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【六十二歩目】老子と戦争。

 どうも最近国の内も外も戦争の話題が多いので、今日は『老子』における戦争の記述について。


1.兵は不祥の器なり。

夫兵者不祥之器、物或惡之、故有道者不處。君子居則貴左、用兵則貴右。兵者不祥之器、非君子之器。不得已而用之、恬惔爲上。勝而不美。而美之者、是樂殺人。夫樂殺人者、則不可以得志於天下矣。吉事尚左、凶事尚右。偏將軍居左、上將軍居右。言以喪禮處之。殺人之衆、以悲哀泣之、戰勝、以喪禮處之。❞

➙ 兵器というものは、そもそも不吉な道具である。万物はこれを嫌う。ゆえに、「道」を体得した者は、これに頼って居座ることはしない。

 君子は、平時には「左」を上位として尊ぶが、戦の際には「右」を上位として尊ぶ。兵器は不吉な道具であり、君子が好んで用いるべき道具ではない。

 どうしても避けられず、やむを得ずこれを用いる場合でも、執着しないことを最上とする。勝ったとしても、それを素晴らしいなどではない。もし戦の結果を素晴らしいすれば、それは人殺しを楽しみするのと同じである。人殺すことを楽しむような者は、天下において自分の志を成し遂げることはできない。


 吉事では左を尊び、葬儀などの凶事では右を尊ぶ。軍隊の配置においても、副将は左に位置し、大将は右に位置する。これは、「軍隊の序列は、葬儀の礼法に基づいている」ということを意味しているのだ。多くの人を殺したのであるから、悲しみと哀悼の心をもってこれに臨むべきである。たとえ戦いに勝ったとしても、その勝利は葬儀の喪礼をもって執り行うべきものなのである。

『老子道徳経』 第三十一章

 まずは第三十一章「兵は不祥の器なり(兵器というものは、そもそも不吉な道具である)」。老子を代表する言葉のうちの一つです。やむをえず用いる場合にも執着をせず、また、たとえ勝っても素晴らしいものだとはしない。この態度は『老子道徳経』において徹底した態度です。
 老子が生きていたとされる春秋戦国時代は、諸国の王たちが覇権を競い合い、戦争に明けくれた時代でした。伝説によると老子自身も戦乱に巻き込まれるのを避けて牛に乗って西へと旅に出たくらいの人なので、戦争について忌避するのは当然の事だと思います。

2.兵を以って天下に強いず。


以道佐人主者、不以兵強天下。其事好還。師之所處、荊棘生焉、大軍之後、必有凶年。善者果而已。不以取強。果而勿矜、果而勿伐、果而勿驕、果而不得已。是謂果而勿強。物壯則老。是謂不道、不道早已。❞

➙ 「道(TAO)」によって君主を補佐する者は、兵によって天下を支配しようとはしない。なぜなら、武力による強制は、必ず自分に跳ね返ってくるものだからだ。

 軍隊が駐屯した場所には、その後田畑は荒れ果ていばらがはびこる。大軍が動いた後には必ず凶作の年がやってくる。

 戦いに長けた者は、目的を果たしたところで止めるだけである。決して武力で強引に奪い取ろうとはしない。 目的を達しても、誇示することはなく、ひけらかすこともなく、驕り高ぶることもない。 目的を達したとしても、それは「やむを得ず」行ったことなのだと自覚する。 これを「目的は達するが、強引にはしない」という。

 万物は、勢いが盛んになりすぎると、急激に衰えてる性質がある。これを「道に外れる」という。道に外れた状態は、長くは続かず、すぐに滅んでしまうものである。

『老子道徳経』 第三十章

 第三十章も似ているところがありますが、やはり武力(兵)によって天下に強要するようなまねはしない、とはっきりと述べています。また、たとえ勝ったとしてもそれを自慢するようなまねはしない、この精神状態のあり方にも老子らしい特徴があります。

3.不争の徳。


❝善爲士者不武。善戰者不怒。善勝敵者不與。善用人者爲之下。是謂不爭之徳、是謂用人之力、是謂配天。古之極。❞

➙ 優れた士は、自分の強さをひけらかさない。 戦の巧みな者は、感情にまかせて怒ったりしない。 勝ち続ける者は、正面から相手と争おうとはしない。 人を動かすのが巧みな者は、自ら進んで相手の下に身を置く。
これを「不争の徳」という。 これを「他人の力を利用する力」という。 これこそが「天の理にかなうこと」であり、古から続く至高の道なのである。

『老子道徳経』 第六十八章

❝用兵有言、吾不敢爲主而爲客、不敢進寸而退尺。是謂行無行、攘無臂、執無兵、扔無敵。禍莫大於輕敵。輕敵幾喪吾寳。故抗兵相如、哀者勝矣。❞

➙ 兵法においてこのような言葉がある。「自分から主導して攻め入るのではなく、相手の出方を受ける立場をとる。一寸でも前進するよりも、むしろ一尺退くことを選ぶ」と。

これこそが、行軍しているのに、行軍の形跡を見せない、腕をまくって立ち向かうが、振り上げる腕を見せない、武器を手にしているが、武器を突きつけない、敵と対峙しているが、敵と争わない、という境地である。

災いの中で、相手を軽く見ることほど大きな罪はない。敵を侮れば、私が大切にしている宝を失ってしまうだろう。

ゆえに、二つの軍勢が互角の力で対峙したときには、戦いを悲しみ、人を殺めることを悼む心を持つ側こそが、勝利を手にするのである。

『老子道徳経』 第六十九章

 第六十八章と、第六十九章は同じように、たとえ兵を用いる場合にも自分からは手を出さす、一歩進むよりも一歩退くことを選ぶ。この辺りは、日本の柔道や合気道の考えに近いですね。武という字は「戈(ほこ)を止める(戈+止)」と書きますが、そういった武道全般に浸透した考えに『老子』の思想は最も近いものです。


4.足るを知る。

❝天下有道、却走馬以糞、天下無道、戎馬生於郊。罪莫大於可欲、禍莫大於不知足、咎莫惨於欲得。故知足之足、常足矣。❞

➙ 天下に「道」があるときは、馬も農耕は使われその糞を肥料として運ぶといった平和な仕事をする。しかし、天下から「道」が失われると、戦へ駆り出され、街外れの戦場で子を産むような惨状となる。

 世の中で、欲望が多すぎるこどほど大きなも罪はない。足るを知らぬことどご大きな災いはない。何もかも手に入れようと欲しがることほど無残な過ちはない。ゆえに、「足るを知る」ことこそが、真の意味での満足なのである。

『老子道徳経』 第四十六章

 第四十六章は、馬の生き方を通して戦争の悲惨さを説き、人間が戦争をなかなか止められない原因として、人間の欲望にはきりがなく、「足るを知る」ことができないからだと説明しています。おおよそ組織的な戦争というものは「これはおれたちのものだ」から始まって、そこから「足るを知る」ことができなくなって止められなくなる。人類の歴史はこうした争いの繰り返しとも言えます。

 そろそろ眠いので今日はここまで。続きは六十三歩目でお会いしましょう。それでは、До скоро(ド・スコーロ)!

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