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1940「日独伊三国同盟」から謎の反転。

日独伊三国同盟ですけど、レイテ湾の栗田艦隊に先駆けての反転!日本とドイツ&イタリアはうまく噛み合っていなかったようです😅
1941年6月22日開戦のバロバロッサ作戦へは参戦せず、ナチスからの要請もあった北進(ソヴィエト攻撃)への方針を取り下げ、7月2日御前会議で、正式に南進が決定されてしまいました。

ナチスドイツは1936年の日独防共協定の頃から日本との同盟強化を積極的に推進していていました。日本側は大島浩(駐独日本陸軍武官)。

 、陸軍少将: 大島浩

1940.9.27日独伊三国同盟


1940年9月27日に日独伊三国同盟に調印します。ドイツ側推進責任者は、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相で、イタリアはガレアッツォ・チャーノ、日本は来栖三郎大使でした。

さて、この1940三国同盟では、日本は一体どんな役割を担っていたのか?

日独伊三国同盟 1940.9.27

Dreimächtepakt zwischen dem Deutschen Reich, dem Königreich Italien und dem Kaiserreich Japan

1940年(昭和15年)9月27日、ベルリンで調印
日本側全権:来栖三郎(駐独大使)
ドイツ側全権:ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(外相)
イタリア側全権:ガレアッツォ・チャーノ(外相)

前文
日本国、ドイツ国及び伊太利国の政府は、世界の各国民が各々その所を得るを以て恒久平和の先決条件と為すを考慮し、大東亜及び欧州の各地域に於ける各自の努力に関し相互に援助協力するを決意せり。而して其の主たる目的は、関係諸民族の共存共栄を増進するを以て計算せられたる事物の新秩序を建設維持するに在り。

更に三国政府は、世界の他の地域に於て同様の方向に其の努力を向くる傾きある諸国に対し、協力の範囲を拡張するを欲し、斯くして世界平和に対する究極の願望を実現せしめんとす。

依て日本国、ドイツ国及び伊太利国の政府は左の如く協定せり。

第1条
日本国は、ドイツ国及び伊太利国の欧州に於ける新秩序建設に関し指導的地位を認め且つ之を尊重す。

第2条
ドイツ国及び伊太利国は、日本国の大東亜に於ける新秩序建設に関し指導的地位を認め且つ之を尊重す。

第3条
日本国、ドイツ国及び伊太利国は、前記の方針に基く努力に付て相互に協力すべきことを約す。更に三締約国中の何れか一国が、欧州戦争又は日支紛争に参入せざる一国に依り攻撃せられたるときは、三国はあらゆる政治的、経済的及軍事的方法に依り相互に援助すべきことを約す。

第4条
本条約実施の為、日本国政府、ドイツ国政府及び伊太利国政府の任命に依る委員より成る混合専門委員会を遅滞なく開催す。

第5条
日本国、ドイツ国及び伊太利国は、上述の条項が三締約国とソヴィエト連邦との間に現存する政治的地位に何等の影響を及ぼすものに非ざることを確認す。

第6条
本条約は署名後直ちに効力を生じ、其の効力発生の日より十年間効力を有す。右期間満了前適当なる時期に於て、締約国の何れか一国の請求に依り、更新の為の交渉を行うべし。

署名者は各自の政府に依り正当に委任せられ、本条約に署名し、且つ之に署名を附したるを以て信を置く。

千九百四十年九月二十七日、ファシスト紀元第十九年、昭和十五年九月二十七日、ベルリンに於て三通を作成せり。

第3条が最も重要で、主に米国からの攻撃に対する相互援助義務を定めています。これが米国牽制の核心でした。第5条により、独ソ不可侵条約などには影響しないことが明記され、即時の対ソ参戦義務は回避されました。⚠️条約は10年間有効とされました。

翌年の日独首脳会談 1941.3.27

左側(軍服姿): 日本駐独大使・大島浩陸軍中将。 中央: 日本外務大臣・松岡洋右。
右側: アドルフ・ヒトラー 

この写真は、1941年3月27日の前後に、ドイツ・ベルリンにある新帝国首相官邸(Neue Reichskanzlei)で撮影されたものです。 ヒトラーの公式カメラマンであるハインリヒ・ホフマンが撮影

松岡洋右は岸信介の伯父にあたります。 松岡洋右の妹・藤枝が、佐藤松介に嫁いでいます。 佐藤松介は、岸信介・佐藤栄作兄弟の叔父です。 つまり、松岡洋右は岸信介・佐藤栄作兄弟にとって母方のおじ(伯父)という関係になります。 松岡洋右:南満州鉄道(満鉄)総裁として、満洲国の経済・交通インフラを主導。 岸信介:満洲国で産業部次長・企画部長などを務め、「満洲産業開発五カ年計画」の立案に深く関与。

Grok4

松岡外相は1941年3月下旬にベルリンを訪れ、ヒトラーおよびリッベントロップ外相と会談し、日独伊三国軍事同盟の強化について協議しました。この会談は、枢軸国間の連携を深める重要な外交イベントの一つでしたが、⚠️同時に日ソ中立条約の締結の可能性も伝えていたようです。

第二次近衛内閣

大島浩はバロバロッサ作戦を理解し東京へ打電

ヒトラーと会談する大島浩

そして、2週間後

🟥日本ソヴィエト中立条約 1941.4.13

スターリン(ソビエト)と松岡洋右(日本外務大臣)

日本はドイツがソビエトへ侵攻する「バルバロッサ作戦」(1941年6月22日開始)の計画情報を大島浩から伝えられていましたが、その手前で、日本・ソビエト中立条約を締結しました(1941年4月13日)。
⚠️大島浩は早い時期に察知して東京に打電しましたが、日ソ中立条約締結阻止することはできませんでした。

Grok:日本は自国の戦略的利益(南方資源確保と米英との対決)を優先し、ドイツ・ソビエト戦という「ドイツの欧州戦争」に巻き込まれるのを避けたのです。これが結果的に連合国側に有利に働きました。 三国同盟自体が紙の同盟に近かったため、日本が「逃げた」としても、ドイツ側も日本を強く縛る力はありませんでした。
 
また、1941年3月4日:オット駐日ドイツ大使は杉山元参謀総長や永野修身軍令部総長らを大使館に招き、米国の参戦を防ぐための戦略的圧力として「ドイツの英本土上陸作戦に呼応して日本がシンガポールを攻略すべき」と要請していました。この要請は三国同盟の枠組みで日本を南方進出に引き込む狙いがありました。Grok

ナチスドイツ卐の4月13日直後の対応

当時のヒトラーやナチスドイツ側は、戦略的に黙認(acquiescence)の下で結ばれたと位置づけました。

ベルリンでの驚きと動揺


ドイツ外務省内では日ソ中立条約締結に驚きと動揺がありました。

バルバロッサ作戦 1941年6月22日

  • 正式名称: バルバロッサ作戦(Operation Barbarossa)

  • 開始日時: 1941年6月22日(日曜日)午前3時15分頃(ドイツ軍の攻撃開始)

  • 内容: ナチス・ドイツがソ連に対して大規模侵攻を開始した作戦。

日本にシベリア攻撃を強く要請


ここで初めてドイツ側の失望が表面化します(1941年6月22日以降)。

独ソ戦開始直後、リッベントロップ7月10日に東京のドイツ大使に電報を送り、「日本シベリア攻撃強く要請」しました。
しかし日本は中立条約を遵守し南進を優先。松岡外相だけが条約破棄・対ソ参戦を主張しましたが、政府・軍部・天皇に却下され、失脚しました。

この時点でナチスドイツは日本の一貫性のなさに不満を漏らしていて、戦略的にも大きな失望があったようです。

左:松岡洋右、右:リッベントロップ

「リッベントロップ電報」 日本語訳(全文)

外交ドイツ 東京 暗号電報(秘密暗号システム) 大使宛(親展)

特別列車ヴェストファーレン 第707号 1941年7月10日
外務省暗号室 第634号

この機会に、モスクワの日本大使が電報の報告を伝達してくれたことに感謝を伝えてください。この方法でロシアからのニュースを継続的に受け取ることができれば便利です。総括して申し上げます。私はこれまでと同様、日本政府の政策および日本外相に対して全面的な信頼を置いています。なぜなら、現在の日本政府が、ロシア問題を解決し、南方への拡大を永続的に確保し、中国問題を解決するという、この国にとって唯一無二の機会を逃すようなことがあれば、それは自国の将来に対して許しがたい行為となるからです。モスクワの日本大使が報告しているように、ロシアは事実上崩壊寸前であり、この報告は現在の戦争状況から我々が判断できる限りで我々の観察とも一致しています。したがって、日本が軍事準備が整い次第、ウラジオストクおよびシベリア地域の問題を解決しないということはあり得ません。

もちろん、日本が南方(インドシナなど)でさらなる領土を確保しようとするのも我々の利益にかなうことであり、日本によるあらゆる拡大措置は原則として我々から歓迎されるものです。アメリカ軍によるアイスランド占領の結果として生じ得る(そして間違いなく生じるであろう)事態、およびそれに対する我々の日本に対する態度については、近いうちに詳細な指示を送ります。話し合いの指針として、すでに今日からお伝えできることは、アメリカ軍が我々が公式に戦闘地域と発表した地域にイギリスを支援するために軍を送り込むことは、ルーズベルトの攻撃的意図を示すだけでなく、アメリカ軍が戦闘地域に侵入してイギリス側に加わる行為そのものが、ドイツおよびヨーロッパに対する侵略であるということです。結局のところ、二つの軍が戦っている戦場に一方の軍に加わるために入る以上、射撃する意図なしに、かつ実際に射撃せずにいることはできません。ドイツとアメリカの間で敵対行為が発生した場合(今日すでにアメリカだけが攻撃者であることは絶対的に確立された事実とみなせます)、日本が三国条約で合意された義務を履行することは疑いありません。しかしながら、私はすでに松岡外相への書簡で述べたように、日本がロシアに対する戦争への参加をできるだけ早く実現するよう、引き続きあらゆる手段を尽くして強く要請するようお願いします。この参加が早ければ早いほど良いのです。自然な目標は依然として、冬が始まる前に我々と日本がシベリア鉄道上で手を結ぶことです。しかし、ロシアが崩壊した後には、三国条約諸国の世界における地位は非常に巨大なものとなり、英国の崩壊、あるいは英国諸島の完全破壊の問題は、時間の問題となるでしょう。世界から完全に孤立したアメリカは、その後、三国条約諸国にとって重要な英国帝国の残存拠点を我々が掌握するという事態に直面することになるでしょう。我々が望む新秩序の遂行は当然のことであり、三国条約諸国が緊密に連携し、アメリカのあらゆる行動に同じ武器で対抗するならば、乗り越えられない困難は存在しないという揺るぎない確信を持っています。政治情勢については、近いうちにできるだけ頻繁に、かつ詳細に報告するようお願いします。

     リッベントロップ

 1941年7月10日、電報管理番号1018により東京大使館に送信済み
 Ulrich Friedrich Wilhelm Joachim von Ribbentrop

オット駐日ドイツ大使の返電 日本語訳(全文)

(秘密暗号システムによる電報) 東京発 1941年7月14日 午前2時30分 到着

至急! 第1217号(7月13日付) 外務大臣宛

私は、日本がロシア(ソ連)に対する戦争への参加をできるだけ早く実現するよう、あらゆる手段を尽くして努力しています。特に、外相からの個人的メッセージと上記の電報の論拠を用いて、松岡外相本人をはじめ、外務省、軍部、民族主義者、友好的な実業家たちを説得するよう努めています。軍事準備の状況から判断して、日本が参戦するのは間もなく実現すると信じています。
最大の障害は、積極派グループの間の不統一です。彼らは統一された指揮系統を持たず、さまざまな目的を追求しており、新しい状況に適応するのも非常に遅いのです。
     オット

 リッベントロップ外相の7月10日電報(第108号、東京着7月12日)に対する返答

この電報は、あからさまに日本の意思決定システムに対する苛立ち不信感が表出していますね。

(Eugen Ott、1889–1977)

オイゲン・オットは、日独伊三国同盟(1940年9月27日締結)の時期に駐日ドイツ大使を務めた人物で、リヒャルト・ゾルゲ事件とも歴史的に非常に深い関係があります。

松岡自身はベルリン会談で対ソ断交の可能性を認識していましたが、日本国内では北方脅威除去、つまり南進のための後方安定が優先されました。
⚠️ヒトラーも日本を対ソ共同戦線の主力とは見ていませんでした。

荻外荘(近衛文麿邸)での会談写真:近衛文麿と松岡洋右

御前会議 7月2日

1941年7月2日の御前会議で、日本は明確に「北進(ソ連攻撃)」を拒否し、南進路線を優先することを決定しました。これは日独伊三国同盟を結んでいたにもかかわらず、ナチスのバルバロッサ作戦(1941年6月22日開始)には参加しなかった重要な分岐点です。
出席者:昭和天皇、近衛文麿、松岡洋右、東條英機、及川古志郎、杉山元、永野修身、長原嘉道

7月2日御前会議の決定内容

この会議で採択された「帝国国策遂行要領」の要点は以下の通りです:

  • 対ソ連関係:当面は中立を維持し、ドイツの要請があっても即時参戦しない。

  • 南方進出:仏印(フランス領インドシナ)への進駐を進め、蘭印(オランダ領東インド)の資源獲得を目指す。

  • 対米英関係:戦争を覚悟しつつも、外交交渉を継続する。

この決定により、日本はドイツがソ連と激しく戦っている最中でも、北進を断念しました。

しかし、関特演 ! 7月7日

松岡洋右と関東軍は諦めなかった?

1. 関特演(関東軍特種演習)とは

関東軍特種演習は、1941年7月7日に開始された日本陸軍・関東軍の大規模な対ソ戦準備行動です。略称「関特演」。

背景
1941年6月22日の独ソ戦「バルバロッサ作戦」勃発直後、ドイツがソ連を短期間で撃破すると見られていました。日本国内では「今がチャンス」との声が上がり、ソ連極東シベリア・沿海州への攻撃を検討しました。

目的
関東軍を秘密裏に大幅増強し、ソ連が弱体化したタイミングで侵攻する準備を行う。
計画では、ウラジオストクやシベリア鉄道を目標に攻撃し、ドイツ軍とシベリア鉄道上で合流することを想定していました。

規模

  • 関東軍兵力を約28万人から74万人以上に増強(戦時定員の14個師団+大量の砲兵・戦車・航空部隊)。

  • 計画は3段階の準備+3段階の攻勢で、6ヶ月以内に極東ソ連軍を撃破・占領する内容でした。

⚠️8月9日頃に関特演は中止!実際の侵攻は行われず、開戦には至りませんでした。

 松岡洋右は北進

松岡洋右は、北進論(対ソ攻撃)の最も強硬な推進者でした。

  • 独ソ戦勃発直後、松岡は「日ソ中立条約を破棄してでもソ連を攻撃すべき」と強く主張。

  • ドイツ側リッベントロップ外相と連携し、日本に参戦を促す動きを支持。

  • 7月上旬には、松岡の影響下で陸軍参謀本部作戦部長・田中新一少将ら「北進派」とともに、関東軍増強を強く推進。

  • 近衛首相や一部陸軍首脳を説得し、7月5日には東条英機陸相も一時的に増強に同意させた。

 首相:近衛文麿と外務大臣:松岡洋右

松岡は日独伊三国同盟の立役者で、親独・反共の立場を貫いていました。彼は「ドイツと協力してソ連を挟撃すれば、日本は南方資源を確保しつつ世界新秩序をリードできる」と考えていました。

なぜ中止されたか?

  • 国内の意見対立
    海軍や一部陸軍は南進論(仏印進駐→東南アジア資源確保)を優先。米国との戦争を避けたいという現実的な判断が強かった。

  • ソ連極東軍の強さ
    独ソ戦でソ連が予想以上に持ちこたえ、極東軍の西送も限定的だった。

  • 松岡の更迭(1941年7月18日)
    松岡の強硬な北進主張が近衛首相らと対立。
    第二次近衛内閣総辞職後、松岡は再任されず、後任に豊田貞次郎海軍大将が就任。
    これにより「北進派」は大きな打撃を受け、南方進出方針が確定しました。

  • 最終決定(8月9日)
    帝国陸軍参謀本部が年内の対ソ開戦を放棄し、関特演を中止。
    その後、米国による石油禁輸(8月1日)などが決定打となり、日本は南進(真珠湾攻撃)へ完全にシフトしました。

松岡は「日独伊ソ四国協商」という壮大な構想を抱いていましたが、独ソ戦という現実の前で北進を推しすぎた結果、失脚しました。

松岡洋右の外相更迭

⚠️日ソ中立条約(4月13日):松岡の最大成果(四国同盟構想の延長)。しかし近衛はこれを対米交渉の道具と位置づけ、松岡の強硬姿勢が交渉を妨げると不満を募らせました。

バロバロッサ作戦(6月22日)後の核心対立

  • 松岡の北進論:日ソ中立条約破棄・対ソ参戦を閣内で強く主張。三国同盟破棄論も唱え、ユーラシア枢軸(日独伊ソ)を崩壊させました。閣議でも独ソ戦情報を軽視・否定するなど、独断専行が目立ちました。

  • 近衛・政府・軍部の南進論:資源確保のため南部仏印進駐(7月)を決定。松岡はこれに猛反対し、東條陸相に「そんなことをしたら戦争になる」と立たせたまま叱責したと伝えられます。陸海軍・近衛は両面作戦「対ソ+対米英」は不可能と判断し、南進を優先。

  • 日米交渉の妨害:松岡はハル国務長官の「オーラル・ステートメント」で激怒し、交渉中止・撤回を要求。近衛らは「これでは日米交渉が破綻する」と説得しましたが、溝は埋まりませんでした。松岡の活動は「暴走状態」と見なされ、閣内で孤立。

3. 失脚のクライマックス(1941年7月)

松岡は7月15日にも修正案を提示しましたが、閣内支持を失っていました。昭和天皇も松岡の解任を望むようになり、近衛にとっては政権存続の手段となりました。
第2次近衛内閣を総辞職(7月16日)。
公文書『機密戦争日誌』でも「実ハ松岡外相ノ追出ニアルカ如シ」と明記されています。総辞職の主目的は松岡排除だったのです。

  • 1941年7月16日:近衛文麿首相は松岡に直接辞任を迫りましたが拒否され、明治憲法下で首相に閣僚罷免権がないので、内閣総辞職という異例の手段を取ります。

  • 7月18日:第3次近衛内閣発足。後任外相に豊田貞次郎が就任し、松岡は事実上更迭されました。

  • この総辞職の実質的な目的は松岡外相の追放だったと、当時の記録にも明記されています。

 第3次近衛内閣(1941年7月18日発足)松岡失脚

その後の松岡失脚後、松岡は表舞台から退き、結核療養生活に入りました。1941年10月の近衛内閣総辞職(東條内閣誕生)以降も政治的影響力はなく、戦後A級戦犯に指定されたものの、公判中に1946年6月に病死(66歳)しました。

日ソ中立条約は、松岡の「最大の成果」とも言われましたが、それが独ソ戦で無意味化し、彼自身の外交路線を崩壊させた皮肉な結果となりました。ヒトラー側は当初これを「黙認」していましたが、日本が北進せず南進を選んだことがドイツ側の本当の失望点でした

ソヴィエトの対独プロパガンダ 1941

日本が不参戦の影響

1. 日ソ中立条約(1941年4月13日)の遵守により、ソ連は極東のシベリア師団(精鋭・冬季戦に強い部隊)を西方戦線に大量転用できました。

  • リチャード・ゾルゲのスパイ情報で日本が攻撃しないと確信したスターリンは、1941年10〜11月にこれら師団をモスクワ防衛に投入。

  • これがモスクワの戦いドイツ軍の進撃を食い止め、バルバロッサ作戦の早期勝利を阻止した大きな要因の一つです。

  • たとえ日本が参戦しても、1939年のノモンハン事件(ハルハ河)で日本陸軍がソ連機械化部隊に完敗していたため、シベリア奥深くへの大規模進撃は極めて困難でした。関東軍も中国戦線で消耗中でした。

大日本帝国陸軍 参謀本部

北進派 <参謀本部・作戦課>

田中新一:参謀本部第一部長・作戦部長(少将、1941年10月に中将昇進)。これは陸軍作戦全般統括する最高責任者のポストで、作戦課直接指揮する立場でした。

田中新一 作戦部長


作戦課長は部下の服部卓四郎大佐が務め、辻政信中佐らも配属されていました。
服部卓四郎:1941年当時:参謀本部・作戦課長(陸軍大佐) 太平洋戦争開戦前後の重要な作戦立案に関わった人物。バルバロッサ作戦開始直後は、ソ連攻撃の可能性を研究していた。。

  服部 卓四郎:1901年1月2日 - 1960年4月30日)最終階級は陸軍大佐。 山形県出身。陸士34期、陸大42期(優等)

北進論における田中と参謀本部の動き

  • 独ソ戦勃発(1941年6月22日)直後:参謀本部内で「北進論」が急速に渦巻きました。
    陸軍省の東條英機陸相らは慎重・南進優先だったのに対し、参謀本部は好機到来と即時対ソ参戦に傾きました
    田中新一作戦部長
    は、この動きの中心人物・旗振り役の一人でした。

    • 6月下旬の部長会議などで、田中は「独ソ戦を利用した対ソ挟撃」を強く主張。

    • 松岡洋右外相と連携し、大本営政府連絡会議などで北進論を共同で押し進めました。両者は「東京の北進派の共同リーダー格」と位置づけられることが多く、松岡の外交的強硬姿勢を田中の作戦計画で裏付ける形でした。

  • 田中は1940年末にすでに『大東亜長期戦争指導要綱』を起案し、「南方作戦は短期間で終結させ、兵力をソヴィエト戦へ転用」との構想を持っていました。バルバロッサ作戦でこれが現実味を帯びたと判断したのです。

  • これが関特演の大規模動員(85万人規模)につながり、表向きは演習でしたが、実質的に対ソ戦準備でした。

結論:田中は松岡と並ぶ東京側の北進派実務リーダーでしたが、陸軍省・海軍・近衛首相らの反対で実現せず、結果的に南進路線が確定したのです。

参考文献:田中の「業務日誌」や戦後刊行の『大東亜戦争への道程』、防衛研究所の資料

北進派<関東軍>

吉本貞一: 関東軍 参謀長は、バルバロッサ作戦直後、関東軍の中で最も北進派の一人。 ドイツがソ連と激しく戦っている状況を「好機」と捉え、関東軍として何らかの行動を起こすべきではないかという意見を持っていました。 参謀長として、現地レベルで北進の可能性を検討する姿勢を見せていました。

 吉本貞一(1941年当時: 関東軍 参謀長 陸軍中将)

1941年7月2日

南方進出(南進)を国家方針として正式承認。

の御前会議で「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を裁可。

仏領インドシナへ

付録:駐ドイツ大使タイムライン

駐独大使:大島浩とアドルフ・ヒトラー

両者の駐独大使交代の関係(時系列のポイント)

  • 1938年10月:大島浩が初代駐独大使に就任。

  • 1939年後半~1940年2月:独ソ不可侵条約の影響で大島が免職 → 来栖三郎が後任として着任。

  • 1940年9月:来栖在任中に日独伊三国同盟調印。

  • 1941年11月:来栖が米特使として日本を離任。

  • 1940年12月~1941年2月:大島浩が再び駐独大使に就任・着任(来栖の後任として復帰)。

このように、大島 → 来栖 → 大島という形で駐独大使職が引き継がれています。両者とも日独伊三国同盟の推進に深く関与した外交官ですが、大島は陸軍出身の親独派として長期にわたり駐独を務め、来栖は短期間の駐独後に日米交渉の現場に送られました。

ヒトラーの山荘
バルバロッサ作戦の打ち合わせをする駐独大使:大島浩、ヒトラー、外相リッベントロップ

しかし、大島浩の電報は、暗号解読されていた。


つづく

ありがとうございました🙏

【編集後記】結局は北進せずソヴィエト攻撃ならずで残念でしたね。また、ゲルマン民族の「生存権」と大和民族の「大東亜共栄圏(汎アジア主義)」が位相が違っていて、地政学とはまた別問題があるようです、、、日独伊三国同盟の時点で、ナチスドイツの次元の戦略構想には日本は追いついてはおらず、世界史の認識レベルが低かったと言えるでしょう。ただし、駐独大使の大島浩だけは、ヒトラーやリッベントロップから信頼されていたと思います。

ワーグナー「パルジファル」をカラヤン指揮でどうぞ♪
Richard Wagner: Opera Parsifal, WWV 111 (Herbert von Karajan)

R・ワーグナーの娘エヴァ


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