名(ホノルルマラソン公式HPより)だった。
ハワイが日本人にとって“身近な外国”になったのは、
1980年代半ば以降のこと。
1985年のプラザ合意によって円高が進み、
海外旅行ブームが一気に加速する。
この流れの中でホノルルマラソンの参加者も増加。
80年代には1万人前後、
90年代には3万人を超え、
2000年代には2万5千人規模で定着した。
驚くべきはその参加者の約6割が日本人という事実。
つまり、アメリカ・ハワイで開催されるマラソン大会の
半数以上が日本からの参加者なのだ。
12月初旬という旅行の閑散期に、
2万人近い日本人が一斉にハワイへ押し寄せる。
JALが冠スポンサーを務める理由は、そこにある。

Nikeとホノルルマラソン
当時、Nikeは
ホノルルマラソンのオフィシャル・アパレル・スポンサーとして、
大会期間中【HONOLULU MARATHON】ロゴ入りの公式ウェアやグッズを
現地で販売していた。
現地の運営は、
ナイキジャパンとナイキアメリカ(アメリカ本土とホノルル・ナイキタウン)による日米混合チーム。
前年にローンチされた
「NIKE+」システムのプロモーションを担当していた私にも声がかかり、
日本で展開していた「NIKE+」プレゼンテーションを
ホノルル版にアレンジして持ち込むことになった。
※「NIKE+」(ナイキプラス)システムとは、
NIKEとAppleが共同開発したランニングサポート機能。
NIKEのシューズにセンサーを入れ、iPodと連動させて走行距離やペースを管理できるシステム。
現在は、「Nike Training Club」として進化している。
22年ぶりのハワイへ
大会の6日前、ホノルル空港に降り立った。
私にとってハワイは、22年ぶりの場所。
初めての海外出張もハワイで、
当時は“英会話ハウツー”の映像制作の仕事だった。
今回の目的は、ホノルルマラソンを前に
4日間開催される【ホノルルマラソンEXPO】でのプレゼンテーション。
Nikeブースではシューズやアパレルの販売のほか、
特設ステージでのイベントが組まれていた。
特筆すべきは、20種類以上展開された
【HONOLULU MARATHON 2008】ロゴ入り記念Tシャツ。
この期間、ここでしか買えない限定Tシャツを求めて、
多くの日本人ランナーが詰めかける。
当時は1ドル80円前後という記録的な円高も追い風になり、
飛ぶように売れていった。
EXPO初日 ― 非日常の熱気
宿泊先はワイキキビーチ近く。
朝、Nikeの方たちとアラワイ運河沿いを歩いて会場へ向かう。
コンベンションセンターでは日米合同スタッフ約50名が、
販売・案内・プレゼンと持ち場に分かれて準備に追われていた。
EXPOは出場者がゼッケンを受け取るために必ず訪れるイベント。
開場前から長蛇の列ができ、オープンと同時に会場は人の波で溢れた。
【写真:EXPO会場風景】




「ハワイという土地」「非日常の高揚」「円高の追い風」。
そのすべてが交じり合い、
これまでに経験したことのない
独特のエネルギーが会場を包み込んでいた。
来場者の多くはまだ日焼けしていない。
“これから挑戦する人の表情”があちこちにあり、
笑顔がまぶしかった。
4日間のEXPOは、大きなトラブルもなく盛況のうちに幕を閉じた。
大会当日 ― 大らかな島の空気
マラソンのスタートは午前5時。
私たちは5時半に集合し、
ゴールの約5km手前にある最後の上り坂地点へ。
ここはコースの中で最も苦しくなる場所だ。
夜明けの光が少しずつ差し込むなか、
先頭ランナー、続く集団、
そして歩きながらゴールを目指す人たちが通り過ぎていく。


ホノルルマラソンには時間制限がない。
それぞれが自分のペースでゴールを目指す。
ゴールポストは8時間後に撤去されるが、
翌日にゴールする人もいるという。
そんな“ゆるやかさ”が、この大会の象徴だ。
住宅街を走るランナーの間を、
地元の人がサーフボードを抱えて歩いていく。
この緩やかな共存こそ、ホノルルらしい光景だった。

ロイヤルブルーの誇り
完走者だけが手にできる「フィニッシャーズTシャツ」。
この年は鮮やかなロイヤルブルー。
ゴール後のランナーたちは
そのTシャツを誇らしげに着て街へ繰り出す。

やがてホノルルの街全体が、
ロイヤルブルーで染まっていく。
カラカウア通りを歩くその光景が、
マラソンの余韻を静かに物語っていた。
後日談 ― “緩さ”の裏側
ホノルルマラソンには、
軽い気持ちで参加する日本人も少なくないという。
普段走っていないのに“なんとなく出てみよう”と参加し、
翌日空港で歩けず、車椅子で帰国する人もいるらしい。
どんなに空気がゆるやかでも、フルマラソンはフルマラソン。
“完走”という目標の裏には、見えない努力と準備がある。
参加を考える人には、ぜひトレーニングを積んで挑んでほしい。

エピローグ
日本で行うイベントとはまったく異なる空気。
そこには、土地の文化、時間の流れ、
人の気配までもが溶け込んでいた。
ホノルルマラソンという“祝祭の現場”に立ち会えたことは、
私の仕事人生の中でも忘れがたい経験のひとつである。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
光と音の交差点で生まれた、
小さな“現場の記憶”を残しています。
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次の現場へ灯りをつないでください。
✒筆者関連シリーズ
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