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【新作MV完成!】noa-nara 数字の街の片隅で|私は数を増やしたいんじゃない

どうも!

数字に弱いくせに、
数字をテーマにした音楽寓話を作った、左官歴10年の女職人こはるです。
こないだ単純な割り算ができなくて、AIに全振りしました。

そんなポンコツな私が、
この度、新作のMVを発表します✨🐱

頑張って作ったので、ぜひ見てください!(月並)


ねこのーと!的解説、はっじまっるよー☆
今日は夏なので、ウナギのようにながーいスタイルでいきます。

めんどくさい解説より物語を楽しみたい方は、
「もうひとつのnoa-nara」へ飛んでください!



フォロワー。
ビュー。
スキ。
コメント。

noteには、人とのつながりや反応を数字で表すものがたくさんある。

便利だ。
そしてつい、自分の現在地として確認してしまいたくなる。

けれど、

私は「フォロワー」という言葉を、
自分で書こうとすると、少しだけ指先が彷徨う。

言葉として、何も間違ってはいない。
フォローしてくれた人が、フォロワー。

誰かがその言葉を使っているのを見ても、何とも思わない。
私自身、ひとことで説明できて便利だから、普通に使うこともある。

それでも、自分について書くときだけ、少し引っかかる。

私には、違うニュアンスが見えてしまうのだ。


フォロワーは、私の後ろをついてきてくれる人ではない

たくさんの人に読まれている人なら、
「フォロワー」という言葉が、もう少し分かりやすく当てはまるのかもしれない。

その人が記事を書けば、人が集まる。

新しい記事を待っている人がいて、
書き手と読者という関係も、比較的はっきりしている。

でも、私の場合は少し違う。

私も、その人の記事を読みたい。

その人も、私の記事を読みに来てくれる。

ときどきコメント欄で話して、
面白かった記事を読みに行って、
またこちらにも遊びに来てくれる。

無差別にフォローし合っている相手は、noteを始めたばかりの頃を除けば、ほとんどいない。

だから私にとって、画面に表示される数字は、

「私の読者の数」ではなく、

お互いの居場所を知っている人の数だと思っている。

フォローしている人。
フォローしてくれている人。

または、ネット上の知り合いの数。

そのくらいが近い。

「フォロワー」と書くと、

私が何もしなくても記事を読みに来てくれる人たち。
私の発信を待っている人たち。
私の後ろについてきてくれる人たち。

そんなふうに聞こえてしまう。

私の場合は、そんな一方的な関係のつもりはない。

だから私は、なるべく、

「遊びに来てくれる人」
「見つけてくれた人」

というような言葉を使うようにしている。

少し長いけれど、そのほうがしっくりくる。


フォローは、関係の完成ではない

周りには、私よりずっとたくさんのフォロワーがいる人ばかりだ。

そして、フォローしている人数も、同じくらい多かったりする。

では、その数字がそのまま、
毎回記事を読んでくれる人の数なのだろうか。

スキをつけてくれる人。
コメントをくれる人。
新しい記事を楽しみにしている人。

それらは、必ずしもフォロワー数とは一致しない。

もちろん、外から数字を見ただけで、その人たちの関係性までは分からない。

ただ、少なくとも私には、

フォローボタンを押しただけでは、関係はまだ始まったばかり

に見える。

フォローは、ファンクラブの会員証ではない。

「これから必ずあなたの記事を読みます」という契約書でもない。

私には、

あなたの存在が見える場所にいてもいい。
これから関係を持つことがあるかもしれない。

と、入口を開けてもらった状態に近く見える。

その入口から先へ進むかどうかは、また別の話だ。

中には、

「フォローを返してもらうために押したのかな」

と思う人もいる。

もちろん、本当のところは分からない。

特に害もない。
だから、フォローは返さないが、帰れとも言わない。

見つけてくれたことには心の中で感謝、である。

しばらくすると、静かにいなくなる人もいる。
それも自由だ。

フォローボタンは、なにかの約束をするものではない。


ただ待っていても、誰かが来るとは限らない

記事がとても面白い。
知りたかったことが書いてある。
読んで助かった。
心が少し軽くなった。

記事そのものに人を呼ぶ力があれば、
こちらから歩き回らなくても、誰かが見つけてくれることはあるかもしれない。

それまでに読みに来てくれた人を楽しませて、
少しずつ信頼を積み重ねてきた人なら、自然と反応も集まるだろう。

でも、少なくとも私のような小さな場所では、

ただ待っているだけで、誰かが必ず見つけてくれるわけではない。

だから私は、自分から歩いていく。

面白そうな記事のところへ。
いつも遊びに来てくれる人のところへ。
もっと知りたいと思った人のところへ。

そうすれば、

「私も遊びに来ました」

と、こちらへ足を運んでくれる人もいる。

これは、

「スキを押したから返してください」

という取引とは、少し違う。

私が相手に関心を持った。
相手も、私に関心を持ってくれた。

ネットの上であっても、関係はお互い様だと思う。

フォロワーは、ファンの数ではない。

関係を持ってもいいと、入口を開けてくれた人。

そこから何度か行き来して、
言葉を交わして、

ようやく、数字の向こうから顔が見えてくる。

だから私は、フォロワー数を競うような雰囲気が、とても苦手だ。


大事な記事を、見失いたくない

私は、フォローバックが慎重なほうだ。

いつも遊びに来てくれる人。
面白い記事を書く人。
私がつながりたいと思った人。
そして、その気持ちに応えてくれた人。

そういう人の記事が、流れて見えなくなってしまうのが嫌なのだ。

フォローする人数を増やせば、
自分の存在を知ってもらえる機会も増える。

フォローを返してくれる人もいる。
スキを返してくれる人もいる。

広く知ってもらう運営として考えれば
そのほうが賢いのかもしれない。

分かっている。
分かってはいるのだ。

でも、読みたい人の記事を見失うほど人数を増やしたら、何のためにフォローしているのか分からなくなる。

私は、ただ数字を集めたいわけではない。

見失いたくない人の記事は、ちゃんと見える場所に置いておきたい。

たぶんこれは、普段から私が「信頼」を大事にしていることと、繋がっているのかもしれない。


つけるなら、ちゃんとする

私にとって、スキは記号に近い。

ハートの形をした、小さな記号。

でも、ひとつだけ、自分の中で決めていることがある。

ちゃんと読まなければ、スキはつけない。

お付き合いだから。
相手が押してくれたから。
名前を見かけたから。

そういう理由だけでは、なるべく押さない。

つけるなら、ちゃんとする。
…だから、フォロワーが増えない。笑

読まずに押したスキでも、数字としては同じ「1」だ。

運営として考えれば、
たくさん押して、たくさん返してもらうほうが、数字は動きやすい。
フォローされる機会も格段に増える。

それも分かっている。

ただし、私だって、まったくやらないわけではない。

忙しくて、今日はゆっくり読めない。
でも、この人はいつも遊びに来てくれる。
たまには足跡を返したい。

そんな日もある。

だから、「お付き合いのスキ」をする人を非難するつもりはない。

それくらいの距離感が、心地よい関係もあるだろう。
コメント苦手な人もいる。
読んだよ、と置いてくれることだけでも、とても嬉しい。

スキが軽いことを責めたいわけではない。

その小さな記号だけで、相手との関係を全部分かった気になりたくないのだ。


一度なら記号。でも、何度も会えば顔になる

一度だけのスキでは、

誰が、どんな気持ちで押したのかは分からない。

最後まで読んでくれたのかもしれない。
タイトルを見ただけで押したのかもしれない。
いつものお付き合いかもしれない。

だから、ひとつのスキだけを見て、関係ができたとは思わない。

でも、同じアイコンを何度も見かけるようになると、少し話が変わる。

前の記事にもスキしてくれた。
今日の記事にも来てくれた。

公開したばかりなのに、もう来てくれた。
早すぎて笑ってしまうこともある。

言葉を交わしていなくても、

この人、よく遊びに来てくれるな。

と、顔を覚える。

そのとき、ただの記号だったスキが、少しずつ誰かの足跡に変わる。

一度の「1」だけでは、まだどんな人か分からない。

でも、何度も同じ場所に現れる「1」には、やがて顔がつく。
親しみも覚える。


話さなくても、関係がないわけではない

ニコさんの読書会で、話しかけてくれた人がいる。

その人のことは、今でも覚えている。
私も、たまに記事を読みに行く。

ただ、私には難解すぎて、何をコメントすればいいのか分からないこともある。

そういうときは、そっとスキを置いて帰る。

ちゃんと読みました。
でも、うまく言葉にはできませんでした。

そんなスキもある。

だから私は、

コメントがないから、関係がない。

とも思わない。

一度交わした言葉や、
何度も見かけるアイコンがあるだけで、

そのスキの意味は少し変わる。

見かけると、少し嬉しくなる。

同じハートの記号でも、
誰が置いたのかによって、受け取り方が変わる。


コメント欄は、たまに公開チャットになる

私にコメントされたことがある人は、たぶんよく知っている。

私はすぐ、コメント欄で会話を始める。

感想をいただいたら、
そこからさらに話を広げようとする。

シノカには、

「コメント欄は、感想をそっと置く場所です」

と呆れられている。

メッセージでやれ、とまで言われる始末だ。笑

実際、お互いのコメント欄で会話を続けすぎて、双方の記事が公開チャットのようになっていた人とは、

最終的にメッセージへ移動した。
最長記録、たしか22コメント。

そりゃそうなる。笑

ただ、メッセージで話すようになったからといって、記事のコメント欄での会話がなくなったわけではない。

この人なら、少しくらい意味不明なことを言っても怒られない。

そう分かっているから、今でも記事の下へ意味不明に絡みに行く。

相手の記事の内容を深める、立派なコメントではない。

ほぼ、ちょっかいである。

でも、そんなちょっかいを出せるのも、これまでのやり取りで関係が積み重なったからだ。

この人なら、笑ってくれる。
そう、信じて書いているときもある。


記事を、ひとりで完成させなくてもいい

私がコメント欄で話したくなるのは、
数字を返したいからだけではない。

私が書いた記事に、
自分では思いつかなかった視点を加えてもらう。

知らなかったことを教えてもらう。

「私はこう感じた」と、別の景色を見せてもらう。

コメントによって、記事から新しい枝が伸びる。

私は、その時間が好きなのだ。
そこから、記事のアイデアを貰えることもある。

記事を育ててもらったお礼も兼ねて、
今度はその人の記事へ遊びに行く。

そして、そこから伸びていく話を、一緒に楽しみたい。

相手からすれば、

「コメント爆撃、返信めんどくせぇ」

と思っているかもしれない。

そこは申し訳ない。笑

でも私は、記事は公開した瞬間に完全に閉じるものではなく、

読んだ人との間で、少しずつ続きを持つことがあると思っている。


アホな猫には、話しかけやすいらしい

こはる観測所を始めたばかりの頃は、

自分が誰からも認識されていないような感覚があった。

記事を書いても、
そこに誰かいるのか分からない。

数字だけが動いていく。
いや、むしろほとんど動いていなかった。笑

だから、その数字の向こうに、人の気配が見えなかった。

ねこのーと!では、少し違う。

ありがたいことに、遊びに来て、足跡を残してくれる人がたくさんいる。

規模は慎ましい。
「フォロワー」さんは夢の100人切りだ。

看板も慎ましい。
まだ、そんなに記事は書いていない。

しかし、コメント欄では、なぜかやたら会話が起きる。

何が違うのだろう。

たぶん、ねこのーと!では、あまり自分をよく見せようとしていない。

立派な職人に見られたい。
賢いことを言いたい。
素晴らしい教訓を残したい。

そういう力が、観測所より少し抜けている。

読んだ人も、

「アホな猫が、また何か言うとる」

くらいに思ってくれているのかもしれない。

そのくらいのほうが、話しかけやすいのかな、と思う。

これで誰からも話しかけてもらえなくなったら、
めちゃくちゃ凹むし、寂しい。

泣いてしまうかもしれない。

そして、またそれで一曲作ってしまいそうだ。

創作家は、無視すら材料にする。

面倒な生き物である。


数字は見る。でも、人を数字にはしない

数字を分析すること自体は、嫌いではない。

どの記事がよく読まれたのか。
どんな言葉に反応があったのか。
最近は静かなのか、にぎやかなのか。

数字は、状態を知るための手がかりになる。

増えたら嬉しい。
減ったら、立ち止まる。

ただ、その数字を、つながりのあり方そのものにはしたくない。

フォロワーがひとり増えた。

それは、

私のファンがひとり増えた。

という意味ではない。

フォロー返しを期待した人かもしれない。
たまたま見つけてくれた人かもしれない。
これから何度も行き来する人になるかもしれない。

まだ、何も分からない。

でも、ときどき数字の向こうから、誰かの顔が現れる。

何度も同じアイコンを見かけた人。
一度だけでも、忘れられない言葉をくれた人。

コメント欄で、記事を一緒に育ててくれた人。
お互いの記事を楽しみにしている人。

そうなると、もう、ただの「1」には見えない。

フォロワーは、私の後ろに並ぶ人ではない。

同じ街のどこかに住んでいて、
ときどきお互いの扉を叩く人だ。

その違和感を、
数字の表札が並ぶ街に暮らす、小さな猫の物語にした。

観測所では、物語として。
ねこのーと!では、現実の人付き合いの話として。

両方を読んだあとに、もう一度動画を見てもらえたら、

ちび猫が抱えている手紙や、

扉を叩く、

「こん、こん」

という音が、

少し違って聞こえるかもしれない。


この音楽寓話は、
いろいろな人に、いろいろな楽しみ方をしてほしい。

自分に重ね合わせてもらっても構わない。

私とは全然違う見え方でもいい。

何か引っかかるものがあったら、そっと教えてもらえたら、

それは私の宝物になる。


 もうひとつの「noa-nara」

私の創作アカウント「こはる観測所」では、この違和感を
数字の街に暮らす小さな猫の物語として書きました。

【こはる観測所での物語・解説はこちら】

両方を読んだあとで、
もう一度、動画の中の「こん、こん」を聞いてみてください。


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