上道郡の大吉備津彦命とその後裔の墓(浦間茶臼山古墳と操山古墳群)
浦間茶臼山古墳。国史跡。墳丘長138mの撥型に開く出現期前方後円墳で、大吉備津彦命墓に治定されている墳丘長105mの中山茶臼山古墳より大きい。上道郡の古墳で(古墳時代開始期の)吉備上道臣の祖の古墳と考えられますが、その祖とは古事記に云う大吉備津日子である可能性は否定できません。勿論、大吉備津日子の墓は吉備の中山の中山茶臼山古墳に治定されているのですが、若日子建吉備津日子命=稚武彦命と治定を間違っていることに関しては、大吉備津日子命か若日子建吉備津日子命か(吉備津彦神社の謎解き)|古墳時代史解題を参照してください。私が行った時は浦間茶臼山古墳は、草刈整備中でした。
上道郡宇治郷に当たるようにも思われ、大日本地名辞書は宇治郷を内ヶ原村に比定しているようです。上道郡には那紀郷(未詳)もあり、これも山城国久世郡那紀郷で宇治に近い郷名です。私が思うに稚武彦命系の御友別が自分の祖でない大吉備津彦命の墓(浦間茶臼山古墳)周辺の領地を応神天皇の後継者に位置づけられていた菟道稚郎子皇子に寄進しています(御友別の母が大吉備津彦命系の上道臣の可能性等考えられます。この縁組の理由は、御友別の父とされる(実際は祖父か?)吉備武彦命が日本武尊に助力して中央にコネクションがあったからだと思われます)(この時に稚武彦命の墓が「吉備津彦命」の墓とされ、大吉備津彦命を合祀して祀るようになった可能性も考えられます)。



2026年1月14日改訂)浦間茶臼山古墳の後裔については、操山古墳群だと思いますが、操山は後の上道郡上道郷とされる賞田廃寺跡にも近い。どうもこれは吉井川水系から旭川水系に移ったっぽいのですが、これは第一に大吉備津彦命の後継者二人が平井(操山109号墳)と網浜(茶臼山古墳)に古墳を造ったと考えられることと関係しそうです。大吉備津彦命自身は浦間付近にいたのでしょうが、その子供を操山のあたりに送り込んだと考えられます。そして大吉備津彦命の子孫は、古墳時代前期の間は古墳を築かなかったとも考えられます(ごく初期の古墳しか存在しない)。任那国司に関連して、系譜が連続する稚武彦命系のリーダーシップに従っていたのでしょうか?或いは逆に任那国司として遠征していて、故郷に古墳を造らなかったのでしょうか?
これが変わる兆しが見えたのは古墳時代中期以降で、湊茶臼山古墳(未完成らしい)と金蔵山古墳が操山古墳群に築かれます。これはどうも稚武彦命系が麛坂皇子・忍熊皇子に近い血筋だったことで、大吉備津彦命系が復権したような気もします。しますが、次代は造山古墳の首長(稚武彦命系の御友別命)に(また?)古墳を(吉備氏として)一本化したようです。御友別命の母が金蔵山古墳の被葬者の娘の可能性等、考えられるでしょう。
なお、古墳時代中期には、邑久郡の設置(花光寺山古墳の築造と牛窓の古墳群の開始:吉備の海浜型前方後円墳(牛窓の古墳群)と任那加羅と土師氏|古墳時代史解題)があったと考えられ、吉井川水系の下流を吉備海部氏が抑えることになったので、上道氏は本拠を操山の方に一本化したとも考えられます。また、赤磐市から操山丘陵の東の百閒川に至る砂川は吉井川や旭川に比べて小規模で水運が盛んだったとは言えないようです。網浜廃寺とかも旭川水系ですね。
ここで岡山市雄町遺跡の銅鐸が出土ですが、大和と関係が深かった可能性があって、近隣の百間川沢田遺跡(弥生時代前期~古墳時代前期)が吉備海部氏に関係する可能性もあると思います。
吉井川水系に関しては、後の西大寺(上道郡)と西大寺一宮(安仁神社/邑久郡)が怪しいです。共に古墳時代中期以降に赤坂郡に定着したと見られる稚武彦命系の上道氏が関係すると思いますが(両宮山古墳と牟佐大塚古墳、美作、吉備の名は?|古墳時代史解題>宝亀11年(780年)の西大寺資財流記帳(奈良西大寺文書)の上道広成の南都西大寺(秋篠山(旧称))への大豆田庄(上道郡豆田郷)の寄進)、浦間茶臼山古墳から吉井川水系右岸を下流に下ったところにあります。安仁神社に関しては、吉井川河口から牛窓方面と連携する内陸に位置します。吉備海部氏の本拠地そのものの可能性もあります。吉備海部氏は大吉備津日子命系上道臣が上道郡上道郷(旭川水系左岸か)に移動してから、上東遺跡(や百間沢田遺跡)から移動した可能性を考えています。上道郡豆田郷の西大寺の方は稚武彦命系の上道臣登場の前には、大吉備津彦命系の吉備海部氏と連携する吉井川水系の港として機能したのでしょう(浦間から南下)。
(龍ノ口山と操山に挟まれた)上道郡(特に上道郷?)には廃寺が数多く、(大吉備津彦命系)上道臣は仏教を奨励していたようです。また龍を信仰しており、後に八大竜王の信仰になっていくようです。龍脈・龍穴(≒龍の山?)は中国の信仰に淵源があり、(気の流れを物の位置や方向などによって変えるという思想である)風水と結びついて、後に竜操という地名になったと思われます(操山は古くは瓶井山(みかいやま)という)。
時期的には風水(陰陽道/天文遁甲?)に凝ったらしい天武天皇と上道臣が強く結びついて、古事記に大吉備津彦命系上道臣の主張が載ったのだと思います。上道郡の式内社は大神神社(四座)(岡山県岡山市中区四御神)(四は元は方位/四神の四だと思われる/龍ノ口山南麓)ですから、壬申の乱に貢献した三輪氏が大吉備津彦命系上道臣を推したのでしょう。三輪にも龍王山があります(上道も三輪の前の(箸墓のある)上道に由来した可能性が高く、応神天皇紀に下道は見えませんので、後付けの地名でしょう。だから箭田大塚古墳まで下道郡に古墳が目立たないのです)。
勿論、陰陽道と仏教は別物ですが、持統天皇は火葬されていますし、天武王統でも国家鎮護の仏教の奨励があったのは、皆さんご存知の通りです。八大竜王は八岐大蛇を想起しますから、当初は(上道郡では)意識されていなかった気がします。大吉備津彦命が吉備の中山に取り込まれてから、八大竜王(吉備の中山を守る会)の信仰に変わっていくのでしょう(>備前国一宮大明神並御両神年中行事によれば、3月3日山上八體龍王祭禮)。
賞田廃寺跡(岡山県岡山市中区賞田)岡山観光WEB>白鳳時代の創建と推定される備前地域では最古最大の寺院跡。地方寺院には珍しい壇上積基壇の遺構も出土しています。近くには備前国庁跡(和名類聚抄では御野郡ですが、少なくとも奈良時代には上道郡説が有力視されています。国分寺・国分尼寺は赤磐郡とされ、稚武彦命系と大吉備津彦命系で分け合う判断だった可能性が高いと思います)や唐人塚古墳(岡山県岡山市中区賞田。かろうとづかこふん。未調査らしく詳細不明)などもあります。山陽道は赤磐郡を通っており、国庁とは支線で繋いでいたと思われます。支線で国庁へ向かう途上に賞田廃寺跡があって、大吉備津彦命系上道氏の氏寺と考えるのが妥当なようです。操山古墳群との間に幡多郷を挟みますが、古墳時代とは状況が変わったのかもしれません。この周辺が和名類聚抄時点の上道郷と考えられており、少なくとも賞田廃寺が創建された頃からは続いているのでしょう。そしてそのタイミングは「初修京師、置畿內國司・郡司・關塞・斥候・防人・驛馬・傳馬、及造鈴契、定山河。」とある大化の改新(山陽道の建設)と同時期であった可能性が高いです。
網浜廃寺。これまでの出土遺物で奈良時代前半からあったことが判明(賞田廃寺発掘調査報告)。なお、岡山県岡山市中区網浜に岡山市埋蔵文化財センター。近隣の網浜南新町に網浜茶臼山古墳。
居都廃寺(宍甘惣ケ池の南側一帯)(=宍甘廃寺)。「こづ」とは音韻的に河津を指すと思われ、宍甘(しじかい)氏の氏寺かと思われます(近隣に古都の地名もありますが、国府(こう)とは関係なく、国分寺説は誤りのようです。赤磐市に国史跡があります)。「しじかい」とは猪飼のことだと思われ、モモソ姫の母の一族の安寧天皇系猪使氏か、和珥氏の猪甘首氏か、どちらかの可能性が高く(ただし、どちらも中央では猪はイと訓むとされます)、中央氏族だと思います。氏祖は古式の宍甘山王山古墳(標高58mの山地に位置する墳丘長68.5mの前方後円墳)に眠ると考えられ(日吉の山王信仰は大物主神との関係が深く)、吉備の氏族的にも前者の可能性の方が高いかとは思われます。
幡多廃寺(=幡多赤田廃寺)。上道郡幡多郷に由来すると思われ、秦氏の氏寺であった可能性も考えられます。吉備と秦氏の関係は史料上では薄いのですが、ことによると、吉備氏が任那国司であることと関連して、(稚武彦命系が赤磐郡に進出する前から)秦氏が吉備に移住した可能性も考えられなくもないでしょう。何にせよ、吉備に秦氏がいたとすれば、氏寺をつくる理由はあったと言えます。備中国の秦原廃寺も秦氏の氏寺と考えられているようです。
2026年3月24日追記)「楯築墳丘墓と前方後円墳」で宇垣匡雅先生が言っていたのですが、浦間のあたりは湿地帯だったようです。これで私はピンときました。恐らく箸墓の立地に近いです。崇神天皇紀の倭迹速神淺茅原目妙姬は恐らく箸墓の被葬者のモモソ姫と別名だと思いますが、纒向遺跡のあたりは湿地帯があって、そこで祭祀をしていたようにも思われるんですね。これはモモソ姫の母系の「安寧天皇」系の祭祀で、つまり恐らく=倭国造(唐古鍵・芝・磯城郡)系の祭祀です。浦間茶臼山古墳は上道郡ですから、モモソ姫の弟の大吉備津彦命の真の墓で、モモソ姫と似た環境に葬られたのだと思います。
箸墓の次代の王は(台与/豊鍬入姫命13歳の後見人の)崇神天皇でしょうが、ここから祭祀を変えて、山辺に古墳を築くことにしたようです。その理由は確証はありませんが、多分、西殿塚古墳を築いたと思われる(崇神天皇の後継者の)垂仁天皇(山幸彦のモデル)の意志なのでしょう。垂仁天皇の母が大彦命の娘で東出雲と阿倍氏は関係が深かったようです(安部谷横穴墓群/社部氏が大彦命系)(崇神天皇紀に「皇太子奏于天皇。則勅之使祭。」と見え、垂仁天皇と(西出雲だった)出雲の祭祀の復活が関係が深く、恐らく皇太子(後の垂仁天皇)の意向で東出雲に出雲国造は移っています。
浦間茶臼山古墳の次代からは、操山古墳群に上道臣は墓域を移したようです。これは垂仁朝にモモソ姫の祭祀を伊勢に移す等、祭祀面で孝元天皇の祭祀を主軸に据えたことに歩調を合わせたのだと思います。稚武彦命系の下道臣も吉備の中山を墓域としたと見られます。素戔嗚尊の山への降臨を意識したのでしょうか?西殿塚古墳が山上にないのは、巨大過ぎるからとも考えられますし、道行く人に威容を見せる為とも考えられますが、いずれにせよ、箸墓とは一線を引いていいような気がします。
2026年4月18日追記)「操山を歩く」(岡山文庫223)を読んで。操山の北の百間川遺跡(当時)(原尾島・沢田・兼基今谷・米田当間)は弥生時代以降の(原尾島は縄文時代以降の)集落遺跡・ガラス工房・倉庫群で、上道郡の中枢部であったと思われます。操山古墳群は古事記の大吉備津彦命系上道臣の墓域でしょう(大吉備津彦命は浦間茶臼山古墳か)。中でも最大の金蔵山古墳(墳丘長165m)は造山古墳被葬者(御友別命)の母の父か兄弟の古墳と思われます。東山電停から操山登山口へ入って、金蔵山古墳には辿り着くように書いていますが(49p)、先程PCで調べた限りでは、道があるか怪しいかもしれません。立派な古墳群だと思いますが、道なき道を行く覚悟が必要かも。
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