戦前名古屋におけるジャズの普及展開(3)ダンスの流行と取締の攻防史④
(前回の続き)
名古屋初のダンスホールの誕生
1927(昭和2)年6月1日の『新愛知』に、「名古屋に出来たダンス・ホール ビナ・ダンス・クラブ」の見出しで、名古屋に待望のダンスホールが開設されたことが報じられた。
久しい間生まるべくして生まれなかったダンス・ホールがいよいよ名古屋にも生れ六月一日から市内中区門前町大須ビル四階十八号でビナ・ダンスクラブと名称をつけて社交ダンスの研究教授を為す筈で、昨秋来市内一流の銀行会社重役級間にいろいろ話題に上り、こんどそれらの後援に依って成立したので純然たる会員組織で少壮実業家尾平栄太郎氏が当り、岡田利光氏がマネージャーに招かれ、ダンサーには大阪ユニオンダンスホールの小山花子、三村かほる、清水節子、■内君子、石井愛子、水口佳江嬢らが招聘され、同日午後一時から六時までを教授時間に、午後六時から十時まで社交ダンス教授時間にして実質本位に開始する(後略)
直前の5月、東京でも最初のダンスホールといわれている「東京舞踊研究所」が京橋の日米ビルにオープンしており(後に日米ダンスホールに改称)、ほぼ同じタイミングに名古屋でもダンスホールが初めて誕生していたことになる。その背景には、ダンスの最先端を走っていた大阪で、警察によるダンスへの弾圧が激しくなったことがあるのは間違いない。大阪府は、同年3月の遊戯場営業取締規則の改正により、ダンスホールの建物構造などに対して非常に厳しい制限を設け、十数軒あったダンスホールを次々と閉鎖に追い込むとともに、ダンサーに対しては芸妓と同様に免許鑑札制を導入し管理強化を図った。そのため、失業したダンサーや締め付けを嫌ったダンス関係者は大阪を離れ、東京や京都、神戸などに散っていくのだが、ビナ・ダンスクラブもこの機に乗じ、ユニオンダンスホールからダンサーを引き抜いたのである。

(1927(昭和2)年6月1日『新愛知』)
ビナ・ダンスクラブの経営には、地元出身の実業家、尾平栄太郎[注1]があたったとされているが、愛知電気鉄道(現在の名古屋鉄道)の強力なバックアップがあったようだ。愛知電気鉄道は当時、沿線にあった知多半島の新舞子を一大レジャー地に開発する計画を進めており、目玉として舞踊場の建設も予定していた。そのため、まずは名古屋市内でダンス熱を高め、新舞子のダンスホールに誘導する狙いがあったことを、愛知電気鉄道の関係者が名古屋新聞の取材に語っている。
宝塚が歌劇をやる様に、新舞子ではダンスをやろうと思っています。尤もダンサーが風紀上面白くないとか、いろいろ非難や議論もありませうが紳士淑女は自重されますでせう、まあダンスファンが出来たら、新舞子コートにある大ホールへ移して盛大に踊りぬくつもりです。
ところが、オープンした翌日の新聞に、「ダンスクラブに閉鎖を命ず けふ誕生した許りの大須ビル内の舞踊場」の見出しで、警察はビナ・ダンスクラブの閉鎖を命じる模様であることが報じられた。
市内大須ビル4階十八号室に六月一日よりビナ・ダンスクラブが誕生したが、所轄門前署では直ちに閉鎖を命じる模様である。大正十三年中区新柳町東ずし本店内に生声だけで暗にほうむられたのが名古屋におけるダンス・ホールの最初であったが続いて十四年南大津町の閑所内を初め名古屋ホテル中村遊廓内などにも出来たが何れも所轄署のため解散を命じられたものである。
この記事により、前回触れた大正14年に続々と出現したダンス場が警察により全て解散させられたことが明らかになる。大正13年に「東ずし本店内に生声だけで暗にほうむられた」ダンスホールというのはボリカ倶楽部のことを指していると思われる。
しかしながら、その後、ビナ・ダンスクラブに閉鎖が命じられた形跡はなく、会員の入会勧誘は順調に行なわれ、6月10日の招待日から無事ダンスの研究教授が始まっている。会費は一ヶ月十円、ワンステップ十五銭であったという。この年の夏には、新舞子で開催された花火大会の余興でビナ・ダンスクラブのダンサーが全員出張してダンス会が開かれたり、千歳劇場に出演したカールトン・ジャズバンドの公演にビナ・ダンスクラブのダンサーが特別出演するなど、名古屋唯一のダンスホールとしての地歩を着実に固めていった。

(『CHITOSE WEEKLY NO.354』1927年9月8日発行)
そして、ビナ・ダンスクラブに続き、1927(昭和2)年12月、中村ダンシング倶楽部、昭和舞踊研究所という新たなダンスホールが立て続けに開設され、名古屋のダンスブームはさらなる盛り上がりをみせはじめる。
中村ダンシング倶楽部
中村ダンシング倶楽部は、これまでしばしば登場した中村遊廓の幸橋角にある元カフェーサンカク[注2]の三階ホールに、名古屋土地株式会社が設立したダンスホールである。名古屋土地株式会社は、中村地域を中心とした名古屋西郊に広大な土地を所有し、当時の名古屋駅周辺(明治橋)と中村公園を結ぶ中村電鉄を経営するほか、1923(大正12)年に行われた遊廓の大須から中村への移転誘致に成功して莫大な利益を得た。さらに遊廓周辺の開発に乗り出し、温泉施設や劇場、活動写真館などを併設した「中村パラダイス」と称した大規模な遊園地の計画を推し進めていた[注3]。そこでは、宝塚のようなステージダンスも予定しており、その下準備としてダンスホールの経営に乗りだしたのである。この点は、ビナ・ダンスクラブを後援した愛知電気鉄道と共通しており、当時はレジャー施設にダンスホールは必須アイテムだったのである。
中村ダンシング倶楽部は、ビナ・ダンスクラブと同じく会員制度で、夜間は午後六時から十一時までの営業とし、酒気帯びの人は入場禁止、和服の場合には必ず袴を履くことをルールとするなど、風紀秩序の維持にも気を配った。開設当初の専属ダンサーは、松名ナヲミ、小野てる子、林梅子、東光子の四名で、いずれも関西や東京のダンスホールでダンサーをしていた連中と思われる[注4]。

(1927(昭和2)年12月14日『新愛知』)
中村ダンシング倶楽部の賑わいについては、名古屋出身の作家で探偵小説の先駆者として有名な小酒井不木が、随筆『名古屋スケッチ』の中で、以下のように綴っている。
(前略)最近の名古屋を知らうとするものは、数十軒を数ふるカフェーを見のがしてはならない。昼なほ手さぐりを要するやうな暗さの中で、コーヒーか紅茶一杯に、ものの三時間乃至五時間も、ウエートレスと饒舌にふける気分は、到底筆者などの、及びもつかぬ感覚であり心境であるのだ。(中略)
そのカフェーと共に、今名古屋で、漸次流行しようとして居るのが、ダンス・ホールである。大阪で禁止されたための一種の調節現象かも知れぬが、そのダンス・ホールの一つが、中村遊廓に出来て遊廓よりも流行って居るのは皮肉なことといはねばならぬ。といふよりも、遊廓経営者の一考を要すべき点であらう。
小酒井不木は、この後に続けて、ダンスホールに比べて遊廓の寂れ具合が甚だしいとして、遊廓を新時代に適するように改良すべきだと提唱している。当時の名古屋におけるダンスの繁盛振りが伺えて、興味深い。
昭和舞踊研究所
昭和舞踊研究所は、東新町の交差点角にあったダンスホールで、1927(昭和2)年12月15日の名古屋新聞で、下記のように開設が報じられている。
市内中区新栄町三丁目昭和映画プロダクション内に舞踊研究所を設け十五日より毎夕六時より十時半までボールダンシングを開催すると何人も入会随意で会費は一日五十銭
昭和舞踊研究所に関する情報はこのくらいしかないが、このダンスホールに所属していたダンサーの岸上絹子が女性の新しい職業としてのダンサーへの思いを語った新聞記事がある。当時、華やかにみえながらも、世間からの偏見に苛まれていたダンサーの苦しい心の内を伺い知ることができる。
すべての方から色々と誤解され警察からも変な目で見られている私共の生活は全く恟々としてその日を送っています。もっともっと人々が理解してくれたらと時折考へさせられます。然し新しい職業にはそれだけの苦心がともなふのはやむを得ない事だとあきらめても見ます。
女ですものそんなに皆様がおっしゃる様なみだらな、だらしない事が出来るものじゃありませんワ、舞踊ですか・・・社交ダンスですからワンステップ、ツーステップ、ワルツ等です。自分が生きやうと志した職業ですからそれは愉快な気持ちでいつも楽しんで居ます。けれ共時としては又ほんとうに踊りたくないやうな時に無理に御相手するのはつらい事です。殊更に元気を出して踊りますがこんな時はつくづく身の職業をつらく感じます。外面華かに暮す者の裏面に又より以上の苦しみや物淋しさがある事をお察しください

(1928(昭和3)年1月13日『新愛知』)
昭和舞踊研究所には、岸上絹子の外にも、神戸から連れてきたという吉野藤枝、伊藤真優美、西輝代というダンサーがいた[注5]。この時期に名古屋でダンスホールの開設が相次いだのは、1927(昭和2)年12月に大阪府下の全ダンスホールが営業禁止となり、職にあぶれたダンサーが増加したことで、ダンサーの流動性が高まっていたことも背景にあるだろう。
念願のジャズバンド導入
こうした中、名古屋のダンスホールのトップランナーであるビナ・ダンスクラブに関して、1928(昭和3)年2月1日『新愛知』に、注目すべき記事が出ている。
名古屋に於るダンスホールは昨今非常な勢ひでのびつつあるが今度名古屋市中区栄町中央バザー内栄ホールにビナダンシング倶楽部が開設され一日午後五時からホールビラキが催される。音楽は松竹座管絃楽団出張してダンサーも美しいのが揃っていると云ふ。会員は特別会員一ヶ月五圓普通会員は一ヶ月三圓臨時会員は入場毎に五十銭宛であると
ビナ・ダンスクラブは、それまでの大須ビルから広小路の中央バザー内に移転したことになるが、さらに、同月25日、東新町の陸ビル内にホールを移している。

(1928(昭和3年2月24日『名古屋新聞』)
ここで注目したいのは、中央バザー移転の新聞記事にある「音楽は松竹座管絃楽団出張し」の箇所、および陸ビルのホール開きの広告にある「毎晩 ジャズ演奏」の文字である。これまで、名古屋のダンスホールの推移を述べてきた中で、ダンスホール専属のジャズバンドについては、ビナ、中村、昭和のいずれの新聞記事においても言及がなく、音楽は蓄音器でレコードをかけていたものと思われる。当時の名古屋では、ジャズを演奏できるのは映画館の楽手か松坂屋音楽隊ぐらいで、ジャズを演奏できる人材そのものが不足しており、専属ジャズバンドを抱えることは難しかった。しかしながら、名古屋でも大阪や東京のようにジャズバンドの生演奏でダンスを踊りたいというニーズは当然あったはずである。折しも、1927(昭和2)年11月に名古屋松竹座が開場し、ジャズ演奏にも長けた充実の奏楽陣を擁していたことから、ビナ側が松竹座の音楽部員に出張演奏を依頼したのであろう。この時に演奏したメンバーが、『映画館の奏楽について〜千歳劇場と松坂屋音楽隊③』で述べた小野澤倉太郎の指揮する「ビナー・ダンスオーケストラ」として、ビナ・ダンスクラブの専属ジャズバンドになったのではないだろうか。一時的に中央バザー内に移転したのも、陸ピルでジャズバンド演奏用のステージを設置する改装工事をしていたためだったと考えられる。[注6]
ビナ・ダンスクラブの陸ビル移転では、ジャズバンドの常設が目玉であったことは間違いない。この時をもって、東京のダンスホールと比べても遜色のない、名実ともに本格的なダンスホールが名古屋に登場したといっても差し支えないだろう。芽生えだした名古屋のダンス文化も、これからさらなる躍進を遂げるはずであった。しかし、この直後、突如として終止符を打たれることになるとは、誰もが夢にも思わなかったに違いない。
(この回、⑤に続く)
[注1]尾平栄太郎は、1902(明治35)年2月17日生まれ。名古屋市立商業高等学校を卒業後、実業家の道を歩み、後に東洋貿易専務、五十鈴鉱業社長に就任した。五十鈴鉱業は、山梨や山形などで鉱山を所有し、金や銅の採掘事業を行っていた。
[注2]カフェーサンカクのあった建物は、中村ダンシング倶楽部の開設直前、カフェー千奈里として新装開店している。千奈里は、JOCKの初代女性アナウンサーである岡村照子(1926(大正15)年8月にJOCKを退社)が店主となり、当時の女性の最先端の職業であったラジオアナウンサーがカフェー店主に転身したとして、名古屋人士の間で大いに話題になった。
[注3]名古屋土地株式会社は、中村遊廓の開設を間近に控えた1923(大正12)年3月、出資会社である名古屋新市街土地株式会社を通じて、大浴場と演芸場を兼ね備えた娯楽施設「中村ラジウム温泉」をオープンしたが、1926(大正15)年12月14日、演芸場で活動写真を上映中、映写機からの発火で全焼した。その後、名古屋土地株式会社は、巨大な鉄塔の建設などを柱にした「中村パラダイス」と称するレジャーランド建設計画を推進したが、莫大な建設費の負担を巡り重役間の紛擾が発生し、経営混乱の果てに鉄槌建設の計画は頓挫した。なお、中村パラダイスは、当初の規模を縮小した形で、1930(昭和5)年1月、大浴場や演芸場、遊技場を兼ね備えた「名古屋花壇」としてオープンし、名古屋有数の遊戯施設として地元の人々に親しまれたが、経営状態は苦しかったようで、1937(昭和12)年に閉鎖された。
[注4]林梅子は朝鮮人で、彼女が警察沙汰になった1928(昭和3)年1月25日の名古屋新聞によれば、七歳の時に両親と死に別れ、その後日本に渡り神戸、大阪等を転々とし、カフェーの女給を経てダンサーになったという。
[注5]1928(昭和3)年1月27日『名古屋新聞』に、写真付きでこの3名のダンサーの紹介がある。
[注6 ]1928(昭和3)年4月10日『名古屋新聞』。ビナ・ダンスクラブの責任者が記者の取材に対し、陸ビルへの移転に三千円以上かけたと語っており、フロア設備の改装工事に費用をかけた様子が伺える。
〈見出し画像〉
1928(昭和3)年4月10日『名古屋新聞』中村ダンシング倶楽部でのダンス写真
〈参考文献〉
永井良和『社交ダンスと日本人』1991年 晶文社
春陽堂編『社交ダンス講座 第一巻 論説編』1933年 春陽堂 国会図書館デジタルコレクション
帝国秘密探偵社編『大衆人事録 中部編』1940年 帝国秘密探偵社・国勢協会 国会図書館デジタルコレクション
『小酒井不木随筆評論選集 第七巻』2004年 本の友社
新愛知新聞社『新愛知』
名古屋新聞社『名古屋新聞』
