”いい男”が墓参りに来なくなった日
箸を渡そうとすると、キンちゃんはまるで五歳児のように、首を振りながら受け取るのを拒否した。
小さな、絞り出すような声で、
「いやだ」
嗚咽と言葉を繰り返している。
身体の形をとどめた場所にある骨が、目の前にあった。
顔の部分にわずかな父の面影があった。
ただ、家族というのは、実体がなくなったことで意外と泣かないものだ。
箸を一緒に持った僕と妹は、淡々と骨壺にひとつの骨を移した。
しかし、キンちゃんは箸を受け取らない。
「いやいや、待ってよ」
僕が言うと後ずさりをする。
妹も思わず笑ってしまっていた。
四十七歳のキンちゃんは、ついには火葬場でしゃがみ込み、高い声を上げて泣いた。
そんな姿を見たのは、二度目。
一度目はエレベーターの中から聞こえたものだった。
父は祖父の命日に喘息発作を起こした。
その日、仕事で遅くなった僕は、なぜかタクシーを使って家に帰った。
玄関を開けると、父は背中を丸めて座椅子に座っている。
母が背中を撫でながら、僕を困った顔で見た。
テレビでは、競馬ダイジェストが流れていた。
僕はテーブルをはさんで、父の斜め前に座った。
ちょうどメインレースの結果を流しているときで、配当を見ながら、
「へえ、結構ついたね」
父と共通の趣味である競馬の話を振ったが、父は唇を噛むように耐えていた。
「ヒューヒュー」
と父の胸のあたりから音がした。
深夜、出版社へ送る原稿を書いているときにも聞こえていた音だ。
ただいつもより、音が強いように感じた。
母は何度も救急車を呼ぼうと言ったようだが、日曜日の夜にサイレンが近所の迷惑だと父は言うことを聞かなかったらしい。
「やっぱり病院へ行った方がいい」
と僕が言うと、父は目だけを向けてうなずいた。
そして、僕の来ていたカーディガンの腕のところを触って、
「寒いか?」
と聞いてきた。
冬の深夜なのだから、当然外は寒い。
「着る?」
と聞くとうなずくので、僕はカーディガンを脱いで、父に渡した。
父がゆっくりと袖を通す間、母は保険証などを確認しながら外出の準備をする。
救急車はダメだと、自転車でいつも行っている近所の救急病院へ向かうことに決めたようだった。
背中を苦しげに丸めて玄関に座り、靴を履くと、壁を頼って立ち上がった。
大きな背中が、小さく揺れた。
なぜか、僕はシャワーを浴び着替えて、電話の前に座った。
父と母が出てから、二十分ぐらいたっただろうか、時計は一時を指し二月に入った。
ワンコールで取ると、母の泣き叫ぶような電話口の声が聞こえた。
二階へ上がり、妹を起こして自転車の後ろに乗せて、暗い夜道を走った。
父は診療室のベッドの上で暴れていた。
苦しいのだ。
僕は馬乗りになって父を抑えた。
胸を開くために切られたカーディガンが、床に落ちていた。
近隣の大学病院に救急車で運ばれ、暗いロビーで待たされたあと、呼びに来た看護師に連れていかれたのはICUだった。
「もう意識が戻ることはありません」
医師の言葉に泣き崩れた母。
代わりに説明を聞いていたが、言葉はただ耳を通り過ぎていくだけだった。
母は、入院の準備をすると言い、タクシーで自宅へ戻った。
内科病棟のロビーで、妹と二人、黙って座っていた。
やがて陽が昇り始め、窓から少し離れたところにある遊園地の観覧車が見えた。
キンちゃんとリョウヘイちゃんが、病院に来たのは昼過ぎだった。
二人は父の三つ年下の友人で、とくに僕を幼いときからかわいがってくれた人だ。
父がそう呼んでいたので、僕は二人を“ちゃん”づけで呼んでいた。
リョウヘイちゃんは、戻ってきていた母の泣きながらの説明を黙って聞いていた。
キンちゃんは、座っていた僕の方を後ろから何度も叩いた。
荒い呼吸が聞こえる。
涙もろい人だとわかっていたので、振り向かずに僕はうつむいていた。
キンちゃんはそのまま高校生の妹の頭を何度も撫でながら、うなずいていた。
そして窓の方へ歩いていき、震える背中で外を見ていた。
現役だった父の同僚や上司、友人が見舞いに来た。
入れ替わりに来る訪問者の相手をすることで、僕は悲しむ暇を失くしていた。
翌日も、その翌日もキンちゃんとリョウヘイちゃんは、仕事を休んで病院に来た。
ICUは、面会の時間が制限され、行ける人数も決まっている。
医師に
「親しい人には今のうちに」
といわれていたので、家族以外で初めてキンちゃんとリョウヘイちゃんが行くことになった。
キンちゃんは嫌がっていたが、リョウヘイちゃんに引っ張られながら、エレベーターの中へ消えていった。
三十分ぐらいたっただろうか。
「チン」
と音が鳴り、エレベーターの扉が開いた。
その途端、キンちゃんの泣いている声が響いた。
リョウヘイちゃんに抱きかかえられながら、ロビーに戻ってきたキンちゃん。
僕を抱きしめ、周りの目など関係なく、声を上げて泣いていた。
四十七歳の男の悲しむ声を初めて聞いた。
「なんだよキンちゃん」
幼いころ泣いている僕を抱きしめてくれたときに、
「どうした」
と優しく抱き上げてくれたことを思い出しながら、キンちゃんを受け止めた。
こんなに小さな人だったのかと、二十二歳の僕はいつのまにか小柄になっていたキンちゃんの背中を軽く何度もたたいた。
リョウヘイちゃんは、椅子に座ってすぐに、ひとつ息を吐いた。
涙が一筋、静かに頬を流れていった。
ロビーに来ていた他の入院患者が、目をこすりながら自分の部屋に帰っていった。
父は、
「女にモテるより、男に好かれる方が難しいもんだ」
といっていたことを思い出した。
泣いているキンちゃん、涙を一筋流したリョウヘイちゃんの姿を見て、父の自慢気な顔が浮かんだ。
入院して二十日目、キンちゃんとリョウヘイちゃんが来なかった日、狙ったように父は逝った。
最期の瞬間になって、突然涙があふれて止まらなくなった。
緊張の糸が途切れ、ベッドに横たわる父に何度も
「ありがとうございました」
と言い続けた。
医師が静かに時間を口にした。
仮通夜を自宅で行ったのは、僕の二十三歳の誕生日だった。
少ない親戚が集まっていたときに、キンちゃんとリョウヘイちゃんは連れ立ってきた。
リョウヘイちゃんは手に箱を持っている。
ケーキだった。
「それはそれ、これはこれ。誕生日だもんな」
僕の前にいくつものケーキを並べた。
棺桶の父の顔をリョウヘイちゃんは見て、
「ずいぶん若返ったもんだな」
と言いながら、僕にケーキを勧め、妹も手招きしていた。
キンちゃんは終始うつむいていた。
その表情は、葬祭場の通夜、告別式と変わることはなかった。
ただ我慢をしていたのだろう。
火葬場で骨となった父の形を見て、堰を切ったように崩れ落ちた。
キンちゃんがリョウヘイちゃんと一緒に骨を拾ったのは、結局最後になった。
父の命日には、僕はひとりで墓参りをしていた。
家族と一緒は避けたかった。
線香を売る墓守がいて、そのおばちゃんが、
「いい男がお参りに来ていたよ」
と教えてくれた。
おばちゃんは、キンちゃんを気に入り“いい男”と呼んでいたので、だれかはすぐにわかった。
墓に行くと、花が供えてあった。
三回忌のときに、キンちゃんがC型肝炎になったのを聞いていた。
通っていた病院が近いので、時折お参りに来てくれているようだった。
七回忌までキンちゃんとリョウヘイちゃんは呼んだが、そこからは家族と近しい身内だけの法要にしていたため、キンちゃんと会う機会はなくなっていった。
休日、目覚ましをかけずに寝ていると、階下で電話が鳴る音がした。
母が出る気配を感じても、起きるつもりはなかった。
ただ母が階段を上がりながら、
「お兄ちゃん、キンちゃんから」
その言葉を聞いて飛び起きた。
妹も部屋から出てきた。
「なんか喫茶店に来ているからって」
家ではなく、駅近くの商店街にある喫茶店にいるという。
電話に出ると、懐かしいキンちゃんの声が聞こえた。
「今近所に来ているんだ」
「聞いたよ、どうしたの?」
「来れるか?」
「大丈夫だよ」
「来るんだな…すぐ来るな」
「行くよ」
何度も何度もそのやり取りをして、母と妹も一緒に喫茶店へ向かった。
一番奥のテーブル席にキンちゃんと奥さんが来ていた。
それほど大きな店ではない。
ただキンちゃんは大きく手招きをする。
テーブルに着くと、
「なんでも頼め、パフェがいいか?ん?」
「いやいや、もう子供じゃないんだから」
そこへウェイトレスが来て、キンちゃんの前に大きなパフェを置いた。
「年なんかお前、関係ないよ」
やたら明るく、キンちゃんはパフェを食べ始めた。
リョウヘイちゃんは父の後輩で、キンちゃんはその幼馴染というところから、父との付き合いが始まった。
溜まり場になっていた家に来ては、麻雀をする他の人たちを尻目に、僕をかわいがり車に乗せてくれた。
遊園地、動物園、プール、父ではなく、キンちゃんとリョウヘイちゃんに連れて行ってもらったところがほとんどだ。
しかし最近は、キンちゃんとリョウヘイちゃんの付き合いはなくなったと話した。
「会えば手ぐらい上げるけどな」
二人はいつも一緒というイメージがあったので、寂しさを感じた。
それを察したように、キンちゃんは僕の幼いころのこと、父の笑い話、身振り手振りで一方的に話した。
「キンちゃん、身体は?」
話が途切れたところで聞いた。
「そんなことはどうでもいい。それよりまだ書いているのか?」
「いや最近は…」
「そうか…でも、また書きたくなったら書けばいい」
小さくうなずいた。
そして、
「マーちゃんの息子なんだから、まともではないんだからな」
と茶化すように言った。
「お前は俺と違って顔が悪いから他で頑張れ」
なぜか父の言葉が聞こえた気がした。
一時間ほど話して、ひとつ大きくうなずくと、キンちゃんは席を立った。
奥さんも驚いたようだったが、すぐに合わせて立った。
駅へ向かうキンちゃんは、並ぶことを拒否するように、足早にひとりで歩いていった。
そしてまっすぐ伸ばした背中を見せたまま、振り向かず手を上げて改札の中へ入っていった。
奥さんが頭を下げながら、あとを追う。
意識せずに、僕は頭を下げていた。
それから数年後、命日に墓参りへ行ったとき、
「最近“いい男”来ないね」
と墓守のおばちゃんが言った。
「そう」
僕は答えて、線香を受け取り、我が家の墓へ向かった。
墓の前に座り、線香を立てた。
風に揺らめく煙と白い息が混ざり合った。
手を合わせて、目をつぶる。
キンちゃんの背筋を伸ばした背中が浮かんだ。
※一本ずつ独立したエッセイ。以下はテーマが同じもののリンクです。
父についての連作エッセイ①
逃げ場所は映画館
父についての連作エッセイ②
観覧車のあるビル
父についての連作エッセイ③
星は威張らない
父についての連作エッセイ④
照れくさそうに見続けた父
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