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遊びは、いつ仕事になったのか 第六回

第六回 父の城

角の家が、店になる

私が高校に上がる頃、父が、長年勤めたナガサキヤを辞めた。

しばらくは、西本願寺の懐石料理の仕事などを掛け持ちしていた。あとから思えば、それは独立の準備だったのだろう。おそらく退職金で、母方の親戚への借金を返しながら、父は自分の店を持とうとしていた。あの離婚騒動から、そう経たないうちのことだ。

そして父が店の場所に選んだのは、あの角の家だった。

曾祖父の家だ。タバコと駄菓子を売り、私が「三頂戴」と座布団の下から三百円をもらった、あの店。曾祖父が九十四歳で息を引き取った、あの家。死んだ人の家が、改装されて、父の城に生まれ変わる。一族が代々、田畑を売り、地を固め、人が生まれては死んでいったその角の家で、こんどは父が、新しい商いを始めようとしていた。

店は、総菜や弁当、ケータリングを商う、町の惣菜屋だった。

その屋号には、母の名前の頭の二文字が入っていた。当時の私は、なんとも思わなかった。けれど、いまになって思う。あれは、父なりの償いであり、愛情だったのではないか、と。あれだけ母に苦労をかけ、家族を一度は壊しかけた父が、自分の最後の城に、黙って母の名を掲げた。言葉で詫びる人ではなかった。だから看板にしたのだと、いまの私は思っている。


店のなか

店の中を、いまでもはっきり思い出せる。匂いごと、覚えている。

壁際に、総菜を並べる大きなショーケースが二つ。真ん中の親柱と柱のあいだには棚を置いて、曾祖父の代から売っていた菓子や日用品も、そのまま並べていた。新しい商いのなかに、古い駄菓子屋の名残が、ちゃんと生きていた。

四人掛けのテーブルが二卓、カウンターが六席。その奥が、厨房だった。正面奥の壁に、業務用の大きなガスコンロとオーブンの一体型。その横で、フライヤーがいつも低く油を鳴らしていた。中央のアイランド作業台には、使い込まれた寸胴や鍋が所狭しと積まれ、左の壁では製氷機と業務用冷蔵庫が、一日じゅう重い音を立てていた。

火を入れれば、換気扇がけたたましく回り、出汁と、揚げ油と、焼ける肉の匂いが、狭い店じゅうに満ちた。よその店の、雇われの厨房ではない。これは、父が借金を抱えながら背水で手に入れた、父だけの城だ。

幼い頃の私にとって、父の厨房とは、ナガサキヤのことだった。父のいる店で、父のいない時間に、父のつくった飯を食う。それが私の知る父の仕事場だった。よその看板の下の、雇われの厨房。それがいま、父自身の店となって、湯気を立てて、私の手の届くところに立ち上がっていた。


コック服を着て

そして私は、初めて、父の仕事の内側に入った。

店のオープンには、ナガサキヤの元部下たちが、入れ替わり立ち替わり手伝いに来てくれた。辞めた職場の人間が、わざわざ駆けつける。父がどれだけ慕われていたか、子供の私にも、それでわかった。その伝手で、立食パーティーやケータリングの仕事も、ずいぶん入った。そして、そのたびに私は、手伝わされた。

コック服を着て、品を出し、取り分け、片付ける。仕込みも、ずいぶんやった。とんかつに、一枚一枚パン粉をつける。海老の背ワタを、一尾ずつ取って下処理する。地味で、果てしなく、指先の冷える作業だ。高校生で、クラブもあって忙しかったが、それでも厨房に駆り出された。

いちばん覚えているのは、催しの朝だ。区民運動会のような行事があると、二百人分の弁当を、朝の十一時までに仕上げなければならない。終わりの時刻だけが、最初から決まっている。フライヤーは油を跳ねさせつづけ、オーブンは次々と肉を焼き上げ、その脇で私は、かじかむ手で、ひたすらパン粉をつけ、おかずをパックに詰めていった。壁の時計の針だけが、こちらの都合などお構いなしに進んでいく。間に合うのか。手が追いつくのか。心臓が、ずっと速く打っていた。

十一時。最後の一折に蓋をして、二百食が揃う。その瞬間、嵐が通り過ぎたように、厨房がふっと静まる。コック服には、揚げ油の匂いが、すっかり染みついていた。

土間で米ぬかのスープをこしらえ、女の子に食べるふりをしてもらっていた子供が、いまは本物のコック服を着て、本物の二百人分の飯と格闘している。憧れて見上げるしかなかったプロの厨房に、自分の手が、確かに食い込んでいた。あのテールスープに焦がれた飢えの、ひとつの答えが、ここにあった気がした。


働いていない時がない

父は、休みなく働いた。

深夜遅くまで下ごしらえをして、朝には中央市場へ買い出しに行く。昼の注文をさばき、法事の弁当をこしらえる。働いていない時間が、まるでなかった。それでいて、辛い、しんどい、という言葉を、私は父の口から一度も聞いたことがない。

そのかわり、わが家から、家族そろって飯を食う習慣は、すっかり消えた。

みな、腹が減ったら、店のカウンターで、そこらにあるものを勝手に見つけて、自分で用意して食べる。決まった食卓も、決まった時間もない。けれど、考えてみれば奇妙な話だ。父は、来る日も来る日も、人の腹を満たす商いをしていた。法事の弁当も、運動会の二百食も、近所の総菜も。世界じゅうに飯を配りながら、自分の家族は、めいめい勝手にカウンターでかき込んでいた。

それでも、食べ物に困ったことは、ただの一度もなかった。

幼い頃、夜にいない父を、私は「仕事と向き合うとはこういうことか」と、どこかで納得して育った。その納得は、この店で、ひとつの形になったのだと思う。父は、家にいないことで、家族を養う人だった。食卓を共にしないことで、食卓を支える人だった。

父は、やっぱりすごい。 店のカウンターで、ありもので腹を満たしながら、高校生の私は、厨房に立ちつづける父の背中を、いつまでも見ていた。


(第七回へ続く)

遊びは、いつ仕事になったのか 第七回|ケイ|続ける人の読書室

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