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戦前名古屋におけるジャズの普及展開(2)映画館の奏楽について〜千歳劇場と松坂屋音楽隊③



(前回の続き)

カールトン・ジャズバンド公演


 佐藤正成が邦楽座の支配人として東京に移った後も、千歳劇場は5月以降、鈴木今子の独唱(ピアノ伴奏鈴木正一)、モスクワ座舞踊団、高田雅夫・原せい子のタカタ舞踊団、ロシアの提琴家ミハイル・エルデンコ、ブロードウェイ・フォーリス大歌舞劇団などのアトラクションを次々と興行して、名古屋の映画界に旋風を巻き起こす。これらのラインナップには邦楽座で出演したものも多く、千歳劇場とのシナジーを遺憾無く発揮している。そして、カールトン・ジャズバンドが1927(昭和2)年9月8日から千歳劇場の舞台に登場する。
 カールトン・ジャズバンドは、上海のダンスホールで活動していたフィリピン人バンドである。上海は当時、国際都市としてダンスホールが林立しており、特に米国文化の影響が進んでいたフィリピンからのジャズプレイヤーが多く流入していた。カールトン・ジャズバンドは、この年、松竹の招きで来日し、関西方面を中心に公演した後[注1]、8月に上京して邦楽座の余興に出演。そのまま名古屋へ赴き、千歳劇場で公演を行ったものと思われる。

カールトン・ジャズバンド
(『Chitose Weekly No.350』1927(昭和2)年8月13日発行)


 千歳劇場でのカールトン・ジャズバンド公演の曲目は、「赤ん坊の顔(Baby Face)」「印度人の恋の囁き(Indian Love Call)」「チチナ(Titina)」「バレンシヤ(Vallencia)」「フー(Who)」の5曲。地元のダンスホールである名古屋ビナ倶楽部のダンサーも特別出演して華を添えている。名古屋の人たちが本格的なダンスホール専属の海外ジャズバンドの演奏を目にしたのは初めてで、カールトン・ジャズバンドの公演は、名古屋のジャズ史においてエポックメイキングの一つといってよいだろう。

カールトン・ジャズバンド出演時の千歳劇場の新聞広告
(1927(昭和2)年9月8日『新愛知』) 

篠原正雄の楽長就任


 さて、この頃、千歳劇場の奏楽部は、どのような状況だったのだろうか。
 1925(大正14)年に松竹直営から洋画専門館に変わった後、千歳劇場の楽長は松坂屋音楽隊出身の宮島島吉(島野、島村という別称もある)が担い、1926(大正15)年8月には、音楽部員を25名に増員するなど、奏楽体制の強化を図っていた。その一方、佐藤は、千歳劇場を高級映画の殿堂にするためには、邦楽座に山田耕筰を招聘したのと同様、当代一流の音楽家による奏楽水準の向上が不可欠と考えていた。そこで、1927(昭和2)年6月、折しもタカタ舞踊団の公演に同伴していた指揮者の篠原正雄に声をかけ、千歳劇場の楽長に就任させる。

 篠原正雄は、1894(明治27)年1月5日生まれ。1912(明治45)年に東洋音楽学校を卒業し、帝国劇場で歌劇の指導を行ったイタリア人ローシーが設立した赤坂ローヤル館の楽長を務めた。ローヤル館の閉鎖後、原信子歌劇団や根岸歌劇団などの楽長として浅草オペラの隆盛時を音楽面で支え、石井漠や高田雅夫・せい子夫妻の舞踊団などでも活躍するなど、特に日本の歌劇の指揮者では第一人者と目されていた。戦中期にかけては、JOAK(東京中央放送局)の管弦楽団の指揮者としてラジオに頻繁に出演するともに、ニットーレコードや日本クリスタルレコードなどで多くのジャズソングの編曲を行うなど、ジャズに対する見識も深かったことで知られている。

篠原正雄
(1932(昭和7)年8月27日『名古屋新聞』)

 篠原は、1927(昭和2)年6月8日から千歳劇場の楽長として千歳管絃楽団を率いることになり、映画の伴奏に加え、アトラクションに外部の出演者を呼ばない時には、休憩奏楽で観客を楽しませた[注2]。「千歳情緒」と謳われた上品でノーブルなスタイルは、篠原の洗練された音楽性とマッチし、より補強されたと思われる。篠原は1927(昭和2)年11月、新たに開場した名古屋松竹座に、宮島島吉と揃って引き抜かれたため[注3]、千歳劇場の在籍期間は半年程度に過ぎなかったが、篠原が千歳劇場に在籍していたことは楽団員に大きな刺激となり、ジャズも含めた演奏技術の向上をもたらしたことであろう。

名古屋松竹座の陣容


 名古屋松竹座に移籍後、篠原正雄は千歳劇場を遥かに凌ぐ強固な奏楽陣を抱えることになり、質量ともに充実した演奏を聴かせたことであろう。千歳劇場の話からは脱線するが、ジャズ方面で活躍するメンバーを多く揃えた名古屋松竹座は大きなトピックの一つなので、ここで少し触れておきたい。

 30名以上を擁していたといわれる名古屋松竹座の奏楽メンバーについて、詳細のわかる資料は確認できていないが、開場後の1927(昭和2)年11月から1928(昭和3)年にかけての名古屋松竹座の新聞広告には、上映する映画ごとに伴奏選曲者の名前が掲載されており、中核的なメンバーはおよそ知ることができる。それによれば、1928(昭和3)年頃の名古屋松竹座の奏楽陣には、篠原正雄、宮島島吉の外に、相澤秋光、薬丸晃、鈴木正嗣、村田七光、山崎長治、小野澤倉太郎、阪本惣三郎、法月萬吉などの名が連なっている。
 この中で、日本ジャズの歴史上重要な人物といえば、相澤秋光であろう。相澤秋光(相澤操一や相澤斐雄の変名もあり)は、波多野鑅次郎のハタノ・オーケストラ、井田一郎のユニオン・チェリーランド・ジャズバンド、東京ユニオン・ダンスホールのバンドマスターなど、大阪や東京のダンスホールで活躍したトロンボーン奏者で、日本のジャズのパイオニアの一人である。内田晃一によれば、「ハンサムで、おしゃれで、プレイがうまいと三拍子そろった楽士」だったと言われている。
 薬丸晃は、篠原や相澤も所属していた大日本中央音楽団のメンバーで、松旭斎天勝や木下サーカスで楽団を率いた外、上海や奉天など中国のダンスホールで腕を揮ったトランペット奏者[注4]。鈴木正嗣は、新響のヴァイオリン奏者からタンゴ界に投じた人物で、日本のタンゴの草分けでティピカ東京のピアニストであった刀根研二などを育てた。戦後は東京キューバンボーイズのコンサートマスターも務めている。
 村田七光は、1891(明治24)年2月17日生まれのシカゴ音楽学校を卒業したピアニストで、帝国ホテル楽長、ローヤル館、北海道帝国大学嘱託を経て、名古屋に活動拠点を移した。1934(昭和9)年頃には名古屋松竹座で楽長補佐の職にあったようだ。山崎長治は建築家出身の変わり種で、名古屋に来る前は京都松竹座の楽士であった。阪本惣三郎、法月萬吉については詳細不明である。
 小野澤倉太郎については、来歴は明らかでないが[注5]、1932(昭和7)年にビナー・ダンスオーケストラの指揮者としてJOCKのジャズ放送に何度か出演している[注6]。おそらく、この時期には楽長クラスだったのではないかと思われる。ビナー・ダンスオーケストラについては、名古屋のダンスホールの回で改めて述べるつもりである。

ビナー・ダンスオーケストラ
(1932(昭和7)年3月11日『新愛知』)

 当時、ジャズの演奏に長けた音楽家はそんなに多くない中、相当な実力者を並べた名古屋松竹座の楽団は、ジャズを演奏する時には「松竹座ジャズバンド」と称し、東京や関西のダンスホールと比べても遜色ないジャズを名古屋の人達に提供したことであろう。松竹座は、世界館や千歳劇場のような地場の映画館にとっては脅威の存在であったことは確かだが、人々に「本物の」ジャズを知らしめる役割を果たしたことは間違いないといえる。

グランドオペラ「リゴレット」公演

 篠原正雄は、名古屋松竹座で1928(昭和3)年8月まで楽長を勤め、その後、新たに開場した浅草松竹座に招かれ、東京へ戻ったと思われる。それ以降も名古屋へは何度か公演で訪れているが、1933(昭和8)年3月20日、前年秋に日比谷公会堂で開演され、満都の注目を集めた全日本語訳のグランドオペラ「リゴレット」の名古屋公会堂での公演は特筆すべき出来事であった。「リゴレット」は、伊波孝が演出、堀内敬三が訳詞、内山惣十郎が舞台装置を手掛け、出演者に松山芳野里、ヴォーカルフォアの内田栄一や下八川圭祐、平井美奈子に、山田道夫、天野喜久代など総勢80名以上の錚々たるメンバーか揃い、奏楽は早川彌左衛門の名古屋交響楽団、指揮を篠原正雄がつとめた。大阪で3日、京都で1日の公演を経ての来名で、出演者のコンディションは必ずしも万全とはいえなかったようだが、当時稀に見る規模のグランドオペラとあって、大きな盛り上がりをみせた。

リゴレット公演の新聞記事
(1933(昭和8)年3月21日『名古屋新聞』)

  「リゴレット」公演前の関係者による新聞紙上の座談会で、篠原正雄は「名古屋はわたしにとって第二の故郷」(1933(昭和8)年3月13日『名古屋新聞』)と発言しており、名古屋にはとりわけ愛着を抱いていたようだ。篠原の名古屋時代は1年あまりに過ぎず、彼の音楽人生の中では短い期間であったかもしれないが、篠原が昭和初期の名古屋において、映画館を主戦場にして洋楽やジャズの普及に果たした功績は、記憶に留めるべき価値があると思われる。


              (この回、④へ続く)


[注1]毛利眞人『ニッポンスウィングタイム』によれば、カールトン・ジャズバンドは1927(昭和2)年の初夏に来日し、大阪松竹座やJOBKのラジオ出演など関西地区を中心に活動していた。その後、上京して邦楽座の余興に出演したものと思われる。
[注2]1927(昭和2)年6月23日『名古屋新聞』の千歳劇場の広告に舞台演奏として(A)「序曲ストラデラの終曲」(B)「二つのアメリカインディアンの踊り(鹿踊り、戦ひ踊り)」を、同年7月1日『名古屋新聞』の広告に奏楽「コザック(チャコック作)」、同年7月22日『名古屋新聞』の広告に奏楽「スパニッシュフォックストロット ラヒーグ(エルデン作)」を演奏している。
[注3]1927(昭和2)年11月8日『名古屋新聞』に、「名古屋松竹座はいよいよ十日開場式をあげ十一日より第一回興行を開始する(中略)奏楽部は篠原正雄君を楽長に宮島君以下三十余名で編成する」とある。
[注4]大森盛太郎『日本の洋楽(1)』によれば、薬丸晃は、1928(昭和3)年に上海の日本租界にあったダンスホール「ブルー・バード」でバンドマスター、1933(昭和8)年に奉天のダンスホール「ブロードウェイ」でトランペット奏者であったとされている。上海にいた時期が名古屋松竹座に在籍した同時期であり、上海から帰国して名古屋松竹座に来たのか、名古屋松竹座を辞めてから上海に行ったのかは定かでない。
[注5]武石みどりの作成した船の楽士の乗船記録によれば、「おのざわくらたろう」は1921年1月から1926年12月の間に12回の米国への乗船記録があり、その期間の年齢は24歳から29歳、楽器はヴァイオリンと記されている。
[注6]ビナー・ダンスオーケストラは、1932(昭和7)年3月11日、同年4月6日、JOCKのラジオ放送に出演し、フォックストロット、ワンステップ、タンゴなどを演奏している。4月6日の放送では、独唱として八巻興司と共演している。

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1927(昭和2)年10月30日『名古屋新聞』「全国的に先駆せる中京の映画興行界 代表的常設館の紹介」中、千歳劇場の紹介記事

〈参考文献〉
毛利眞人『ニッポン・スウィングタイム』2010年 講談社
青木学『近代日本のジャズセンセーション』2020年 青弓社
社団法人音楽協会編『音楽年鑑 昭和九年版』1934年 音楽世界社 国会図書館デジタルコレクション
東京音楽大学65年史編纂委員会『東京音楽大学65年史』1972年 東京音楽大学 国会図書館デジタルコレクション
『宝塚歌劇団四十年史』1954年 宝塚歌劇団出版部 国会図書館デジタルコレクション
青島利典『日本ミュージカル事始め 佐々紅華と浅草オペレッタ』1982年 刊行社 国会図書館デジタルコレクション
中村秋一『レヴュー百科』1935年 音楽世界社 国会図書館デジタルコレクション
大森盛太郎『日本の洋楽(1)』1986年 新門出版社
『別冊 1億人の昭和史 日本のジャズ』1982年 毎日新聞社
武石みどり「1910〜20年代の船の楽士:国内の洋楽受容・分化との関連」東京音楽大学紀要編集委員会編『東京音楽大学研究紀要 巻42』2018年 東京音楽大学紀要編集委員会
『ミュージックライフ 第四巻第七号』1954年7月 新興楽譜出版社
東京音楽協会編『音楽年鑑 昭和9年版』1934年 音楽出版社 国会図書館デジタルコレクション
アサヒグラフ編輯局編纂『日本映画年鑑 大正13・14年度』1925年 東京朝日新聞発行所 国会図書館デジタルコレクション
アサヒ蓄音器商会『ツル印レコード六月新譜目録』1926年6月
山内太一編『1933 musical association 名古屋音楽協会更生三ケ年ノ事業』1933年 名古屋音楽協会


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