憧れを向ける先は…
「バカだなあ…お前は」
少年に向かって、その男は言った。
少年が男に出会ったのは、アルバイト先の小さなレストランだった。
男は三十歳を超えていたが、定職につかずバイト生活をしていた。
少年はその男が好きだった。
地位や立場にはなびかなかったが、目下の者のためには平気で頭を下げる人だった。
かばってくれた礼を言うと、照れくさそうに手を振り背中を向けた。
周りの人たちはそんな男を見て、
「今時、こんな生き方をして」
と呆れたようにこぼした。
それは彼の仕事ぶりが邪魔だったせいもある。
洗って並べて乾かせばいいコップを、灯りを通してみて、汚れがあると拭き取っていった。
「ありがとうございました」
店員の中で、必ず笑顔で言っていたのは男だけだった。
そのことを少年が口にすると、たばこを大きく吸い込み、
「不器用なだけだ」
と空へ向けるように、煙をふわりと吐き出した。
「世の中っていうのは、肩書きがあったほうが便利だ。
ないよりあった方がいい。
支えがあれば、楽に立っていられる。
でも自分の力と思えば、足をすくわれる。
大切にしないとな…味方になってくれる人を」
店が暇な時、男がふと漏らした一言だ。
少年は男の様な大人になりたいと言った。
それを聞いた男は、
「お前はオレとは違う人間だ…
どんなに望んでも、オレはお前にはなれないし、
お前はオレにはなれない。だから…」
そう言い、少年を見た。
「どうせ憧れるなら、自分にだ。
こうなっていたいという心に描いて、
その姿になるために進めばいい」
そして体を伸ばすと、
「と、いうことだ」
立ち上がって仕事に戻っていった。
男はそれからしばらくして、
「辞めるから」
と手を差し出した。
ささくれだった指は、決してきれいではなかった。
意外に柔らかい手にあったペンだこが、少年の指を固く押した。
男が物書きを目指していたのは、会えなくなってから知った。
時折デニムの後ろのポケットから、小さなメモ帳を出して、何かを書いていたのを見たことを思い出す。
それだけで出来るペンだこではない。
多くの文字を部屋で一人、書いていたのだろう。
パソコンではなく、手書きで書いている背中が浮かんだ。
少年はやがて青年になり、平凡な肩書きを手に入れ社会の中にいる。
仕事に疲れた電車の中や、下げたくもない頭を下げたあとに、ふと男のことを思い出す。
「こうなっていたいと憧れた自分になれているのだろうか?」と。
きっとなれていないだろう。
そんなとき、聞こえてくるのは、
「平凡をバカにするものじゃない。
それだって難しいぞ。
お前は諦めるほど、生きたのか?
オレだってまだ諦め方がわからない」
という男の言葉を。
諦め方を知った大人より、未完成だという男の方が魅力的だ。
そう思っていても、自分にはなれない。
不器用を隠すより、器用に生きる方が楽だと気付いてしまっているから。
この日も減った名刺と同じ数だけ、顔も思い出せない人達の名刺がカードケースを埋めている。
だから、数々の男の一言が、いつまで心に問いかけてくる。
少年の頃に持った憧れは、そのままの姿で残り、だれの言葉よりも心にとどまっている。
そんなことを思っていると、隣からこんな言葉が聞こえそうだ。
「バカだなぁ…お前は」と。
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