岡山旅行記(3)-鬼ノ城(きのじょう)-
丸亀の出張の帰路、3年連続で岡山へ向かった。岡山に旅行する人はそれほど多くないようだが、僕は岡山が面白いと感じている。
僕は「何でこのストーリーが時代の選別を受けずに生き残り続けたのか」に興味がある。遺す理由がなければ、語り継がれないのだ。だから昔話にはそこに秘めた何らかの強い動機があると考えている。
日本の代表的な昔話の桃太郎の鬼退治のストーリーの原典が岡山にある。桃太郎こと吉備津彦と、百済の皇子と言われる鬼こと温羅の戦いにまつわる地が数多くあるのが岡山だ。(といっても、岡山県の1960年ころのマーケティングの産物の可能性も否めない。同様の物語は各地にあるからだ。)
そもそも吉備津は「津」なので、かつて海面が高かったころ、このあたりは海だった。では、陸地はどこかというと今では山奥に見える鬼の城、鬼ノ城なのだと思う。そこに漂着して土地の人たちと百済の技術交流などをしながら仲良くやりながら繁栄していたのが吉備の国だ。
吉備の国は、初代天皇の神話で吉備に3年逗留した場所と伝えられる。つまり、手を焼いたといことだろう。当時は各地にこのような豪族が治める国があった。
実在した最古の天皇と言われる崇神天皇の指示で四道将軍と呼ばれる将軍たちが吉備や越(髙志)、出雲等に遠征にいったが、その中のひとりが五十狭芹彦(イサセリヒコ)命、のちの吉備の冠者吉備津彦であり桃太郎である。ヤマトタケルの話よりも2世代前の話だ。
吉備の桃太郎伝説はいわゆる昔話の桃太郎とは成立年代が異なるため趣が違う。見どころは、桃太郎と温羅の矢を使った戦いがある。吉備津神社のある場所の矢置石から五十狭芹彦命は矢を放ち、吉備の冠者(温羅※当時はそのような名前はなかったらしい)は山城である鬼ノ城から矢を射るが勝負がつかない。
そこで、五十狭芹彦命の2本の矢を放つ奇策により、一本の矢はぶつかり合い落ちた(矢喰宮)温羅が負傷し、そこから川(血吸川)が生まれ、鯉に変化して逃げた温羅を鵜に変化した五十狭芹彦命が追いかけて、、、と話が続く。倒した後に、吉備の冠者の名を貰い、吉備津彦となる。
この舞台を岡山県が空撮してくれている。
その後のストーリーは、こうべ(首部)埋めた温羅の首がうなり続け、犬養毅の先祖の犬飼健に命じて犬に食べさせても何年も鳴り止まないことから、吉備津神社の地下深くに埋めて鳴釜神事をすることによって祀っているという話になる。
このあたりの話は初回にも書いたので重なるところもあるかと思う。
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さて、今回訪ねたのは鬼ノ城だ。改めて吉備津神社の鳴釜神事をやってから訪ねた。今回もいい感じの鳴り方だった。
鬼ノ城は、岡山市から西に進み、清水宗治の水攻めで有名な備中高松城址あたりを超えて、総社市に入った山の上にある。城趾であり、城そのものが残ってるわけではないが、再建された門がある。山の麓には砂川公園という水の綺麗そうな公園があり、そこを抜けて山道を車で進む。
その日は雨がちな日で日曜ながら観光客は少なそうだった。比較的細い道を車で進むので、対向車がくると厳しい。
山頂に観光客向けのビジターセンターがある。トイレに入ると水が茶色い。これは水道網が十分ではないことによるもので汚れではないようだ。
寒さが酷かったのでビジターセンターで暖を取り、城の全容を確認した上で散策を開始する。道はやや迷いやすいように見える。分岐が多く、なだらかな勾配の坂と急な勾配の坂に分かれるからだ。ただ、何のことはない。必ず上で合流する。脚力に合わせた配慮のようだ。
城の外郭を一周すると二時間かかるようなのと、雨で足元が悪いので西門だけを見ることにする。当時の画像などは残っていなさそうだから、後世の人の再現したものだろうけども、京都の宮細工によるもので、日本百名城に選ばれている。城は数々行ったことがあるが、ここは異風な城門だ。朝鮮系の山城のようだ。
写真は真下からではなく、西門や総社市を展望できる学習なんとかという場所からの方がよい。カバー画像が遠景だ。
以下は真下から撮影したものだ。和風ではない感覚がわかってもらえるだろうか。

帰りは備中高松城址を見て東京に戻った。歴史の転換点とされる備中高松城の戦いは涙なくして見られない。さて、次は糸魚川だ。
前回はこちら。
最後に次回は鳴釜神事について書くと予告したまま終わっていた。次回書く。
