【読書術】なぜ「本が手元にある」のは素晴らしいのか?
みなさんこんにちは。発信者です。
今回は「私自身が読書について思うこと」のお話です。
読書には、多くの魅力があります。
所有欲を満たし、
他者の視点を体感し、
純粋に没頭する。
知識を得る。
思考のヒントを拾いながら、
自分のペースで読み進める。
しかし、私が思う
「真の醍醐味」は、
別のところにあります。
1. 村田蔵六という「鏡」
『花神』という本が、私の本棚にあります。
えーと日付は、
「平成9年2月20日 64刷(!!)」
平成9年(1997年)で64刷って。。。めっちゃ売れてますね。。。
この本は約30年前、実家の私の部屋の本棚に来てから、今の家の本棚に落ち着くまで、何回か引越しを繰り返してきました。
おそらく30回以上は読みました。
まあまあ長い付き合いです。
本のページの横なんか、茶色く変色しちゃってます(そんなに日の当たるところに置いてないんですけどね)。
主人公の村田蔵六は、こんな人です。
長州藩(今の山口県)出身の医者
大阪の適塾(大阪大学の前身)などで学ぶ
その後、愛媛の宇和島藩に仕えたり
幕府に仕えた後、
長州藩および新政府軍の軍事責任者として
戊辰戦争を指揮
明治維新後は日本陸軍の基礎を作り上げる
この本を買ってすぐ読んだ時は、
「超合理主義の変人」ががんばってる。
ぐらいの感想でした。
私自身もまだ若く、人生経験も豊富とはいえない頃でした。
その後、
20代、30代、40代と年齢を重ね
就職、結婚など経験も重ね
『花神』を読む回数も増え
その内、いつの頃だったか忘れましたが、
ふと思ったんです。
「なんかこの人、僕と似てきた?」
2. 「不器用さ」と「自己の道具化」
蔵六は、およそ社交性とは無縁の男です。
道端で「今日は暑いですね」と挨拶され
「夏は暑いのが当たり前です」
と答えるような人です(私はここまでひどくはないですよ。たぶん)。
ほんとこんな人いたら腹立ちますよね。
人とコミュニケーションを取らず、
理論を突き詰め、
周囲からは得体の知れない「論理の怪物」
のように思われる。
私は若い頃、蔵六にほとんど共感できませんでした。
しかし、
働くうちに、
生活を積み重ねていくうちに、
段々と
彼の「不器用な誠実さ」に
自分と似通ったものを感じていくようになりました。
💡自分を「道具」として捉える
蔵六は、自分という存在を、時代や周囲が
必要とするまま、「技術」や「理論」という
名の道具として差し出しました。
自ら進んで野心を燃やすのではなく、周囲に
使われることでしか自分を表現できない。
そのなんとも言えない孤独と自信。
💡理論を突き詰める姿勢
周囲が「空気」や「熱意」で動く中で、
冷徹なまでに理論的に考える。
なんと言われようが、命の危険にさらされ
ようが、曲げない姿勢。
3. 私自身の成長と、本
『花神』は、私の本棚の「そこ」にずっと変わらずあります。
『花神』は、当たり前ですが全く変わりません。
変わったのは、私自身です。
私の「状況」「ポジション」「精神状態」、そして「知識レベル」など……私が変わったのです。
10代の頃の感性では見えなかった、蔵六の行間に滲む「哀しみ」や「孤独」。その一方で、身につけた知識を表現できる「喜び」も。
それらが、20代、30代、40代と変わっていく私のフィルターを通す中で、段々と理解が深まり、ついには自分と似ているとまで感じるようになったのです。
『花神』を30回以上読み返す行為は、私にとって、「自己との対話」そのものでした。
【本棚に「友」がいる幸せ】
一冊の本を、一生をかけて何回も読む。
少しずつ変化していく感想。
この上ない贅沢です。
30年前、本屋で『花神』を手に取った自分に
もしなにか言うとしたら、
「この本、何回も読んだらめっちゃ面白くなるよ。30回以上も読むぐらい好きになるよ。絶対買いなよ。
ただな、40代になっても、この本の主人公と同じように、不器用で、悩んでるわ。
残念ながら精神的にはあんまり成長してないな」
ぐらいでしょうか。
最後まで読んでいただきありがとうございます。少しでも共感いただけましたら「スキ」や「フォロー」よろしくお願いします!
参考文献
司馬遼太郎『花神(全三巻)』(新潮文庫、1976年)
↓KindleをAlexaと連携して『聴く』
↓こちらの記事もどうぞ。
