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水曜日の悪魔 #ショートショート

さっきから背中に視線を感じる。

水曜日、午後6時。帰宅途中の地下鉄の車内。仕事では上司に散々怒鳴られ、半年付き合った(つもりだった)彼女にもあっさり振られ、僕はもうへとへとに疲れていた。お腹も空いている。なんとか吊革につかまって立っているけれど、今は座りたい。もう立っていたくない。でも満席だ。誰か、お願いだから座らせてくれ。ゆっくり休みたい。

そんなときに視線を感じた。

とにかく、妙に背後が気になって仕方ない。でも、真っ暗で鏡のようになった車内のガラス窓には、反対側の席に座っている人たちが映っているだけだ。少し振り向いて後ろを見ても、僕のほうを見ている者などいない。

でも、なんか感じる。なんだこれは……

「前を見て。振り返っちゃだめ」

突然横から声が聞こえて、左を向くと背の低い小太りのおばさんが僕の隣に立っていた。黒い丸眼鏡に黒いコート。肩にかけているトートバッグも黒だ。そんなおばさんが、僕と同じように吊革に手をかけて、正面の真っ暗なガラス窓を見たまま言った。

「こっち見なくていいから、前を向いて」
「……」

そう命令されて一瞬迷ったけれど、僕は言われるまま正面を向いた。窓ガラスには、吊革を持って立っている僕とおばさんが映っている。

「いい。絶対振り返っちゃだめよ」
おばさんは僕のほうを向かない代わりに、ガラス窓に映った僕の目を見ている。
「え? なんですか?」
「話しかけないで!」
自分から話しかけておいて……頭おかしいのか?
「とにかく前を見て」

「あの……何を言っているん……」
そう言いかけたとき、「お前」とやけに甲高い男の声が背後というか耳元に聞こえた。思わず振り返ってしまう。隣のおばさんが「ったく」と舌打ちする。でも、振り返らずにいられないじゃないか。なのに誰もいない。

「お前、そんなに座りたいのか……」また声が聞こえた。

「もう一度言うわ。絶対見ちゃだめよ」
おばさんが僕の左ひじをつついた。何だと思って正面のガラス窓を見ると、そこには――

そこには、二本の角が生えて口が耳まで裂けた、おそろしく醜悪な怪物が映っていた。羽のようなものまで生えている。ちょうど僕の右後ろにいる。

あまりのことに顔がひきつる。さっきまで誰もいなかったのに…… これは幽霊? 妖怪? それとも悪魔?……

「そんなに座りたいなら、席を空けてやる。その代わり……」
その悪魔は、また甲高い声で僕の耳元にささやくとニヤッと笑った――

わあー?!

地下鉄の轟音で目が覚めると、僕は駅のホームのベンチにいた。なんでこんなところに? まだ降りる駅じゃないのに。

「ほんとに世話が焼けるわね」
突然女性の声が聞こえたと思ったら、ベンチのとなりに黒い丸眼鏡のおばさんが座っている。そうだ。さっきまで電車の中で横に立っていた人だ。

おばさんは、丸眼鏡のフレームを中指でくいっと押した。
「あなたね、私が助けなかったらどうなってたと思うの。私がここに連れて来たのよ……」
連れて来たって……こんな小さな小太りのおばさんが僕を抱きかかえて駅のベンチまで連れて来たとでもいうのか。いつ電車を降りたんだ。そんなの無理だ。

いやいや、それより……あの悪魔みたいな化け物!

「ああ、悪魔っていえば悪魔ね……」
おばさんはめんどくさそうに言った。え? 悪魔って言った? まさか僕の心を読んだのか? この人も悪魔の仲間なのか? いやいやいや。

「ああ、そういうのは気にしないで。どうせ忘れてもらうから」
「忘れる?」
「……あなたを助けたせいで帰りが遅れちゃったじゃない。特売が終わっちゃうわ。それじゃ、気をつけて帰って」
地下鉄で変な声が聞こえたり、悪魔が見えたり、変なおばさんに会ったり、突然駅のベンチにいたり、いったい何なんだ――
「ちょっと待って、あなたは……」
そのとき、僕のお腹がグーと鳴った。そうだ、腹が減っていたこと忘れていた。
「ちゃんとご飯食べるのよ」
「え?……」

おばさんが指をパチンと鳴らした。

あれ?

あれ??

気づくと僕は地下鉄の車内にいた。吊革につかまって立っている。

なんかさっき、不思議なことがあったような……

ええと。

うーん、思い出せない。

ああ、たぶん仕事と彼女の件で自律神経がまいってるんだな。

だめだな俺って……

でも、さっきまであんなに座りたかったのに、まだ立っていられる気がする。きっと、今週もあと木曜と金曜だけだからだ。

お腹がグーと鳴った。

さっさと帰って、吉野家でつゆだくの牛丼食べれば元気が出る。そうだ。そうしよう――

◇◇

――駅前のスーパーを出たときはもうすっかり暗くなっていて、私はため息をついた。

あのサラリーマンを助けたせいで、すっかり帰りが遅れてしまった。じゃがいもと玉ねぎの特売にもやっぱり間に合わなかった。せっかく今夜は得意のコロッケを作ろうと思ったのに…… お惣菜のコロッケも売り切れだ。ほんと、勘弁してよ。

「お前」
後ろから甲高い声が聞こえた。振り向くと、やっぱりあいつがいた。二本の角に耳まで裂けた口。羽まで生えた真っ黒な全身。よく見ると尻尾もあった。さっき地下鉄にいた奴だ。

その横を、リュックを背負った女子高生の自転車が知らずに通り過ぎていく。やっぱり普通の人間には見えないようだ。

「お前、なにものだ」
私にケンカ打っているの? いいかげんにしてよ。

「あんたのせいだからね」
「なに?」
私が言い返したもんだから、一瞬こいつはひるんだ。やっぱり見かけほど凶暴じゃない。
「あんたのせいで特売に間に合わなかったんだから」
「特売……?」
「それにねえ。そんな格好で突然現れたら、誰だってびっくりするでしょ」
「そんな格好……?」
「いまどきコスプレイヤーでもそんな格好しないわよ。それに腹を空かした若者を脅かして。そんなんだから世の中おかしくなっちゃうのよ」
「はあ?」
「悪魔だったらね、もっと実のあることをしてよ。バカばっかりの政治家を懲らしめるとか、トクリュウを警察に突き出すとか」
「お前……何を言ってるんだ」
「だいたいなんで、電車の中に出るのよ」
「お、俺は地下鉄が好きなんだ」

こんなのばかりだから、世界はおかしくなるのだ。鉄オタの悪魔なんて、ホントいい加減にしてほしい。でも、こいつ、ちょっと言葉が震えている。

「お前……俺が世界のために何かできると思っているのか」
「できるわよ。現代人はただでさえ疲れているんだから。例えば……励ますとか……」
「は、励ます? 俺が?」
「ま、その格好じゃあ怖がられるだけだから、姿も声も変えなきゃダメだけど」

こいつ、けっこう素直かもしれない。かぎ爪のついた両手を広げて自分の姿をながめている。

「その気があるなら、少し手を貸すわ」
「お前……魔女だな」
今頃気づくとは、思ったよりバカな悪魔か、それとも疲れているのか。

「疲れているみたいね、じゃあ試してみる?」
バカと言ったら怒りそうだから、そう言った。

「お前なら、俺を変えられるのか?」
「じゃあ、そこにじっとして」
「こうか」
悪魔が直立不動した。尻尾がくるくると丸まる。
「そう」
その妙な姿にちょっと吹き出しそうになる。
「お前、名前は?」
「タエ子」
「タエ子、お前、へんなやつだな……」
私はにらみつけた。

「もう一回、私のことへんって言ったら、記憶を全部消すわよ」

そう言って指をパチンと鳴らした。

◇◇◇

――俺は生まれ変わった。

正直、うまくいかないこともある。

長く悪魔として生きてきて、疲れているのかもしれない。

だが、ちょっとした噂が地下鉄のなかで都市伝説になっている。

「心配しなくていいよ、君のそばにいる」

俺は地下鉄の中で頑張っている奴を見つけるとそうささやく。三つ揃えのスーツにオールバックの髪型。タエ子に似た黒ぶちの眼鏡。

最近は「水曜日の神様」と呼ばれている――


<了>



(作者より)
魔女のタエ子さんの別のお話です。併せてお読みいただけますと幸いです。緩やかにつながっていますが、単独でお読みいただけます。