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大吉備津日子命か若日子建吉備津日子命か(吉備津彦神社の謎解き)

備中一宮の吉備津神社の奉斎氏族を考察していきますが、古事記の上道臣祖の大吉備津日子命の墓としては、上道郡の浦間茶臼山古墳の方が備中国賀陽郡と思われる中山茶臼山古墳より、築造時期も古く、大きさも大きく妥当だと思われ、備前一宮の吉備津彦神社は備中国賀陽郡の吉備津彦神社でもない以上、何故、吉備の中山の神社の祭神が現在大吉備津彦命とされ、中山茶臼山古墳が大吉備津彦命の墓に治定されているか、考える必要はあります。

私が思うに本来備中国の吉備津彦神社を備前の神社が名乗っている以上、安仁神社の祭神が分からなくなっている以上、ある時、吉備の中山が大吉備津彦命の領域となり、安仁神社の役割が移転したのではないかと考えるしかありません。延喜式編纂より後の中世にです。或いは藤原純友に安仁神社が味方して一宮を剥奪されたと伝わるようですので、その時に吉備津彦神社サイドが若日子建吉備津日子命(記)から大吉備津彦命に祭神を変えて、備前の一宮を抑えにいったと考えると自然のような気もします。そう考えると、吉備津彦神社の奉斎氏族は、備中の吉備津神社の奉斎氏族であろう稚武彦命系の香屋臣と考えるのが自然なのですが・・・。

備後の吉備津神社(式内社ではない)も恐らく同じで、稚武彦命系の香屋臣が奉斎氏族でしょう。今では日本は先祖崇拝と思われていますが、古代史の常識として、日本は確固たる先祖崇拝ではないというのがあり(例えば物部氏は饒速日尊を本来祀りません)、だから稚武彦命系の香屋臣が大吉備津彦命を祀っても、宗教的に大きな問題はなかったと考えられるんですね。また香屋臣は稚武彦命系の本流ではなかったことにも注意が必要です。

更に吉備の中山の古墳を分析していくと、中山茶臼山古墳(墳丘長105m)は稚武彦命だとして、尾上車山古墳(墳丘長150m)はその後継、(最古式で特殊器台を出土した墳丘長35.5mの)矢藤治山古墳は、尾上車塚古墳の被葬者の母かその父(稚武彦命の妻かその父)あたりの可能性が高いように思います。

問題は出現期古墳で大吉備津彦命の古墳のように思われる浦間茶臼山古墳(墳丘長130m)の位置です。上道郡なので、古事記の上道臣の大吉備津彦命の古墳と考えて良いとは思うのですが(日本書紀には大吉備津彦命の後裔は見えない)、何故そこかの疑問は残りますし、後裔はいなかったのかということになります。

まず後裔については操山古墳群(4世紀~7世紀)でしょう。後の上道郡上道郷にも近い。どうもこれは吉井川水系から旭川水系に移ったっぽい。これは川船と遠洋船が刳舟で同じものだと考えられることから、川港がそのまま海への玄関口になっていたことに起因すると思います。水系は変わりましたが、どちらも港を抑えていた訳です。弥生在来系の吉備の港の上東遺跡は古墳時代前期も存続していましたから(温存せざるを得なかったのでしょう)、最初の吉備における大和の港は浦間あたりが妥当だったとも考えられます。それが吉備に入って、大和の勢力が伸びたことから、より在来系吉備の中心部に近づく形で本拠地が移動したと考えるとどうでしょうか?

山の上の古墳は在来系吉備の模倣とも考えられ、大和が吉備に学んで統治をやり易くした側面もあるのかもしれません。

2025年12月6日追記)備前と備中の式内社を比べると備前の方が中央大和系の神社が多いことに気付くと思います。備中の方は在地系の信仰の残存で、中央の史料を見ても縁起が良く分からないところがありますが、備前の方というか中央大和系の神社は中央大和の歴史に詳しくなると、何となくその縁起が見えてくるところがあります。弥生時代の吉備の考古学からも、備中の方が濃いことは明白です。初期大和朝廷は領土をとりあえず拡大する為に降伏したら、当初は残存を許した気配があります。だからリーダーたる大吉備津彦命が在地の弱い備前を抑え、異母弟の稚武彦命は稚武彦命的には実入りが少なかったであろう在地勢力が強い備中の監視的任務についたのでしょう(吉備海部氏(上東遺跡)は古墳時代前期には残存していたと思われます)。これが吉備海部氏を邑久郡に移動させた後、元々の生産力で稚武彦命系の優位に繋がってくるという流れだと思います。

2026年4月9日追記)>吉備津彦神社は稚武彦命(記:若日子建吉備津日子命)の墓がある吉備の中山に、大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命を祀って「吉備津彦神社」としたのが始まりではないかと今は考えています。恐らく御友別命が下道臣だけではなく、大吉備津彦命系の上道臣(上道郡)を管轄するようになり(操山古墳群に大きな古墳が築かれなくなり)、赤坂郡に自分の後裔の上道臣を置いたからです。この合同は御友別命の母が大吉備津彦命系の上道臣の可能性があると思いますが、いずれにせよ、稚武彦命の系統は日本武尊の母を出しているので、応神天皇の祖父と系譜上位置づけられる(実際は仲哀天皇の子か怪しいにせよ)日本武尊を推した古墳時代中期に台頭したと思われます(古墳が畿内に匹敵する大きさになります)。或いは任那国司として、鉄器大量副葬時代とも関係あるでしょう。本来の大吉備津彦命の墓は上道郡の浦間茶臼山古墳だと思いますが、大吉備津彦命系の上道臣の墓域は操山古墳群に移動していたと思われることもあり、魂を吉備の中山に勧請することで手を打ったのではないかと思われます。以上の事情が平安時代に結局大吉備津彦命を上位に置き、墓の被葬者の伝承が変わった伏線になったかと思います。

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