見出し画像

【7月32日】|風まかせ文芸部

ジリジリと肌を焼くような太陽の下、蝉の声が狂ったように響いている。

「ねえ、本当に明日って来るのかな」

公園の古ぼけたベンチで、幼馴染のタカシがコーラの缶を握りしめたまま、うつむいて呟いた。

僕たちの手元にあるスマートフォンには、あり得ない日付が表示されている。

【7月32日】

昨日もそうだった。一昨日もそうだった。カレンダーのめくれない世界が始まってから、今日でいったい何日目が経つのだろう。世界中の時計とカレンダーは「7月31日」の午後十一時五十九分を迎えた瞬間から、その先へ進むのを拒むように「7月32日」という奇妙な空白の時間を生み出し、毎日同じその一日をループし続けていた。

最初は、夏休みが終わらないことを誰もが喜んだ。宿題の手を止め、大人たちは仕事を休み、永遠に続くかのようなぬるい夏に身を委ねた。

けれど、プールに行ってもゲームをしても、日付が変わらないということは、僕たちの時間が一歩も前に進んでいないということだった。

どれだけ新しい思い出を作っても、それはすべて「7月32日」というおかしな一日の中に積み重なっていくだけ。次の季節も、新しい学期も、決してやってこない。その終わりのない停滞に気づいてから、僕たちの夏は奇妙な虚しさに包まれていた。

「俺さ、もう飽きちゃったよ」

タカシはため息をつく。

「三十一日にみんなが集まってくれたお別れ会も、なんだか遠い昔のことみたいだ。荷造りも部屋の片付けも全部終わって、あとは引っ越しトラックが来るのを待つだけなのに……。また同じ『7月32日』が始まるのをただ待つのって、こんなにしんどいんだな」

僕は自分の胸のポケットにそっと手を当てた。そこには、一枚の小さな紙切れが入っている。 実は、この『永遠の七月』の原因に、僕は心当たりがあった。

7月31日の夜、僕は机に向かって必死に祈っていた。

『どうか、明日が来ませんように。八月一日なんて、一生来なくていい』

なぜなら、八月一日になったら、タカシの家族は遠くの街へ引っ越してしまうことになっていたからだ。一番の親友がいなくなるのが耐えられなくて、僕は近所の神社で拾った奇妙な「文字の欠けた古いお守り」に入っていた紙に、黒の油性ペンで文字を塗りつぶすように願いを書き殴ってしまった。

まさか世界が止まるなんて思いもしなかった。

ベンチの横で、タカシがぽつりと言った。

「八月一日になれば、トラックが来て俺はこの街を出ていく。寂しいけど、ちゃんと前に進みたいんだ。このままだと、ダンボールだらけの部屋で、止まった夏に取り残されたままだよ」

タカシは僕の顔を見て、少し切なそうに笑った。

「君とずっと遊べるのは嬉しいけど、このままだと俺たち、ずっと大人にもなれない気がするんだ」

タカシの言葉が、僕の胸を強く刺した。 僕は彼を引き止めたい一心で世界を止めていた。だけど、それはタカシの、そして僕自身の「未来」を奪っていることと同じだったのだ。

「……そうだね」

僕はポケットからあの紙切れを取り出すと、自分の身勝手な願いの痕跡を拭い去るように、思い切り細かく破る。ビリビリと紙の裂ける音が、蝉の声に混じって響いた。

そして、タカシから空になったコーラ缶を取り上げると、その中へ、紙の破片を一つ残らずねじ込んだ。 もう、二度と取り出せないように。僕たちの止まった夏を、この缶の中に閉じ込めるように。

ゴミ箱へ空き缶を乱暴に放り投げると、カラン、とひどく乾いた音が鳴った。

「行こう、タカシ」

立ち上がった瞬間、首筋を風が抜けた。 ずっと止まっていた風が、動き出したかのような、冷やっとした感覚だった。

見上げると、空はこれまで見たこともないほど深い茜色へと、ゆっくり染まり始めていた。

その夜。僕は自分の部屋で、じっとスマートフォンの画面を見つめていた。 ダンボールに囲まれた部屋にいるタカシも、きっと同じように息をのんで画面を気にしているはずだ。 午後十一時五十九分。 静寂の中、日付が切り替わる瞬間を迎える。

画面が淡く光り、表示が変わった。そこに現れたのは、もう何度も繰り返された「7月32日」ではなかった。

【8月1日】

夜が明け、まぶしい朝の光が部屋に差し込んできた。
窓を開けると、昨日とは違う涼しい風が吹き込んでくる。
僕があれほど拒んでいた、八月が来たのだ。遠くの通りから、大きなトラックのエンジン音が近づいてくるのが聞こえた。

お別れの時は刻一刻と迫っていたけれど、僕の心は不思議と澄み渡っていた。僕たちはようやく、終わらない夏という夢から覚め、それぞれの明日へ歩き出すことができるのだから。

ピンポーン、と玄関のチャイムが響いた。

「タカシだ」

引っ越し作業の合間、最後にあいさつに来てくれたのだろう。
僕は胸を弾ませて玄関を開けた。

だが、そこに立っていたのは、タカシの両親だった。

「……タカシくんのお父さん、お母さん? どうしたんですか、タカシは……?」

僕の問いかけに、ふたりは言葉を詰まらせ、ただ首を横に振るばかりだった。

タカシが、どこにもいないという。 家の中も、近所の公園も、どこを探しても彼が見つからないのだ。

困惑しながら自室に戻った僕は、机の上に置きっぱなしになっていた、あの油性ペンに目をやった。

ふと、冷や汗が吹き出す。

僕はお守りの紙に、なんと書いただろうか。

『明日が来ませんように』

そう祈った。
でも、あのお守りに書き殴った言葉は違う。

苦しくて、悲しくて、油性ペンで何度も塗りつぶしながら書いた、本当の願いは――

『タカシが、この街からいなくなりませんように』

世界の時間は「8月1日」へと動き出した。 

だけど——タカシは、永遠に『7月32日』に取り残されたままだ。



お題:「7月32日」
以下の企画に参加させていただきました。


#️⃣ ハッシュタグ

#風まかせ文芸部 #7月32日 #小説 #短編小説 #創作小説 #ループもの #夏の思い出 #ショートショート #世にも奇妙な物語 #8月1日


いいなと思ったら応援しよう!

ことのは👁‍🗨知識収集家 皆様の応援が、今後の活動の大きな励みになります! いただいたサポートは、より良い作品をお届けするために大切に使わせていただきます。 Thank you for your support!

この記事が参加している募集