結局は『感』
何かを決めるとき、どうしているか?と聞かれるときがある。
そんなとき、ほぼ100%で「感」と答えている。
「だからお前はいつまで経っても地に足が着かないのだ」
と周りから言われるかもしれないが、そうなのだから仕方がない。
だいたい、将来、未来のことを考えてもわかるわけがない。
考えて、考えて、考え抜いて、こっちが確実だろう、と思って進んだのに、脆くも崩れる。
そんなことはいくらでもある。
麻雀でいくら多面待ちをしていても、その牌を他の3人がすべて持っていれば上がれない。
逆に、たとえ待ち牌が残り1牌であっても、山にあれば可能性は残る。
ようは確率が高いと言うだけの話だ。
「じゃあお前は迷わないのか?」
と問われれば、当然人の端くれである以上悩む。
いくら考えないようにしようと思っても、不安から逃げることは出来ない。
答えの出ないものを、ああでもないこうでもないと考えて朝を迎えることもある。
しかし結局、決断の時を目の前にすれば、「感」を頼りに動くことになる。
あくまでも「勘」ではなく「感」の方だ。
その決断を前にしてなにをどう感じるか?を大事にしている。
というよりも、単純にしようとしているのかもしれない。
「好き」か「嫌い」か。
基準なんてそんなものではないだろうか。
「感」というのは磨かれるものだと思っている。
上手く行ったり失敗したりしながら磨かれて、働くようになるようになるのではないだろうか。
「知」は人を説得するために使うもので、いくら考えて理屈をこねても自分を納得させることは出来はしない。
「ちょっと待て、他人の言葉も参考になるのではないか」
という人もいるだろう。
確かに親身になってくれる人の言葉は大切だ。
しかし結局は、どんなに相手のことを思おうと、自分の価値観からはなれることは出来ない。
親友や恋人、偉大な詩人や作家の言葉は、ときに影響を与える。
ただそれを選んでいるのも、自分の「感」ではないだろうか。
「感」を働かせ、いろんな経験をして人は覚える。
それを「感覚」というのだろう。
「感情」
「感性」
「感覚」
心はいつも「感」によって動く。
だからなるべく考え過ぎず「感」にゆだねる。
悩んでも、結局答えはそこから出ると思うから。
失敗したら、勝負事で負けたときのように「感が鈍かった」と思えばいい。
他人のせいにするより、よほどあきらめがつく。
一度の失敗が人生を支配するものではない。
何度か転べば、起き上がり方も覚える。
やがて起き上がれなくなる時が来る。
すべてはその時、振り返ればいい。
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