ことのたねは肚にある──腸書とアセミック一文字詩
今回は、久々の長文です。
しかも、いつもとは少し毛色が違います(笑)
科学と神話と身体感覚の交差点から、妄想をひとつ。
──自分で書いているつもりで、本当に自分が書いているのか。
アセミック一文字詩を書いていると、ときどきそう思います。
僕の詩に「腸書」というものがあります。
つまるところ
どれだけの自我を
捨てられるんだい
四十の発明原理みたいな挨拶で
腸内細菌は
まだ文字を書き続けている
ルビン クライン インクライン
ホルミシスから
ホメオスタシス
腸で書く。
腸が書く。
あるいは、腸に棲むものたちが書かせる。
そんな感覚が、アセミック一文字詩にはどこかあります。
脳腸相関という言葉があります。
腸と脳は、別々の存在ではなく、神経やホルモン、免疫、微生物などを通して、互いに影響し合っているといわれます。
腸に広がる腸管神経系は、「第二の脳」と呼ばれることもあります。
けれど、僕の感覚では、腸はむしろ、もっと古い脳のようにも感じられます。
考えるより先に、感じている場所。
言葉になるより先に、反応している場所。
頭よりも深いところで、身体全体の気配を受け取っている場所。
そんな原初の感覚が、腸にはあるように思うのです。
こうしたことを考えるとき、何冊か思い浮かぶ本があります。
『あなたの体は9割が細菌』
人間の身体を、微生物と共に成り立つ生態系として見つめた本です。
腸内環境を、人が根を下ろす「土」として捉え、人の身体と自然環境とのつながりを考えています。
『土と内臓』
植物の根と人の内臓を、ともに微生物によって支えられた生態系として並べて見ています。
これらを科学的な断言としてそのまま受け取るというより、僕が面白いと思うのは、そこに流れている感覚のほうです。
人間は、自分ひとりで生きているわけではない。
腸の中にも、皮膚の上にも、土の中にも、見えない生命が満ちている。
そして、それらはただの背景ではなく、こちらの身体、感情、思考、動きにまで、どこかで関わっている。
──だとすれば、僕が「自分の作品」と呼んでいるものも、本当に自分だけのものなのでしょうか。
筆を持つ手を動かしているのは、脳かもしれません。
けれど、その脳もまた、腸に影響されています。
腸は、そこに棲む微生物に影響されています。
微生物は、食べものや土や水や空気に影響されています。
そう考えると、一本の線は、思ったよりもずっと遠くから来ているように感じます。
腸。
菌。
土。
水。
空気。
食べたもの。
触れてきたもの。
見えない生命のざわめき。
それらが身体の奥で混ざり合い、ある瞬間、手を通って線になる。
アセミック一文字詩は、頭で意味を組み立てて書くものではありません。
むしろ、意味になる前の動きが、手に現れるものに近い。
そのとき、書いているのは本当に「僕」だけなのか。
腸が書く。
菌が書く。
肚が書く。
もちろん、手が勝手に動くという意味ではありません。
ただ、自分という意識よりも少し深いところから、線が立ち上がってくる。
そんなふうに感じることがあります。
「肚」は肉月に土と書きます。
肉に土。
身体の中の土。
正確な語源ということではありませんが、よくできた字だと思います。
日本語には、肚にまつわる言葉がいくつもあります。
肚を探る。
肚に一物ある。
肚を決める。
肚が据わる。
どれも、単なる身体の部位を指しているわけではありません。
肚は、どこか人間の精神の座のようなものとして扱われてきたのだと思います。
感情が動く場所。
本心が隠れている場所。
覚悟が定まる場所。
頭ではなく、身体の深いところで「これでいい」と感じる場所。
アセミック一文字詩を選ぶときの違和感や納得も、頭だけのものではないのかもしれません。
肚が決まるから、線も決まる。
そんな感覚があります。
聖書にも、感情を身体の奥で捉えるような言葉があります。
「あわれみ」と訳されるヘブライ語の「ラハミーム」は、母胎を意味する言葉と同じ語根をもち、身体の奥から湧く慈しみを思わせます。
また、新約聖書で「深く憐れむ」と訳されるギリシャ語の「スプランクニゾマイ」も、内臓やはらわたを意味する言葉に由来します。
頭で考えるだけではなく、はらわたを突き動かされる。
慈しみや憐れみもまた、身体の奥から立ち上がるものとして感じられていたのかもしれません。
さらに、創世記には、人は土の塵から形づくられ、命の息を吹き入れられて、生きるものとなった、という話もあります(二章七節)。
もちろん、ここで宗教的な教義を語りたいわけではありません。
ただ、土があり、息が入り、身体が立ち上がるという感覚には、深く惹かれます。
肚の土。
命の息。
身体の奥でうごめく見えない生命。
そこに、腸や菌や水や空気の感覚が重なっていきます。
そこでは、分解と生成が絶えず起こっています。
肚という空間は、身体の中の土であり、何かを受け入れ、孕むための小さな宇宙のような余白なのかもしれません。
──さて。
肚が土であるなら、そこには根も伸びているのでしょう。
その根をたどり、ことのねを聴いていけば、まだ種だった頃の気配へ近づけるのかもしれません。
密教には、種子(種字)というものがあります。
仏や菩薩などを、一字の梵字によって象徴するしるし。
僕のアセミック一文字詩が、そのまま種字であるということではありません。
けれど、ひとつのしるしの中に、言葉だけでは尽くせないものが宿るという感覚には、どこか通じるものがあります。
種とは、まだ形になっていない未来を、小さく孕んだもの。
ここで、以前からときどき使ってきた「呪」「咒」という字も浮かびます。
仏教では、「咒/呪」は、真言や陀羅尼を指す語としても用いられてきました。
両者は同じ意味で用いられることもありますが、僕の中では今のところ、「呪」は名や物語を得てあらわれる側、「咒」はそのさらに手前、まだ見えない種の側、という感覚で独自に使い分けています。
別の記事では、ライトノベル『東京レイヴンズ』の
「呪術の華は『嘘』だが、その根にあるのは信じる心」
という一節を紹介しました。
その例えに寄せるなら、
種のような気配としての咒。
土としての肚。
根としての心、祈り、音。
葉としての名や言葉。
花としての嘘や虚構。
根の奥から、咒の気配があらわれる。
その気配は、肚の土の中で、腸や菌や、見えない生命の働きに触れる。
そして、あるとき、紙の上に文字のようなかたちとして立ち上がる。
アセミック一文字詩は、咒が手を通り、まだ呪になりきらないままあらわれた印なのかもしれません。
「手を通る」といえば──
ペンフィールドが示した古典的な脳地図(ホムンクルス)では、手は不釣り合いなほど大きく描かれます。
実際の手が大きいからではありません。
手に関わる感覚や運動の皮質表現が、それだけ大きく示されているということです。
手は単なる道具ではありません。
手は祈る。
手は印を結ぶ。
手印は、サンスクリット語でムドラーと呼ばれます。
そのかたちによって、仏や菩薩の境地、誓願、はたらきなどを象徴的にあらわすしるし。
また、ヨガなど、インドの身体文化にも見られます。
僕には、こうした手印も、咒の気配が身体を通してあらわれたひとつの文字のように見えます。
だとすれば、筆を持つ手もまた、ひとつの印を結んでいるのかもしれません。
肚の奥で何かが動く。
その動きが呼吸になり、腕へ伝わり、手に届き、筆先から紙へ落ちる。
外から作る動きではなく、内側から現れる動き。
アセミック一文字詩には、そういう身体感覚があります。
作為を削ぐ感覚も、頭からというより、もっと奥から来ているのでしょう。
腸。
菌。
肚の土。
見えない生命たち。
それらを含む身体が、かたちの違和感を先に感じている。
作為が出たとき、僕の中の何かがそれを嫌がる。
肚の奥が少し濁る。
逆に、意味になる手前の「文字のようなもの」として立ち上がったとき、どこか静かに腹に落ちる。
「腹に落ちる」という言葉も、よくできています。
落ちる場所は、頭ではありません。
腹/肚です。
内臓です。
腸が選ぶ。
菌が選ぶ。
肚の土が選ぶ。
そう考えると、冒頭の「腸内細菌が文字を書いている」という言い方も、あながち冗談だけではない気がしてきます。
僕の身体も感覚も、僕だけでできているわけではありません。
細菌たちの小さな働きの中に、どこか神的な気配を見ることがあります。
土を発酵させるもの。
腸を動かすもの。
死を分解し、生を立ち上げるもの。
生命の底を静かに流れる、名づけようのない力。
その流れに、僕は手を添えているだけなのかもしれません。
アセミック一文字詩は、意味になる手前の文字のようなものです。
けれど、その手前には、さらに奥があります。
言葉になる前。
文字になる前。
線になる前。
脳が意味を整える前。
自我が「私のもの」と名づける前。
そこには、腸があり、
菌があり、
土があり、
生命の古いざわめきがあります。
僕が触れようとするのは、そこかもしれません。
ことのねは、肚にある。
そして、ことのたねもまた、肚にある。
言の葉になる前の根。
音になる前の震え。
まだ種だった頃の気配。
あるいは、分かれる前の混沌。
それは肚の土から、手を通って、線としてそっとあらわれます。
