短編 失った夜。
「確かめたいから」と短いLINEが来た。深夜のバス停で待っていたらスマホが光った気がした。バイブレーションも切ってるのに、たまたま開いた画面に浮かぶメッセージのバナー。カタリと静かに背骨の外れる音がした。
手が冷える。真夏なのに。汗が止まらない。終わらない間違い探し。答えは自分の中にあるはずなのに。既読をつけないよう慎重にポップアップを長押しする。その一文以外、メッセージは何もない。LINEを開くかどうかを迷っていたら、もう一度メッセージが送られてきた。
「読んでよ、おねがいだから」
見てしまった。画面を開いた。それは意図したものではなく反射だった。文字を打つカーソルが揺れる。何か書いては消して、そんなことを何度も繰り返す。バス停のベンチに全身が沈んでいく感覚が体を支配する。左手の親指の爪をガリッと噛んだ。
飲み屋で出会った。こんなの別によくある話だ。そこから多少関係がズルズルした。彼女がいることを隠してるつもりもなかった。だって、別にそんなもんだろ。
嘘だろ...。思わず声が出た。LINEの画面いっぱいに表示されたのは、俺と彼女がよく行くカフェの写真だった。遠巻きに写ってるが、それは紛れもなく〝俺たち〟だった。
ただの遊びのはずだった。何が起こってるのか全く理解できないままに、最終バスがたったいま、目の前を通り過ぎた。
23時を過ぎた。辺りには何もないはずなのに、どこからともなく古い振り子時計の音が聴こえる。その音は体の中からなのか、外からなのか、それすらも分からない。ただ一定に、コチ、コチ、コチ、とゆっくりと耳の奥を侵食する。
よろめくようにベンチにどさりと倒れ込んだ。空には星の一つも見えやしない。スマホを閉じようとしたら、彼女からのLINEが溜まっていた。どうせ帰ってくるのが遅いとか、そんなことだろうと思って無視をしていた。彼女のLINEを開こうとしたその時、またあいつからメッセージが届いた。
「恋人、いるんだよね。彼女さん。勝手に写真撮ってごめん。あのさ、言ってなかったけどあたしにもいたんだ、彼氏。でもさっき別れた。だからさ、帰ってきてよ、待ってるから」
胃の奥からさっき食べたものが一気に逆流した。ベンチから体を半分起こして、側溝に思いっきり吐いた。胃液と胆汁が混ざった黄緑色の吐瀉物が口の端からポタポタ落ちた。変な態勢で吐いたから、ワイシャツの袖に飛び散って、こんな時だというのに俺の頭は〝この汚れってクリーニングで落ちるのか〟とか、そんなことでいっぱいだった。
途端に冷静になる。俺はいま選べる立場にいるってことだ。ぶっちゃけこの女のことなんてどうでもよかったが、そこまで言われると満更でもなくなってくる。思わず笑いが込み上げる。
俺はメッセージをやめて電話をかけた。電話はワンコールで繋がった。
「莉子、あのさ」
「待ってた。電話くれるの」
「全部話したい。今から会いたい」
手の汗はとっくに消えていた。とりあえずさっさと電話を切って、タクシーアプリを開く。ここから莉子の家までは大体30分。深夜料金込みでも8,000円。その間も〝彼女〟からのLINEが立て続けに来ていることを、その時の俺が気づくことはなかった。
「あーそうです。はい、そこの角、蔵前橋通りを渡って左折してください」
「そこです、そこ。はい、そこの中華屋のところで降ろしてください」
微妙に道が混んでたせいで予定よりも時間がかかった。請求金額は9,800円。イライラしたが、どうせこの後は莉子の家で朝までいると思うとそんな気持ちすらどうでもよくなっていた。
ゴーン...ゴーンと音が鳴る。まただ。さっきよりも音が大きい。鼓膜の奥を劈くような鈍い痛みを抑えて俺は莉子のマンションのドアを叩いた。
コンコンとノックをする。出ない。もう一度、今度は強くドアを叩く。やっぱり出ない。インターフォンを何度も鳴らす。後ろを通る男が訝しい顔をして俺のことを見ていた。額の汗がベタつくのが分かる。俺は頭をゴンゴンとドアに叩きつけていた。カバンからスマホを取り出して莉子に電話をかけた。
六回目のコールで莉子が出た。
「もう家に着いたんだけど、早く開けてくんない?」
ぬるい風が吹いた。それはスマホの向こうからじっとりと耳を濡らすように。スピーカーの奥から何かの音が聴こえる。雑踏、電子音。電車のホーム。この時間に電車なんかあるわけないのに。
「上り線最終電車のご案内です。どなた様もお乗り間違えのないようにお気をつけください」というアナウンス。だが、莉子は何も話さない。
「逃げないでね」、莉子の声。
「何言ってんの?え?なぁ、莉子、お前──」
「ルールを守り過ぎてたみたい、わたし」
カーンという音と共に、ブヂッという耳を切り裂く大きなノイズがスマホを打ち抜き、電話は切れた。すぐに折り返しの電話をかける。「おかけになった電話は電源が入っていないか──」という機械音だけが莉子のマンションの廊下に静かに響く。
何が起こったのかはすぐに分かった。だが、それを現実のものとして受け止めることができない。もう一度ドアを叩く。莉子は出ない。次はもっと強く、拳を突き立てる。何者かの静かな気配だけがドアの向こうから伝ってくる。頭を思い切りドアに打ちつけた時、扉がゆっくりと内側に開き、俺は部屋の中に真っ逆さまに落ちた。割れたスマホの画面だけが白く光ったままだった。
こちらの記事は織部百合子さんの『失った夜』にインスピレーションを受けて書きました。
本作は『失った夜』のアナザーストーリーのつもりで書いたので、ぜひ織部さんの作品もご覧ください。
ネタバレをすると、段落で〝縦読み短歌〟になっています。
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縦読みの歌に横糸織り交ぜて遊び心も布になるかな
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織部さん、素敵な創作の世界を広げてくれてありがとうございました。
