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遊びは、いつ仕事になったのか 第四回

第四回 働いて、買った

勧進橋まで六キロ

その頃、レンタルビデオという商売が、ぽつぽつと現れはじめていた。

まだ料金が高い時代だ。あるとき赤石が、安い店を見つけたから行こう、と言った。店は勧進橋の向こう側にあった。西院から、自転車でおよそ六キロ。小学校を出たばかりの私には、それは未知の遠さだった。

正直、不安だった。行ったこともない町へ、子供だけで、自転車で。けれど赤石は、平気な顔で前を行く。私は、その背中を見失わないように、ただペダルを漕いだ。知らない橋を渡り、知らない通りを抜けて、店にたどり着いた。

借りたのは、『風の谷のナウシカ』だった。

帰りも赤石が先導してくれた。家でナウシカを見た。腐海も、王蟲も、あのとき初めて見た。けれど、いま思い返していちばん鮮やかなのは、画面のなかの世界よりも、知らない町まで自転車を漕いだ、あの六キロのほうだ。

返却は、一人で行った。赤石はいない。同じ六キロが、帰り道のない、ただ遠いだけの道に変わっていた。結局、あの店を使ったのは、その一回きりだった。一人では、遠すぎた。

赤石がいれば行ける距離が、一人だと遠すぎる。半歩先を行くあの男との距離は、そのまま、私が見られる世界の広さだった。それでも、子供だけであれほど遠くへ行けたという事実は、強く胸に残った。赤石はやっぱりすごい。素直に、そう思った。


タキシードの食卓

飯を食うとき、わが家ではよくテレビがついていた。

父が録り溜めていた『味の招待席』だ。落語家の桂米朝が、関西の名店の料理を、一日に一品ずつ紹介する番組だった。米朝は毎回、きっちりタキシードを着て出てくる。料理が作られ、皿に盛られるまでを映すが、誰かがそれを食べる場面は、決して映さない。作る工程だけを、ただ丁寧に見せる番組だった。

その画面を眺めながら、私が手にしていたのは、カップ焼きそばのUFOだ。

名店の一皿が、湯気を立てて仕上がっていく。タキシードの米朝が、その由来を語る。そのとなりで、私はインスタントの焼きそばをすすっている。いま並べると、ずいぶん間の抜けた光景だ。けれど、あのUFOは、やけにうまかった。本物の料理が作られていく工程を浴びながら食べると、ただのカップ麺が、少しだけ特別な一皿になった。

父は夜にいない。それでも、父が録ったテープは、毎日、食卓に同席していた。映像のなかのプロの手つきに見惚れながら、手元のジャンクを夢中で貪る。あのいびつな食卓のなかに、のちに私を菓子の道へと引きずり込む「食」への執着の根が、静かに伸びはじめていた。


拾ったベータ、繋ぐ手

小学生の頃から、特撮も、アニメも、漫画も、死ぬほど見た。

つくることに飢えていた目は、同じだけ、虚構を浴びることにも飢えていた。脱衣所のテレビにあれほど心を抉られながら、それでも私は、表現という底知れない化け物から、目を逸らすことができなかった。むしろ、もっと見たかった。あの一場面で殴られて以来、画面の向こうには、私の都合などお構いなしの世界が広がっているのだと知ってしまった。その先を、知りたくてたまらなかった。

中学のある日、ゴミ捨て場に、ビデオカセットが捨てられているのを見つけた。ベータだった。

家にあったのはVHSのデッキで、規格が違う。そのままでは、どうやっても見られない。ふつうなら、そこで諦める。けれど私は、その黒い塊を、どうしても捨て置けなかった。このプラスチックの中に、まだ見ぬ物語が一本、丸ごと閉じ込められている。そう思うだけで、指先が熱くなった。中身を見たい。見られないと言われると、なおさら見たい。

結局、その中身にたどり着いたのは、ずっと大人になってからだ。変換できる機械をようやく手に入れ、何年も部屋の隅に抱えていたテープを再生した。映し出されたのは、『クラッシャージョウ』の劇場版だった。砂の向こうから映像が立ち上がってきたときの、あの妙な達成感を、いまも覚えている。

こうしたい、と思ったら、なんとしても達成する。それは器用さの話ではない。届かないものを、自分の手で手繰り寄せずにいられない、という質の執念だった。だから家では、電気機器を繋ぎ、壊れたものを直す役は、いつのまにか私のものになっていた。繋がらないものを、自分の引いた線で強引に繋ぐ。その手応えに、私は取り憑かれていた。つくる手は、いつのまにか、繋ぐ手にも、直す手にもなっていた。


働いて、買った

高校の冬休み、私は初めて、金をもらって働いた。

赤石の母が勤めている工場での、一週間ほどの仕事だった。これも、赤石が誘ってくれたものだ。鶏肉の加工工場で、作業台に切られた鶏肉が流れてくる。それを、ひたすらパックに並べていく。食品を扱う場所だから、室内はおそろしく寒かった。手がかじかむほどの冷気のなかで、私は黙々と肉を並べた。

子供の遊びの手伝いではない。時間で金をもらう、初めての本物の労働だった。

いちばん覚えているのは、最後の掃除だ。一日の終わりに、ホースで勢いよく水をぶちまけて、あちこちを洗い流す。家のなかで水をまき散らすことなど、ふだんは決してない。その大胆さが、妙に面白かった。寒さも、単調な作業も、その水しぶきのなかで、少し報われた気がした。

赤石と一緒に働き、一緒に飯を食い、一緒に帰った。いつもの「ついてくるけ?」が、こんどは仕事の現場にあった。

一週間が終わって、手にした金は、たしか四万円ほどだったと思う。

その額に、私は息をのんだ。指を黒く染めて稼いだ三百円とも、座布団の下からこぼれた温かい三百円とも、まるで違う。極寒の部屋で、冷えた鶏肉を、何百回、何千回と並べつづけた、私の時間そのものが、紙幣の束になって手のなかにあった。重くて、乾いていて、どこか、自立の匂いがした。三百円が握れるほどの小遣いだった子供の手に、初めて、自分の力で稼いだ一万円札が何枚も載っていた。

その金で、私は自分のテレビを買った。

親に買ってもらったのではない。自分の時間を、寒さと引き換えに削って手にした金で、見ることと物語を浴びるための道具を、自分のものにした。配線も、自分でやった。あの拾ったベータを繋ぎたくても繋げなかった手が、こんどは自分の城の線を、一本ずつ繋いでいく。買って終わりではない。繋ぐところまで、自分の手でやり遂げて、初めて、それは私の城になった。

働いて、買った。たったそれだけのことが、あのときは、どうしようもなく誇らしかった。

──いま思えば、あの寒い鶏肉の工場こそ、十数年の時を越えて、赤石がもう一度私を呼び戻す、あの場所だった。 凍えながら肉を並べていた中学生の私は、もちろん、そんなことは知る由もない。


(第五回へ続く)

遊びは、いつ仕事になったのか 第五回|ケイ|続ける人の読書室

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