母の青春を、一緒に旅した二週間
2026/05/31 大幅加筆修正しました
※冒頭部に流血描写があります。ご注意ください。
駅の階段の下で
その頃の私は、人生迷子の真っ只中にいた。
ベンチャー企業の研修期間で、朝六時から二十一時まで働く日々。
もともとやっていた看護師に戻るのか、この仕事を選ぶのか。
まったく答えが出ない状態だった。
そんなある日、駅の構内を歩いていると、階段の下に横たわっている人と遭遇した。
よくみると横たわっている人は頭から血を流している。傍らに駅員さんがいたが、血が苦手なのか明後日の方向を向いていた。
周りを歩く人たちは、誰一人立ち止まらない。
思わず駅員さんに声をかけた。
「どうしましたか、何か必要なことはありますか」
救急車はすでに呼んであるということだった。
はじめは大丈夫ですと言われたが、「一応、看護師です」と伝えると、清潔なタオルを持ってきてくれた。それで止血することになった。
一応とつけたのは自身のなさだったように感じる。
ひと騒動が落ち着いた後、気づいたら自分の手が血まみれで震えていた。
何より衝撃だったのは、病院の外でこういう場面に遭遇したとき、自分がびっくりするほど何もできなかったという事実だった。
看護師として働いてきたはずなのに。
なんなら病棟ではあったが脳外科で働いていた。病棟に来る人は手術前後の人が多かったが、想定外の緊急時、自分の動けなさに愕然とした。
震える手ですぐに看護師の大先輩である母に電話をかけ、こういう状況では何をすべきだったのか聞いた。
意識レベルの確認、呼吸状態の確認、対光反射の確認、圧迫止血、話せるならキーパーソンの確認、やったこともあったけど、できることもいっぱいあった。
やるべきことがしっかり頭の中で整理できていれば、周りの人に明確な指示を与えることもできたはずだ。
そのとき初めて、まだまだ現場での経験が足りないと気がついた。
正直、今後の人生でこのような事態に遭遇することはほぼないと思う。でももしも倒れている人が自分が知っている人で、もしも救命処置によって生死を分けてしまうとしたら。
頭の中で色々な考えが巡った。
母の二十年越しの探し物
わたしが人生で究極の選択を迫られているような心持ちでいた頃、母は二十年越しの探し物を見つけた。
わたしが中学三年生のとき、シアトルへ語学研修に行った。そのときホストマザーにFacebookのアカウントを作ってもらって以来、母はわたしのアカウントを使って定期的に「あの人を探す活動」をしていた。
母は二十代の頃、カナダでワーキングホリデーをしていた。そのときのホストファミリーとどうしても連絡を取りたいと、十年近くFacebookで探し続けていたのだ。
二〇二三年春、わたしは地元沖縄を出て大阪でベンチャー企業に就職した。数ヶ月が経ったある日、関西に遊びに来た母と小旅行をした。
宿で一息ついていたとき、また恒例の「ホストファミリー探し」が始まった。でも今回は少し違った。
母のホストマザーと同じ名前の人に、実際にメッセージを送ってみようということになった。そのためだけに母のFacebookアカウントを作り、メッセージを送った。
名前もうろ覚え、相手のプロフィール写真はカナダの楓マークだけで顔もわからない。こちらも母のプロフィール写真はなく、見知らぬアカウントからのメッセージだ。返事が来る保証など、どこにもなかった。
そしてそのことをお互い忘れかけていた頃、沖縄に戻った母から連絡が来た。
メッセージを送った相手が、本当にホストマザーだった。
まだAIの翻訳ツールの精度が信頼できなかった時期だったので、Google翻訳機を使いつつ、変な英語はないかをわたしが間に入って、逐一確認しながらいくつかのメッセージをやりとりした。
わかったことは、ホストファザーはすでに他界していること。ホストマザーは八十七歳になってシニアハウスに入っていること。バンクーバーを離れてチリワックという小さな街にいること。
母は感激して「何か贈り物を送りたい」とテンションが上がっていた。
そんな母を横目に、つい軽く一言を投げてしまった。
「行っちゃえばいいじゃん」
その頃の母は、もともと勤めていた病院を早期退職し、施設でバイトをしている状態だった。以前よりも融通がきく。
いつも慎重な父まで「行けば?」と言い出して、母のスイッチが入ってしまった。
一方のわたしは、研修期間の終わりが見えてきていたがなかなか決断できなかった。
意気揚々と大阪まで出てきて、転職した仕事を三ヶ月で退職?明るく見送ってくれた人たちにも合わせる顔がない。
カナダに行きたい気持ちが先走る母と、それをなあなあに流そうとするわたし。
事故の動揺を引きずったまま、それでも日常はやってきた。朝五時に起きて、寝るのは十一時過ぎ。そんな日々が続いていた。
後先を考える余裕もないはずなのに、退職することだけは決まっていた。人生プランなんてあったもんじゃない。ほぼ勢いだけで決断した。
退職の決断をもう一つ後押しした出来事があった。同じ会社の人が「長期の休みが取れないから旅行にも行けない」と話していたのを聞いて、気づいた。
もしこの会社にいたら、母のカナダ行きを叶えることができない。それを一生後悔すると思った。
幸いなことに円満退職でき、今でもその会社から外部委託として仕事をいただいている。
トランスカナダハイウェイを母が運転した日
退職後は派遣で、老人ホーム、訪問、実習指導とさまざまな現場を転々とした。病棟だけが看護じゃないと頭ではわかっていても、自分に合う場所はなかなか見つからなかった。
それでも細く医療とつながりながら資金を貯め、母と二人で二週間のカナダへ飛び立った。
バンクーバーに到着してすぐ、レンタカーのVolvoでチリワックへ向かった。
日本とは違って右側走行。母は「あんたには運転させない」とハンドルを強く握りしめ、トランスカナダハイウェイ一号線をひたすら百キロ近く運転し続けた。
一緒に安全確認をするように強く言われていたのに気がつけば、わたしは助手席で船を漕いでいた。チリワックに着いた頃、母の腕は筋肉痛になっていた。ちょっと仮眠がとれたわたしはスッキリしていた。
近くのスーパーでホストマザーへの花を買い、シニアハウスへ向かった。
「本当にここに入っていいのだろうか」と思いながら受付を済ませると、白髪のマダムが現れた。
遂に、母とホストマザーが再会した。
案内されたのは小さな一人暮らし用の家。庭にたくさんの花が植えられていた。家の中は本でいっぱいで、書斎もきちんと整えられていた。本の編集もされているということだった。
母が持ってきた花をホストマザーはとても嬉しそうに受け取ってくれた。
翌日はホストマザーの案内でひまわり畑へ連れて行ってもらった。
その数日間、母はいつもと全然違った。キャピキャピして、まるで若返ったようだった。
ホストマザーは「古い家をみるのが好きなのよね。古いっていってもわたしと同じくらいかしら」とカメラを片手にひまわり畑の近くにある納屋の写真を取っていた。

アルバムを広げてあの頃の話で盛り上がる二人を見ながら、気づいたことがあった。
母の花好きは、このホストマザーの影響だったんだ。
母のスーツケースの半分を占めていた日本のお土産に驚き、喜び、「まさかカナダまで会いに来てくれるなんて」とホストマザーは目を細めていた。
母のワーホリの軌跡を辿る旅
チリワックを離れてからは、ワーホリ時代の母の足跡を辿りながら、当時お金がなくて行けなかった場所へ行く旅になった。
トロント、ナイアガラの滝、カルガリー、バンフ、ジャスパー、バンクーバー、ガスタウン、グランビルアイランド。


二週間であっちへこっちへと移動し続けた。
色とりどりの花が咲いている街中。
公園でリスがすぐそこにいる日常。
圧倒されるような山々と滝。
肌がピリッとする寒さの中の大自然。
他の人がどのような格好していてもそこまで気にしていないような奔放さ。
見知らぬ人にもフレンドリーに話しかけてくる国民性。
たどたどしい英語も遮らずに聞き取ろうとしてくれる優しさ。
ひとまわり大きな美味しい果物。
一時間以上遅れてやってきた観光バス。
外食する時の物価の高さ。
あまりにも移動距離のかかる国土の大きさ。
好ましいところもそうでないところも全てが新鮮だった。
そして旅を続けながら、じわじわと気づいていくことがあった。
母がカナダで過ごした一年は、母の人生を豊かにしただけではなかった。見知らぬ人への気安さも、海外への憧れも、気づけばわたしの中にも根を張っていた。
母の影響を受けて、同時期にカナダへ渡った人が他にも何人かいた。そしてそれは同時期だけの話ではない。母はただ自分の人生を生きていただけなのに、その影響は血を超え、年月を超えて、気づかないうちに誰かの中に灯り続けていた。
スマホもない時代に、異国でどんな日々を過ごしていたのだろう。そこにあった喜びも苦しさも、わたしには想像することもできない。
人は出来事によって形作られていく。楽しかった記憶だけでなく、もがき苦しんだ時間も含めて全部が、今のその人をつくっている。時が経てばその記憶は奥底に沈んで、細部はもう思い出せないかもしれない。
でも嬉しかったことも、しんどかったことも、きっとふとした行動の中にひっそりと残り続ける。そしてその灯りは、いつかそっと別の誰かの中にも燃え移っていく。
わたしたちは、カナダに行かなかった母を知らない。
子どもの頃からずっと、海外に住むことが夢だった。でもその夢はいつも空想の域を出なかった。
わたしの中で海外に住むということは、何か大きな成果を持ち帰る必要があるものだと思っていた。
英語力だったり、キャリアになることだったり。
そうでなければ行った意味がない。こころの片隅にそんな思いがあった。それが重荷となってわたし自身の海外渡航を止めていたのに気づいた。
でももしかすると、英語力やキャリアといった目に見える形だけでは測れないのかもしれない。
母を見た。二十代の時に、カナダに一年住んでいた。でも今は英語もほとんど話せない。電車に乗るのだってやや抵抗がありそうだ。
にもかかわらずきっと、わたしが気づいていないだけで、もっともっとたくさんの人生で大切なことをカナダから持って帰っている気がする。
そのうちの一つであるガーデニングは、今や母の日常に溶け込んでいる。
母も、まさかもう一度カナダに来られるとは思っていなかったようだった。思い残しなくスッキリしたであろう帰国後、母に言われた一言がある。
「あんたも行くならさっさと行けば?」
母の言葉は、背中を押したというより、心の奥底でもう決まっていたことを確認させてくれた。
母はカナダへ行った。
わたしはオーストラリアへ行くことにした。
母と全く同じ道ではなく、駅の階段で震えながら気づいた「細くても医療とつながっていたい」という自分の答えを携えて。
今日も母は、YouTubeを片手にガーデニングに励んでいる。
英語はほとんど話せないけれど、カナダから持ち帰ったその趣味が、退職後の母の毎日を静かに彩っている。
お知らせ
この旅の一年後、私はオーストラリアへのワーキングホリデーへ旅立ちました。
noteではこれからも、体験して初めてわかったことや、リアルな失敗談を書き続けていくつもりです。
ナイフ事件に遭遇しつつ、未知の絶景に辿り着けたお話↓
オーストラリアワーホリの手続きや準備など、実用的な情報はKindle本にまとめています。体験談ではなく、渡航前に手元に置いて使えるガイドブックとして作ったものなので、ワーホリを検討している方はあわせて読んでもらえると嬉しいです。
→【1冊目】渡航前準備編:
→【2冊目】到着後の手続き編:
Koh
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