七福神シリーズ|祈紙(いのりがみ)編 【布袋と五十年目の藍】
50年、部屋から出なかった。「空っぽ」な俺の人生に、神様はいるのか。
チリーン、
チリーン、チリーン。
祈紙(いのりがみ)が、布袋の手元に。
「……ガハハ、随分と長く、暗い繭(まゆ)の中にいたのう。知識も経験もないと言うが、その空っぽの袋こそ、福を詰め込むには最高の場所ではないか」
布袋は太鼓腹を揺らし、優しく、慈しむようにその紙を掴み取った。
祈紙(いのりがみ)は、願いの重さをそのまま色に映す。
手元に届いた色は、深く吸い込まれるような「藍色(あいいろ)」。
誰にも触れられたくない孤独と、消え入りそうな命の叫びが混ざり合った、暗く深い祈りの色だ。
(七十代 男性 末っ子のふーさんの祈紙)
繭(まゆ)の中の半世紀
中学でいじめられ、足が動かなくなった。
朝、学校へ行こうとすると反吐が出る。
殴られても、怒鳴られても、俺は引き戸を閉め切り、内側から物置を寄せて立てこもった。
そこから、俺の人生は止まった。
上の兄弟たちはみんな、さっさと県外へ出て行った。
兄貴も姉貴も、都会で家庭を持ち、立派にやっているらしい。
末っ子の俺だけが、この古い家に取り残され、暗い部屋の住人になった。
母親が「襖(ふすま)」の向こうにそっと置く食事。
家族が寝静まってから入る、お袋が何度も沸かし直してくれていた、いつでも温かな湯船。
親父が癇癪を起こして、薄いベニヤの戸を蹴り破ったこともあった。
髪も髭も伸び放題になり、鏡の中に仙人がいた時は、自分でも笑えた。
一度、思い立って髭を剃った日は、何かが落ちたようにスッキリした。
けれど、部屋の敷居をまたぐことはなかった。
「神様、俺の人生、このままで終わっちまうのかよ」
枕元にある古いラジオ、そこから流れる声だけが俺のすべて。
外の世界で経験を積み、知識を得て、大人になっていく兄弟たち。
俺には何もない。誇れるものも、知恵も、度量も。
親父が死んで、風が吹いた
五十代になった時、親父が突然死んだ。
家の中には、お袋と俺の二人だけになった。
それからさらに年月が経ち、お袋もすっかり腰が曲がった。
かつてのように湯船を沸かし直すことも、戸の前に食事を運ぶことも、お袋にとっては大仕事になっていた。
それでも、お袋は文句一つ言わず、擦ったような足音をさせてやってくる。
「ふーちゃん、今日はいい天気だよ」
戸の向こうで、お袋がふぅふぅと荒い息をつきながら、鼻歌を歌っている。
「ちきしょー、何が面白いんだよ」
何もできない自分への惨めさが、さらに俺を突き放す。
けれど、止まっていた時計の針が、ほんの、ほんの少しだけ揺れた。
チリーン、
チリーン、チリーン。
高い空の上、布袋は大きな袋を広げて待っている。
「良いか、ふーよ。度量とは、知識があることではない。自分の惨めさも、動けなかった歳月も、まるごと飲み込んで『これも俺の人生じゃ』と笑える器のことよ。そなたの袋は、まだ空っぽじゃ。これから何を入れても良いのだぞ」
最初の「一歩」は、敷居を越えて
七十代になった今、俺の手はシワだらけだ。
何もしなかった五十年間。
でも、お袋がよろけながら台所に立っている音がする。
お膳を自分で台所に下げて、ついでに重たいヤカンでも持ってやろうか。
俺の「空っぽの袋」に、今日、何かが初めて入る音がした。
高い空の上、布袋は満足げに頷き、ふーさんの部屋を温かな光で包み込んだ。
「まずは、お袋さんの鼻歌に合わせて、指先だけでも動かしてみるが良い。そなたが敷居をまたぐその時が、お袋さんにとって最高の『福』になるのじゃからな」
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