見出し画像

【六十四歩目】老子、孔子、お釈迦様の平和論。

 老子と荘子の戦争と平和について、前回までのおさらいです。


1.老荘思想と平和思想。


夫兵者不祥之器、物或惡之、故有道者不處。君子居則貴左、用兵則貴右。兵者不祥之器、非君子之器。不得已而用之、恬惔爲上。勝而不美。而美之者、是樂殺人。夫樂殺人者、則不可以得志於天下矣。

➙ 兵器というものは、そもそも不吉な道具である。万物はこれを嫌う。ゆえに、「道」を体得した者は、これに頼って居座ることはしない。

(中略)

 どうしても避けられず、やむを得ずこれを用いる場合でも、執着しないことを最上とする。勝ったとしても、それを素晴らしいことなどではない。もし戦の結果を素晴らしいなどとすれば、それは人殺しを楽しみするのと同じである。人を殺すことを楽しむような者は、天下において自分の志を成し遂げることはできない。

『老子道徳経』 第三十一章


❝曰「臣請為君實之。君以意在四方上下有窮乎。」君曰「無窮。」曰「知遊心於無窮,而反在通達之國,若存若亡乎。」君曰「然。」曰「通達之中有魏,於魏中有梁,於梁中有王。王與蠻氏,有辯乎。」君曰「無辯。」客出而君惝然若有亡也。❞

→  戴晋人は言った。「では、王様のためにお話ししましょう。王様が想像する世界の中で、この宇宙(四方上下)に果てはあるでしょうか?」 王は「いや、無限であろう。」と答えた。 「では、その無限の中に心を遊ばせた後、我々が交流している国々に立ち返ってみれば、そんなものは、あるかないかも分からないような小さな存在だとは思いませんか?」 王は「確かにそうだ」と言った。 戴晋人は畳み掛けた。「その広大な宇宙の中の、あるかないかのような場所の中に『魏』という国があり、魏の中に『梁(都)』があり、梁の中に『王』がおられます。その王と、先ほどのカタツムリの角の『蛮氏』との間に、一体どれほどの違いがあるというのですか?」 王は「……違いなどない」と答え、戴晋人が退出した後、王は呆然として、自分自身を失ったかのような心持ちになった。

『荘子』則陽 第二十五

 戦争と平和について、老子に関しては「兵は不祥の器なり」、荘子に関しては「蝸牛角上の争い」という言葉が有名です。では、戦争と平和について、「三聖吸酸」の他の二人のメンバー、孔子やお釈迦様はどう考えていたか見てみましょう。


2.孔子の平和思想。

まずは儒教の祖、孔子から。

❝子貢問政。子曰「足食。足兵。民信之矣。」
子貢曰「必不得已而去,於斯三者何先?」曰「去兵。」
子貢曰:「必不得已而去,於斯二者何先?」曰「去食。自古皆有死,民無信不立。」❞

➙  子貢が、政治の要諦について先生に質問をした。
先生は 「食糧を十分に確保し、軍備を充実させ、民衆に政治への信頼を持たせることだ」とおっしゃった。

子貢がさらに重ねて質問をした。 「どうしても止むを得ず、その三つの中から一つを捨てなければならないとしたら、先生はまずどれを捨てられますか?」
先生は 「軍備を捨てるよ」とおっしゃった。

子貢はさらに質問をした。 「では、残る二つのうち、どうしても止むを得ずもう一つを捨てるとしたら、どちらを先に捨てますか?」
先生は 「食糧を捨てる。古来、人間は誰しも死を免れない。だが、民衆の信頼を失った政治は、存立することすらできないのだから。」とおっしゃった。

『論語』顔淵 第十二


❝故遠人不服,則修文德以來之。既來之,則安之。❞

➙ それゆえに、もし遠方の人々が、こちらの統治に従わないのであれば、武力で無理やり屈服させようとしてはならない。まずは自国の文化や教育、道徳をしっかりと磨き上げ、「あの国は素晴らしい、あそこへ行きたい」と彼らが自ら慕ってやって来るようにしなさい。そして、彼らが実際にやって来たならば、その生活を安定させ、安心して暮らせるようにしてやるべきだ。」

『論語』季氏 第十六

 ここは西郷さんが『西郷南洲翁遺訓』言っていたことそのものですね。

西郷隆盛(1828-1877)

❝予嘗て或人と議論せしこと有り、西洋は野蠻ぢやと云ひしかば、否な文明ぞと爭ふ。否な野蠻ぢやと疊みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、實に文明ならば、未開の國に對しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開矇昧の國に對する程むごく殘忍の事を致し己れを利するは野蠻ぢやと申せしかば、其人口を莟つぼめて言無かりきとて笑はれける。❞

➙ 私はかつて、ある人と議論をしたことがある。 私が「西洋は野蛮だ」と言ったところ、その人は「いや、文明国だ」と言い張って譲らない。

 私が「いや、野蛮だ」とたたみかけると、相手は「どうしてそれほどまでに言うのだ。」と問い詰めてきた。

 そこで私はこう言ったのだ。 「もし本当に西洋が文明的ならば、まだ発展していない未開の国に対しては、慈愛の心を根本に据え、真心を込めて説き聞かせ、文明へと導くべきだろう。

 ところが実際はどうだ。相手が未開で物知らずな国であればあるほど、むごく残忍なことをして、自分たちの利益だけを貪っているではないか。そんな振る舞いは野蛮そのものだ」

 そう言ってやったところ、相手はぐうの音も出なかったようで、笑ってごまかしていたものだ。

『西郷南洲翁遺訓』


❝司馬牛憂曰、人皆有兄弟、我獨亡。子夏曰、商聞之矣、死生有命、富貴在天。君子敬而無失、與人恭有禮、四海之内、皆兄弟也。君子何患乎無兄弟也。君子何患乎無兄弟也。❞

➙ 司馬牛が、悲しみ嘆いて言った。 「他の人には皆、助け合える兄弟がいるのに、私には一人もいないのだ。」

 これを聞いた子夏が言った 「私はこんな話を聞いたことがある。人の生き死には運命に定められており、富や地位が得られるかどうかは天の意思次第である(だから、自分ではどうにもできないことを嘆いても仕方がない)。

 それよりも、君子が、自分のなすべきことに慎み深く向き合って、過ちを犯さず、他人に対してうやうやしく、礼儀正しく接しているならば、この広い世界の人は皆、あなたの兄弟も同然なのだ。

 君子を目指すわれわれが、どうして『兄弟がいない』などと嘆く必要があるだろうか。

『論語』顔淵 第十二

 最後は孔子の言葉ではないですが有名な「四海の内はみな兄弟(四海兄弟)」です。儒家では他にも、孟子の「春秋に義戦なし(春秋戦国時代に正義の戦いなどなかった)」というまっすぐな言葉もあります。

3.お釈迦様の非暴力主義。


❝一二九 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。

一三〇 すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。

一三一 生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。

一三二 生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害しないならば、その人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる。❞

岩波文庫 中村元著『ブッダの 真理のことば 感興のことば 』

 原始仏教の経典『ダンマパダ』(法句経)の暴力を忌避する記述です。インドでは古くからアヒンサー(不殺生、非暴力)の教えが浸透していましたし、当然、仏教にもこの考えは受け継がれています。この「一三一」は前述の『老子』の言葉に近いですね。

 ちなみに、『ダンマパダ』にはこんな言葉があります。

❝五 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。❞

岩波文庫 中村元著『ブッダの 真理のことば 感興のことば 』

 これとか、言っていることが『老子』の「怨みに報いるに徳を以てす」とほとんど同じですね。

❝大小多少、報怨以德。❞
➙ 大きなことも小さなことのように扱い、多いものも少ないもののように受け止める。自分に向けられた怨みに対しては、恩徳をもって報いる。

『老子道徳経』第六十三章


マハトマ・ガンディー(1869 - 1948年)

❝"An eye for an eye only ends up making the whole world blind"❞
➙ 「目には目を、歯には歯を」では、世界が盲目になってしまうだけだ。

マハトマ・ガンディー

世界に平和を。つづきは六十五歩目でお会いしましょう。それではAavjo (アアヴジョ / આવજો)!!

いいなと思ったら応援しよう!