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写真の中の祖父

私は生まれたときから、何度も撫でられたかのように、頭の後ろの右側の角がなかった。
母がどれだけ枕にしっかり頭を乗せても、右を向いて寝てしまう。
それを見て、
「変なところが似るものだ」
と父は思ったという。
祖父も同じような頭の形をしていたからだ。

成長するごとに私は祖父に似ていった。
父は祖父との関係があまりよくなかったため、それはうれしいことではなかったようだ。
ただ私は、会ったことのない祖父に大きな興味を持った。

「やたら優秀だったらしいよ」
祖父は群馬の武家を先祖に持つそれなりの家柄の長男に生まれた。
学校では「この子は東大に入る」といわれるほどだったという。

しかし継母との折り合いが悪く、祖父は家を出る。
祖父の父(私にとっては曽祖父)は、
「あんなのは勘当だ!籍を抜いて来い」と命じた。
慌てて家のものが役所へ行くと、もうすでに籍は抜かれていたのだから、けじめをつけた家出だったようだ。

祖父は東京に出て、芸事をしていたのは父から聞いていた。
有名な舞台俳優と交流があり、自身は自己流で覚えたバイオリンやハーモニカなど音楽を担当して、浅草や深川の舞台に立っていたという。
琵琶の「名執」でもあったというのだから本格的だ。
ただ、祖父はあっさりその世界から抜け出した。
強い決断力をもち、決めたら迷いなく進むという人物が浮かび上がる。

父が芸能界へ興味を示したとき、大反対したのは、「食える仕事ではない」ということを知っていたからと想像できる。
反対するしかなかった祖父の不器用な愛情は、父に伝わることがなく、親子関係を悪化させていった。
父が話したがらないのは、そういう理由があったのだろう。

実際芸事では食べてはいけない。
祖父は、どこで身に着けたのか床屋を開き、祖母の実家があった目黒で店を開く。
人を使っていたぐらいだから、それなりに繁盛していたのだろう。
しかし時は、日本を戦争に向かわせた。

学歴のない祖父だったが、なぜか内地の被害の少ないところに配属された。
この辺りにも世渡りのうまさがうかがえる。
戦後、ヤミ米を買いに行き、途中で捕まる人が多い中、祖父はたっぷりと持って帰ってきたという。
祖父に言わせれば
「堂々としていれば捕まらない」
というだけだった。

その「堂々」とウソをつく才能は、戦後の就職にも役立つ。
祖父は東京電力の前身となる会社へ入る。
もちろん学歴などないに等しいのだから、今話題の「詐称」したことは間違いない。
ただ入ってからは、その切れる頭で文句を言わせない働きをして、出世をしていった。

両親の仲人をした人は、父が兄とも慕った人で、祖父の部下だった人だ。
父がなかなか話したがらない祖父のことを、私はその方に聞いた。
「あれほど頭の良い人は見たことがない」
それが第一声だった。
小さな知識を応用してすべてを理解する人だったという。

芸人崩れそして床屋だった人が、東京電力に入ったのだ。
当然専門的に学んだことなどない。
それが少し説明するだけで、
「ああ分かった」
と手を付けて見事にこなしてしまったという。

「一を聞いて十を知る」
そんな言葉がそのまま当てはまる人だったようだ。
相手の気持ちを見抜く力があり、飽きさせない会話できる人だったようだ。

そのうえで、酒は欠かさずどころか飲み過ぎるぐらいだった。
賭け事はしなかったが、祖母と結婚する際には、
「これは俺の子だ」
とよそに作った子供の写真を見せた。
女性関係もかなり派手で、そんな人だから祖母の実家で評判が悪かったのは当然だ。

それだけの遊び人が、どうやって金を貯めたのかわからないが、祖父は六本木の芋洗い坂に土地を買い、宮大工に家を建てさせた。
ここが私の生まれ、6歳まで過ごした家であり、雪見障子に家紋の入っていた。
その時は、
「なぜ絵が描いてあるのだろう?」
としか思っていなかったが、今思えば家出をしたが家柄に誇りを持つ「粋」な人だったのだと感じる。

六本木に家を建てるというのは、大きな仕事だ。
祖母の実家でも見直したと、新築の挨拶に来たという。
その時に祖父は、
「お前らに上がらせる玄関などない。雑巾で足を洗って裏から上がってこい」
と怒鳴りつけたという。
祖父を好ましく思っていなかった父だが、その言葉は心に響いたと話してくれた。

ただ祖父は自慢の家に長く住むことはできなかった。
酒のせいなのか、癌にかかってしまったのだ。
病院にかかったときには、もうどこから悪くなったのかわからないぐらいだったという。
それでも酒をやめることはなかった。
ただやがて体が受け付けなくなり、覚悟をしたのだろう。

「これまでだ」
知り合いの写真屋を呼ぶと、喪服を着て「遺影」に使う写真を撮った。
それから間もなく、亡くなったという。
最後の言葉は「失敗した」と父の育て方についてだったという。
父は悲しみよりも「勝った」という気持ちの方が強かったという。
自由を手に入れたと思ったと話していた。
しかし勝つことはなかったという。
葬式の列は、芋洗い坂から交差点まで続き、知らない人が並んでしまうほどだったという。
その列を見たとき、父はかなわないと本心から思ったそうだ。

父は生前祖父のことを語りたがらす、写真すら見たことがなかった。
たださすがに捨ててはいなかった。

妹が2階の自室を掃除していたとき、笑いながら階下に降りてきた。
「これお兄ちゃんに似ていると思わない?」
縁側で自分が剪定した盆栽を見ている笑顔の写真だった。
自分でも「似ている」と思わず笑ってしまったぐらいだった。

父も亡くなる前の10年ぐらい、狭い庭で植物を育てたり、絵を描いたりしていた。
「オレは似ていない」
と言い張っていたが、親子なのだから似ているところがあって当然で、晩年植物を好んだのは同じだ。

妹がもう一枚見つけた写真は、和服を着て琵琶を抱えた若き日の祖父だった。
父にも似ているが、私にも似ていた。
「中身や話し方が似ているんだ。お前は…でもまあ、生きていたら自分に似た孫をかわいがってくれたんじゃないか」
どうやら頭の出来は似なかった孫だが、会うことができなかったにもかかわらず、親しみを感じている。

自分で頭の後ろの欠けたような右側を撫でてみる。
姿はなくても、自分の中にいる。
祖父だけでなく、父の手を感じたような気がした。

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