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豊川稲荷を守る神は、もとは命を奪う鬼だった

前を通ったことは、何度もある。
朱色の鳥居のところで立ち止まり、中を覗いたこともある。
それでも、いつも入口で引き返していた。

豊川稲荷東京別院。赤坂見附から歩いて八分。

おどろおどろしい、という言葉が近い。
子どもの手を引いているときは、なおさらだった。
紀尾井町の広い歩道へ、オータニの庭へ、そのつど逸れていた。

「行ってみたい」と思うことと、「行っていい」と自分に許すこと。
その二つを、いつのまにか、別々にしていた気がする。

その日は一人で、少し時間が空いた。
分けていたものを、その日はやめてみることにした。

 ***

鬼だった神

鳥居の側面に、卍マーク。
鳥居が「ここは神社ではない」と言っている。

ここは曹洞宗の寺院。正式名は豊川閣妙嚴寺。

お稲荷さんと呼ばれているけれど、稲荷の神は祀られていない。
祀られているのは豊川吒枳尼天という、仏法を守る神だ。

この神様は、稲穂を担ぎ、白い狐にまたがった姿で描かれてきた。
その姿から、いつしか「豊川稲荷」と呼ばれるようになったそうだ。

なぜ、狐なのか。
気になって、少し調べてみた。
たどっていくと、話は仏教より前、インドまで遡る。
もとは、ダキニという鬼神だったという。

墓場に棲んで、死んだ人の心臓を喰らう、女の鬼だ。
物騒な話だが、昔の人にとって、心臓は命そのものだった。
死んだ体から命を取り出して食べる。
死をあつかう者、それがダキニだった。

あるとき、大いなる仏が、この鬼を懲らしめた。
一度は呑み込んで、それから、約束をさせて放したという。
生きた人を襲うのは、やめること。
食べていいのは、死ぬと決まった人の、死んだあとだけにすること。
そのかわり、その人が死ぬまでは、守ってやること。

命を奪う鬼が、命を看取る側に回った。
だから、仏法を守る神になれたのだという。
この話はインドで生まれ、密教の古い注釈書ー『大日経疏』ーに書き継がれてきたものらしい。

狐が出てくるのは、このあとだ。
インドの墓場には、屍を漁る獣がいた。ジャッカルという。
死んだものを食べる、というその一点で、ダキニと同じ場所の住人だった。
その獣が、中国を経て日本に来るとき、狐に置きかわった。
中国にも日本にも、ジャッカルがいなかったからだ。

狐もまた、古い塚に穴を掘り、腐ったものを漁ることがある。
墓場の獣、という像だけが、そっくり狐に移された。
置きかわっても、話は、ずれなかった。
こうして、同じ墓場を分けあってきた鬼と獣が、一つの姿になった。

さらに、白い狐に乗る神。それが、日本にもとからあった稲荷――狐を使いとする、実りと商いの神――と重なった。

「稲荷」は、いつしか、神社だけのものではなくなった。
白い狐に乗る神の、呼び名になった。
だから、禅の寺が「稲荷」を名乗っても、おかしくない。

荼枳尼天と狐の由来、そして寺が「稲荷」を名乗るに至った経緯は、以下のNote記事に詳しい。

Rico「稲荷大神と荼枳尼天の違いとは──なぜ、お寺が『稲荷』を名乗るのか」https://note.com/greenlight_world/n/nc680289b5e56


狐は、あくまでこの神様の使いだ。神様ではない。
それでも参拝者の多くは、「お狐様」に手を合わせている。
使いが、主人より先に、手を合わせてもらっている。
使いを通して、奥の神に願いを届けているのだ、という。

自分は、手を合わせずに、その列を、少し離れて見ていた。

 ***

混じった庭

鳥居の内側は、外の街と、空気が違っていた。

狐の像が、いたるところに置かれている。
赤い旗、赤い提灯、蝋燭の火。
「豊川吒枳尼眞天」の白い文字が、幾重にも重なる。

奥には七福神まで、同じ境内に揃っている。
恵比須も、大黒天も、弁財天も。
境内を回れば、それだけで七福神めぐりになるという。

なぜ、仏を守る神の庭に、福の神が七柱も居るのか。
七福神をまとめて拝む習わしは、江戸のころに広まったものらしい。
七つの災いが消えて、七つの福が来る、という。
七柱のうち、日本生まれは恵比須だけ。あとは、インドや中国から来た神々だ。出どころのばらばらな神を、分けずに、一組にしてある。

なかでも恵比須と大黒は、商売繁盛の神。稲荷もまた、実りと商いの神だ。福を願う気持ちが、同じ方を向いている。
だから、ここに居ても、不思議はない。

ただ、この寺がいつ、なぜ七福神を揃えたのか、その記録は、見つけられなかった。名前も、由来も残らないまま、ただ、一緒に置かれている。

整理されていない。
朱も、赤も、金も、黒も、分けずに置かれている。
神も、仏も、福の神も。
青山通りの、区画された街路を歩いてきた目には、それが異物に見えた。

このお稲荷さんは、もとはここにはなかった。江戸のころ、名奉行として知られた大岡越前守が、この吒枳尼天を、自分の屋敷の守り神として迎えた。
屋敷は赤坂一ツ木にあった。
午の日と二十二日だけ、その屋敷の門が開いた。
普段は入れない武家の庭を、庶民が稲荷参りを口実にして歩いた。
庶民が、参拝を口実にしなければ、武家の庭は歩けなかった。
屋敷が手狭になって、明治二十年、この元赤坂に移ってきた。

場所は変わっても、神と仏が混じったままの姿を、連れてきた。

 ***

寺の鳥居

稲荷と呼ばれているのに、ここは寺だ。
鳥居をくぐって、お経を聞く。
はじめは、分かるようで、分からなかった。

さっきの、仏法を守る神。
それを最初にここへ据えたのは、鎌倉時代の、禅の僧だったという。
自ら像を刻んで、寺の門を守る神として祀った。
はじめから、禅の寺を守る役だったのだ。

寺が本体で、神は守り役。
だから、鳥居で神に礼をして、そのまま堂に上がり、お経を聞く。
昔は、それがふつうだった。
神も仏も、同じ場所に、分けずに置いていた。
明治のはじめ、国が、神と仏を分けると決めた。
その波で、多くの稲荷は神社になった。

豊川稲荷は、波をくぐって、寺のまま残った。もとから、寺に祀られた仏法の守り神だったからだ。
鳥居をくぐってお経を聞く、この分けない形のほうが古い。
分けることのほうが、新しい。

そういえば、と思う。
自分もさっき、分けるのをやめたのだった。
何年も、この鳥居の前で、「行きたい」と「行ってよい」を分けていた。
入りたい自分と、入らない自分を分けて、いつも紀尾井町のほうへ逸れていた。

今日は、それを、分けなかった。

 ***

霊狐塚

奥へ進むと、霊狐塚。
無数の狐の像が、積み上がっている。
苔むしたもの、まだ白いもの、一体一体の表情が違う。
願いが叶った人が、お礼に狐の像を奉げていく場所だという。
使いである狐の像を供えて、奥の神への感謝を、形にする。

さっき参道で見た狐は、みな同じ顔で、同じ方をむいていた。
ここの狐は、一体ずつ、顔が違う。
奉げた人の数だけ、違う祈りが、積み上がっている。

外から覗くと、たしかに少し怖い。
狐の目が四方からこちらを向いている。でも、怖さは長続きしなかった。

代わりに、失礼がなかったか、と気になり始めた。
誰に、何を、と言えるわけではない。
それでも、短い時間しかいられない自分の歩幅が、ここの歩幅と合っていない気がした。

戻り際、融通稲荷の小さな祠の前を通った。
「融通銭お返し処」と書かれたお賽銭箱が置かれている。

ここでは十円玉を一枚、借りる。
財布に入れて持ち帰り、一年後に礼金として返しに来る。
たった十円が、種になるのだそうだ。
授かるのではなく、借りる。
手に入れて、しまい込むより、
借りて、返して、また次の誰かに渡るほうが、ここでは、豊かなことになっている。
自分は、持つことばかり、数えていた気がした。

借りているのは、十円だけではないのかもしれない。
そう思うと、財布をしまう手が、すこし止まった。

 ***

線の引かれた道

来た道を、鳥居まで引き返す。
境内と街を分ける、あの一本の線を、もう一度またぐ。
くぐって、外に出た。

あの庭では、多くのものが、分けられずに置いてあった。
神と、仏。稲荷と、寺。
持つことと、手放すこと。
そして、生きているものと、死んだもの、さえも。

死んだ人の心臓を喰らうという鬼が、その人が死ぬまでは、そばで守っていた。死と生のあいだに、立ったままの神だ。

青山通りに戻ると、また、きれいに分かれた街だった。
歩道と、車道。
行き先の決まった、生きている人たち。
死んだものは、どこにも、見えない。

さっきまで、分けない場所に立っていた足が、
いま、線の引かれた地面を、歩いている。

歩きながら、自分の心臓が、まだ動いているのが、分かった。
あの鬼が、死んだ人から取り出して食べたという、それだ。

返すまでは、動いている。



Kotodama Journey ーー 歩くと、場所も人も、少し変わる



主な参考資料

・豊川稲荷東京別院 公式サイト(別院案内・境内案内)
・豊川稲荷(妙嚴寺)本院 公式サイト「当山の歴史」「霊狐塚」
・「神社のようで、実は寺院 妙厳寺」長田幸康

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