見出し画像

改竄された卑弥呼即位の歴史と大和の副都だった近江

エジプト、ツタンカーメン王が発見されてから100年以上ぶりの新しい王墓を発表(2025年2月18日)

図説古代エジプト人物列伝参照ですが、ミイラの発見でニュースになったトトメス2世は漫画(碧いホルスの瞳)にもなったハトシェプストの夫で2年の治世で世を去っています。トトメス1世の娘で2世(異母兄弟)の妃だったハトシェプストは摂政となり、政治を預かりますが、長いエジプトの歴史でも異例(2例目)の女王に即位した「偉人」と言えますが、彼女の死後にトトメス3世(2世の側室の子)は大王妃としての図像や記念物を残し、女王としての図像や記念物を破壊し、記録を改竄してしまいます。神聖な王権の職務を女性が保持していたことを無かったことにしたかったようです。

これに(同じ太陽信仰で近親婚もあって巨大墓の)日本で相似するのは、(箸墓で著名な)モモソ姫でしょう(箸墓の被葬者、倭迹々日百襲姫命|古墳時代史解題)。魏志倭人伝に卑弥呼として即位していた様子が見られますが、日本書紀では大物主神の妻(また別に記事を立てますが、妃=私部(きさいべ)(物部氏)がいた)で巫女としてしか伝承が残っていません(卑弥呼の業績は神功皇后(応神天皇の摂政)に天皇の寿命を変更してつけかえられています)。女性が王だったのが異例だった(魏志倭人伝に代々男王)ので、歴史が改竄されたと見られます(多分、巫女である為に夫はいなかったと思いますが)。

ハトシェプストには摂政時代に業績を上げて即位に貢献したセネンムトという寵臣/家令がいました。セネンムトはハトシェプストより先に亡くなりましたが、用意していた二つの葬祭記念建造物のいずれにも埋葬されなかったようです。敵が多く報復を受けたとも、子孫がいなかったからともされます。女王の寵愛を勝ち取り保ち続けることの代償だったようです。

モモソ姫のセネンムトにあたるのが、(モモソ姫の地盤と見られる河内の女性を母に持つモモソ姫の甥の)武埴安彦と考えています。モモソ姫の時代の中心地は手焙形土器から寧ろ近江だったと見られるからです(卑弥呼の土器と日置部と大伴氏、そして中臣氏|古墳時代史解題)(見出し画像はウィキペディア「手焙形土器」十里遺跡出土品 滋賀県栗東市。滋賀県立安土城考古博物館蔵。あずきごはん)。武埴安彦の根拠地と見られる近江国野洲郡には三輪山に相似する三上山があって、息長(恐らく=天津彦根命系)が祭祀をしていたと見られます。

伊勢遺跡(守山弥生遺跡研究会ページ>中央部の建物群は、魏志倭人伝に【宮室楼観城柵厳設】と書かれている「卑弥呼の居処」と似た構成・・・日常生活を送った形跡に乏しいとされるのは纒向と同じなんですが、平時に統治機構が置かれた首都ではなく、戦時の司令塔なのかな?という気もします。肥前名護屋城に近い?物資は移入で生産拠点ではない?藤原宮や平城宮・平安宮のような宮殿施設?少なくとも近江の伊勢遺跡周辺は遺跡銀座になっていて、それを一体的に捉えると(纏向以上の)生産拠点でもあったと言えると思います)(伊勢遺跡史跡公園遺構展示施設)もあります。世界史(古代史で言えば)アケメネス朝ペルシアの首都のパサルガダエ → ペルセポリスは世界初の「世界帝国」なのに、両首都とも儀式用で常住人口は極めて少ない(王宮都市)とされるようです。伊勢遺跡群や纒向遺跡も王宮都市だったと思われ、藤原京(条坊都市)まで人口が多い首都は日本に存在しなかったでしょう。

伊勢遺跡群(守山弥生遺跡研究会ページ>下鈎遺跡では小銅鐸や銅鏃、銅滓(かす)が出土していて、金属器の生産が行われていた可能性があります。>下長遺跡では古墳時代初頭の準構造船の部材が出土しているほか、北陸・東海・山陰・近畿・瀬戸内地方の土器が集積されていて、野洲川や琵琶湖を介して、他地域と交易を行う玄関口として機能していたとみられます。>下長遺跡、下鈎遺跡は縄文時代ないし弥生時代中期から発展しているのに対し、伊勢遺跡は弥生後期中頃に突如出現する・・・伊勢遺跡は大和の傘下に入って初めて発展した遺跡じゃないですかね?下鈎遺跡と下長遺跡を抑える為に置かれたまつりごと(政治・祭祀)の拠点みたいな。何より伊勢という太陽信仰の拠点的な名前が全てを物語っているように思います。下長遺跡の長は那賀の可能性を考えても良いかもしれません。少なくとも交易は北部九州の得意とするところです。下鈎遺跡からは権(おもり)が出土していて、青銅器生産や朱の計量に使われたようです。何より注目すべきはマガリの地名で、古事記の崇神天皇陵(崇神天皇の母は物部氏)と同じ名前で(古事記における崇神天皇陵=山辺道勾岡上陵は西殿塚古墳|古墳時代史解題)、後に安閑天皇は大兄廣國押武金日天皇と言い、勾(マガリ)金橋宮を構え、物部氏の妃を貰い、古市高屋丘陵(高屋築山古墳)に眠ります(高屋連が物部氏))。あまり知られていませんが、纏向/三輪周辺に物部氏の痕跡は多いです(大和国神別「志貴連」(物部氏)や三輪山への登拝口が境内にある式内狭井坐大神荒魂神社(五座)と大和国神別「佐為連」(物部氏)等)。物部氏は勿論首都に必要な物資を取り扱っていたと思います。

モモソ姫政権でモモソ姫に次ぐNo.2だった(魏志倭人伝のNo.1の官の伊支馬=イクメだった)武埴安彦はモモソ姫の死後に即位を試みますが、結果は武埴安彦に次ぐNo.3だった大彦命が甥の崇神天皇とその娘の豊鍬入姫命(台与)を推し立て、転出していたモモソ姫の弟の吉備津彦命の協力も得て、「反乱」は鎮圧され、崇神天皇が即位します(中国には豊鍬入姫命が後を継いだことにした)(邪馬台国の官の解析と狗奴国王との争い|古墳時代史解題)。勿論、武埴安彦の業績は語り継がれませんでした。武埴安彦の子孫は記録に残っていません。

ただ、モモソ姫は天照大神として神話に残りました。河内が地盤だった中臣氏(魏志倭人伝のNo.4の官の奴佳鞮)が(崇神天皇の次代の垂仁朝以来)伊勢神宮等を通じて伝承を残したからです。伊勢神宮の祭祀氏族は中臣氏でだから伊勢遺跡なのです。そして武埴安彦の母の父が河内青玉縣です。中臣氏の本来の本拠地が中河内の枚岡神社(元春日)あたりと考えられ、中田遺跡刑部土坑出土土器群(>古墳時代初めの集落跡である中田遺跡>吉備で製作された土器と吉備の技術で製作された土器が大半を占めるなか、庄内式甕の最も古い時期のものが含まれていた)で土器を中心にモモソ姫の弟が制した吉備とも関係あるんですね。出雲の国譲り神話でも中臣氏が祀る武甕槌神が活躍します(藤原氏(中臣氏)を俯瞰する|古墳時代史解題)。

首都が大和(纏向)で外交を行い、副都(近江)が政治を行う体制に違和感を感じる人が多いかもしれませんが、手焙形土器が証拠になるでしょうし、その頃の近江の遺跡は尋常ではないようです。AI調べですが、世界史上にもアケメネス朝ペルシア帝国・スサの副王、後期ローマ帝国/東ローマ(ビザンツ)帝国のカエサル(副帝)/アウグストゥス制度、スペイン・ハプスブルク帝国(16〜17世紀)の副王、ポルトガル海上帝国(16世紀)のインド副王、オスマン帝国(16〜18世紀)のエジプト総督といった例があるようです。日本では鎌倉の征夷大将軍(頼朝の頃、承久の乱以前)が近いかもしれません。

参考記事:孝元天皇/素戔嗚尊の母(イザナミ?)は近江出身だった?(息長氏の謎解き)|古墳時代史解題(有料記事)
十市県主の謎解きから三島県主・藤原鎌足との関係、乙巳の変が起こった理由、天武朝・天智朝の遷都の謎へ|古墳時代史解題(有料記事)

いいなと思ったら応援しよう!

古墳時代史解題 よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!