それは信仰ではなく、政治動員だ――「信教の自由」という言葉が覆い隠す構造

韓国を本部とするある宗教団体について、解散命令が検討された際、信者たちが「居場所を奪うな」「信教の自由を守れ」とデモを行った。

その光景に、私は強い違和感を覚えた。

なぜなら、問題になっているのは「信仰そのもの」ではなく、

人々が無自覚なまま、政治的な構成員にされてきた構造だからだ。

この団体は、長年にわたり信者から多額の献金を集め、それを海外の教団本部へ送金してきた。その過程で、多くの家庭が経済的に破壊され、家族関係が断絶された。

用いられたのは、「先祖の贖罪」や「不幸への恐怖」を利用した心理的拘束、いわゆるマインドコントロールと呼ばれる手法である。

これだけでも、すでに宗教の域を越えている。

だが、より決定的なのは、この団体の教義そのものにあった。

教義の中には、日本を加害者として位置づけ、日本は贖罪すべき存在であり、日本国民を危機に晒しても構わない、という趣旨の記述が含まれていた。

これは一部信者の曲解や暴走ではない。思想として、最初から組み込まれていた世界観である。

ここで、話は根本的に変わる。

もし教義にそのような内容がなく、一部の人間が歪めて利用したのなら、「逸脱」や「暴走」と言えただろう。

しかし、教義自体が特定の国家を貶め、敵視する構造を持っているならば、それはもはや純粋な宗教ではない。

この団体は、実際に日本の政治家と関係を持ち、選挙や政策に影響を及ぼしてきた。

信者は、信仰の名の下に資金を提供し、正当化言説を拡散し、結果として政治的な動員に組み込まれていた。

重要なのは、多くの信者がそれを自覚していなかったという点だ。

彼らは自分を「政治活動家」だとは思っていない。

「信仰しているだけ」「善意でやっているだけ」だと信じている。

しかし実態としては、政治的意思を持つ組織の構成員として機能していた。

これは、かつての中核派や革マル派などの極左暴力集団と構造的に極めて似ている。

国家を敵とみなし、正義を自称し、思想で人を縛り、組織防衛を最優先する。

違いがあるとすれば、使われている言語が「宗教的」であるかどうかだけだ。

では、なぜ解散命令に対して「信教の自由」が持ち出されるのか。

それは、宗教法人格という枠組みが、政治的行為を不可侵のものに見せる装置として機能してきたからだ。

しかし、信教の自由が保障しているのは「内心の自由」であって、「組織による搾取」や「政治的敵対行為」ではない。

しかも、自らの教義において日本を攻撃してきた組織が、その日本の法制度に守られようとする姿は、論理的に大きな矛盾を孕んでいる。

それは慈悲を求めているのではなく、免罪符を要求しているように見える。

ここで強調しておきたいのは、この構図が宗教法人格の有無とは無関係に起こりうるという点だ。

強い物語、被害者意識、敵の設定、批判不能な正義。

これらが揃えば、宗教でなくとも、人は容易に政治的に動員される。

市民運動でも、労働運動でも、結婚式でも、婚活でも、就活でも、ビジネスでも、SNSコミュニティでも、気をつけてないと同じことは起こる。

だからこそ、この問題を「宗教弾圧か否か」という単純な対立で語るべきではない。

問われるべきなのは、宗教かどうかではない。

人が、自覚のないまま政治的主体として使われる構造そのものだ。

宗教法人格の剥奪は、その結果に過ぎない。

本当に向き合うべきなのは、善意や信仰を利用し、個人から思考と選択を奪う設計が、なぜ繰り返し許されてきたのか、という問いである。

※補足

本稿は、特定の信者個人を非難することを目的としたものではない。

むしろ、信者が「政治的構成員として扱われながら、その事実を知らされていない」状態こそが問題だと考えている。

信仰の自由とは、政治的操作から自由であることも含むはずである。


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